buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

天津の7つの租界

2011年08月30日 | 歴史の中の1ページ


中国「天津」は北京から130キロ、国際的な港町として開け、現在も中国の5つの直轄都市となっています。
もともと天津という街の名は「天子が海河を渡った渡し場」という意味。


19世紀後半から20世紀前半にかけて、天津にはイギリス、フランス、アメリカ、日本など、9か国の租界があったそうです。
今回、私が何度も訪れた天津外国語大学は
租界の中、歴史的建造物群に囲まれた『馬場道』というばしょにあります。

天津には現在でも数千軒の歴史的な建物がそのまま残っており、様式はバロック、ロココ、ゴシックなど様々です。
また、建物は西洋建築で、庭は中国の庭園風という当時の西洋人の自由な発想からできた折衷建物もあります。
実は「ここはどこ?アジア?それともイタリア?」というような
錯覚を起こす一画もあります。
9カ国もの租界があった天津ですが、それぞれの租界は国の威信をかけて、街作りを競い合ったということです。



しかしその中で、街作りにはほとんど関心を持たなかった国があります。それが日本、、、です。
明治維新後、わずか40年弱、
街作りは質素、あるいは雑然としていて、欧米の租界に比べると明らかに見劣りしたものでした。


ラストエンペラー・溥儀は、北京を追われた後の1925年に家族や従者を大勢連れて天津にやってきました。
溥義は日本租界にある『静園』の中の洋風建築の建物(1921年完成)に住んでいました。
そのため、天津には溥儀や皇族の邸宅もたくさんあります。

さて、現在の天津。
イタリア政府の後援のもと、イタリア租界の歴史的建造物は見事によみがえりました。
天津の租界は、上海の外灘の建物群と比べても見劣りしません。
なぜ、もっともっと有名にならないのか、ちょっと不思議な気がしています。


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山にかかわる3つの『K』

2011年08月14日 | 歴史の中の1ページ


山と外国人に関わる3つの「K」のつくリゾート地
軽井沢(KARIZAWA)を別荘地として発展させたカナダ人宣教師アレギザンダー・ショー




アメリカ人宣教師ポール・ラッシュ博士の清里(KIYOSATO)



そして上高地(KAMIKOCHI)を登山基地として紹介したウォルター・ウェストン。




先日訪れた栂池自然園の資料室で、明治時代に日本に来たイギリス人宣教師、ウォルター・ウェストンの展示を見つけました。
ウォールター・ウェストンはイギリス山岳会の会員であり、 日本アルプスを世界に紹介し、
日本山岳会の創設にも深く関わった人物です。
1861年、イギリスのダービーで生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業後、リドレーホール神学校で学び
1988年(明治21年)27歳のときに英国聖公会・ 教会伝導協会派遣の宣教師として
日本にやって来ました。

ウェストンはもともと山が大好きで、 聖職に就いた25歳頃よりスイス・アルプスで
本格的な登山をはじめヴェッターホルン、マッターホルン、ブライトホルンなどの登頂のほか、
アイガー、ユングフラウ等にも挑んでいたそうです。

ウェストンは宣教師として3度来日、熊本、神戸、横浜に居を構え、宣教活動の合間に日本各地の山々に登り、
日本の山村の風俗・ 習慣などを本に書き、海外に紹介しました。

上高地の宿、清水屋にはウェストンが残した外国人登山者のための署名簿「クライマーズブック」が残っています。
そこには以下のような記述があります。

「クライマーズブック」(登山者の本)-上高地温泉場にて- 
1914年8月23日ウォルター・ウェストン牧師(英国アルパイン・クラブ・日本山岳会・スイス山岳会所属)より
ヨーロッパやアメリカからこの地を訪れる登山者の為に、この本を残します。
上高地は日本アルプスの中で登山基地として、登山者の間に広く知れ渡るようになりました。
そこで、ヨーロッパアルプスと同じように、日本アルプスの登山記録を残すことが必要だと思います、、、、、

この後の記述は1891年のウェストンの槍ヶ岳初登頂の年から1914年までの登山日誌のような形で書かれているそうです。
ルートの紹介やキャンプの場所、景観の良いスポットの紹介など、後の登山者への指南書のような役割も果たす内容になっています。

さて、明治のころは日本人に『山歩きをして楽しむ』というような習慣はありませんでした。
日本人は山は聖なるものとし、ウェストンが登山をしようとした時、『外国人に山を汚されてしまう』と
入山を拒んだ村もあったそうです。
その後、彼は日本山岳会創設にも尽力し、日本古来の信仰登山からスポーツやレジャーとしての登山、
ハイキングへと人々の意識を変えました。
日本の近代登山発展のための貢献ははかり知れないものがあり、日本の近代登山の大恩人なのですが、
一方で教会の反感を買うほど登山に夢中になり、最後には教会の職を辞してしまいます。

ウェストンが登った山は以下です。

1891年 浅間山、槍ヶ岳(試登)、御岳、木曽駒ヶ岳
1892年 富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳
1893年 恵那山、富士山、大町から針ノ木峠超え、立山、前穂高岳
1894年 白馬岳、笠ヶ岳、常念岳、御岳
1902年 北岳
1903年 甲斐駒ヶ岳、浅間山
1904年 地蔵岳、北岳、千丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳、富士山
1912年 有明山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳
1913年 槍ヶ岳、奥穂高岳、焼岳、霞沢岳、白馬岳
1914年 立山温泉から針ノ木峠超え、燕岳、大天井岳、富士山


彼は山に登り、何を考えていたのでしょうか。

詩篇121篇1・2節を思い出します。
 「私は山に向かって目を上げる。
  私の助けは、どこから来るのだろうか。
  私の助けは、天地を造られた主から来る。」

山に登ると、ちょっとだけ他の人より天に近くなったような
そんな気が、私はします。





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品川宿を歩く~土蔵相模

2011年06月30日 | 歴史の中の1ページ



京浜急行北品川駅は京浜急行本線の中で最も人の乗り降りの少ない駅ですが、、、
今は昔、このあたりは東海道で日本橋につぐ第一番目の宿場として繁栄をきわめた品川宿でした。
旅籠百軒としても有名です。

私たちはこの旧東海道沿い(歩行新宿)に25年以上住んでいますが、ここに
江戸時代、品川宿のなかでも高級妓楼として知られた『相模屋土蔵』があります。
漆喰の土蔵造り、外壁がナマコ壁だったことから「土蔵相模」と通称されていたそうです。



実は、土蔵相模、我が家から2、3分の距離です。

幕末には土蔵相模には「志士」たちが出入りしました。
特に文久2年(1862)12月12日夜、高杉晋作、井上馨、伊藤博文ら長州藩の志士が品川御殿山に建設中の
英国公使館焼き討ち事件を起こしたときは、その集結地となったそうです。
また、桜田門外の変決行前夜、浪士たちが別杯を交わしたのも相模土蔵だったそうです。

そんな由緒ある『土蔵相模』は私たちが旧東海道に引っ越してくる前の年に取り壊されてしまいました。
現在は『ファミリーマート』とマンションになっています、、、。

さて、北品川の駅まえで、『土蔵相模』にちなんだお芝居の案内を見つけました。



巣林舎第9回公演in品川宿  楽間
近松門左衛門作『義経土蔵相模』
夜7時開演 
(6月22日から7月3日まで)




さて、写真は相模土蔵のお隣にできた『ゲストハウス』



3月11日以前には外国人でにぎわっていましたが、最近は日本人のビジネスマンの宿泊が多いそうです。
平成の時代、宿屋はこのゲストハウスとウィークリーマンションだけになってしまいました。




写真は街角の路地にある井戸。迷路のような小道が北品川界隈にはめぐらされていて、お女郎さんが逃げた時に
逃げ切れないようになっていた、、、と言われています。


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遠いところへ

2011年06月27日 | 歴史の中の1ページ


あ~、どこかとおい所にいってみたいな~、と思った。
『遠いところ』とパソコンに入れて検索したら

遠いところをわざわざおいで下さり、ありがとうございました。
Thank you for coming all this way to meet with us.

というフレーズが出てきた、、、!



遠いところは、もしかしたら過去、明治時代あたりかもしれない。
新しい国を作るためにみな活き活きと動いていた。
誰もが新しい国を語れた。

これは『仁~Jin』に影響され過ぎかな、、、。




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個性強烈な偉人 野口英世博士

2011年06月23日 | 歴史の中の1ページ



偉人の中の偉人と言えば、『野口英世』博士でしょう!
福島県出身で、福島の代表的な人物です。
もちろん私も小学生の時に野口博士の物語(伝記)を読みました。
黄熱病、梅毒の研究で知られている世界的な細菌学者です。
でも、そのすばらしい細菌学の業績の向こうには、かなり破天荒な野口先生の
実像が見えてきます。

まずは博打が大好きでした。
お金も貯めるということはせず、賭博や遊興、遊郭で使うことが大好きだったようです。
また、裕福な家庭の女性と婚約をして、その持参金を海外渡航の費用に充て、
結局は婚約破棄をしてしまう、など、今だったら結婚詐欺まがいの事件を起こしています。
婚約破棄のために奔走したのは、野口先生の友人(この方もお金を相当野口先生につぎ込んでいた)
です。

まさに医学的業績でも、その生き方でも型破りだったと言えるのでしょうか。

こんな野口先生を支える人たちが、またすばらしいのです。
借金ばかりしていても、野口先生のためにサポートを続けます。
それらの援助がなければ野口先生の偉業の達成はなかった、にちがいありません。。

どこか人間的にも深い魅力があったのでしょう。
それじゃなければ、博打好き、女好き、借金まみれの人物を助けるなんて
ふつう、あり得ませんよね。

子どもの時に野口英世伝を読んだ方は
ぜひ、今、もう一度、野口英世物語を読んでみてください。
波瀾万丈、桁違いの生き方に絶対に驚くと思います。



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http://ja.wikipedia.org/wiki/野口英世


写真は安達太良山(福島) この麓の岳温泉。
今はどうなってしまったのでしょうか?
とってもいいお湯が出ているのです。



ピットマン先生の見た明治の東京1

2011年06月12日 | 歴史の中の1ページ


明治時代に日本にやってきた宣教師、そして建築家であった
ジェームズ・マクドナルド・ガードナー(あるいはガーディナー)は素敵な家族に支えられて、
たくさんの教会堂や地震にも耐え得る建物を設計しました。

これは以前のブログの記事からですが

>>1880年(明治15年)に東京築地の外国人居留地にやってきたガードナーは23歳。
すぐに立教学校(立教大学の前身)に校長として赴任します。
23歳の若きガードナーは教育者として立教学校を経営しましたが、同時に建築家としての意欲も高かったのだと思います。
1891年立教大学校を退任し、建築家として本格的に仕事を始め、洋風建築の建物を作っています。
1894(明治27年)年6月20日の明治東京地震でガードナーが設計した立教学校校舎などの建物が被害を受けました。
その後、ガードナーは建物の耐震性も考慮した設計を行うようになったといわれています。

さてそのガードナーの奥さんについての貴重な文献を立教女学院のA先生よりいただきました。

奥さんの名前はピットマン先生。
アメリカンチャーチから東京に派遣された最初の女性の宣教師でした。
実はご主人のガードナー宣教師より3年早い1877年に来日しました。

ピットマン先生は、当時築地にあった立教女学院で教職に就きます。
まだ23歳の若い女性です。
当時、アメリカからアジアの果ての日本に23歳の女性がひとりでやってくる、とは
どれくらいの決断と勇気のいることだったでしょうか。

1878年1月12日のミス・ピットマンの手紙にはこのような記述があります。

「私の今の環境は、私の予想よりはるかに勝るものでした。というのは私は個人的な楽しみを
たくさんとったり、ありとあらゆる方面で、こんなにも心地よく過ごせるとは全く期待して
いなかったからです。
ブランシェ夫人もクーパー夫人もまるで姉妹のように親切で優しくしてくださります。
私たちのよき主教も大変親切で、私はすでに横浜でも東京でもたくさんの友人をミッショナリーや
外国人の中から作ることができました。
私は日本が予期していた以上に美しいとわかったし、
前々から日本の人たちを好きにならねばと思っていましたが、
そんな義務感以上に日本人を好きになりました。
それやこれやで、異国にあっても私は非常に有益で、また幸せに満ち足りた生活が
送れるのではないかと期待しています。』

ミス・ピットマンの立教女学院での教員生活は友人に恵まれ、励まされて
とても充実していたようですね。

1882年、ガードナー宣教師とピットマン先生は東京芝の聖アンデレ教会で
C・M・ウイリアムズ主教の司式で結婚しました。
ふたりはどのような経緯で結婚したのでしょうか、、、。

これはもう少し、A先生に提供していただいた資料を読んでから、書いてみようかな~、と思っています。




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<出典>
「立教女学院100年史」より

写真はピットマン先生が校長をした立教女学院(現在)の礼拝堂














ヨーロッパからアメリカをへて日本へ 

2011年06月05日 | 歴史の中の1ページ

明治初期、日本の政治上の建設に最大の貢献をしたのは
フルベッキというオランダ生まれのアメリカ人です。
裕福なユダヤ系オランダ商人の家に生まれたフルベッキは、オランダ、イギリス、フランス、ドイツ語の教育を受け
語学が堪能でした。
1852年に渡米、エンジニアとして働きましたが、病気を機に宣教師としての勉強をはじめ、志願し、
オランダ改革派教会から派遣され1859年に日本にやってきたのです。
ここまでの経歴では、フルベッキがひとつの国に留まらず、グローバルな視点を持った人だったのかがわかります。
実はフルベッキは手続き上では『無国籍』であったそうです。
何か、そんなことも関係しているのでしょうか、、、。

フルベッキは御雇い外国人として招聘され、
まずは長崎に住み,長崎奉行所管轄の済美館や薩長土肥の俊秀が集う佐賀藩の致遠館で英語などを教えました。
学識があり、芸術を解し、高潔で誠実な人柄のフルベッキは多くの人に敬愛され、信頼を受けていました。
彼の教え子の大隈重信,副島種臣らは明治維新政府の高官となってから、彼を東京に招き,
教育,外交面での彼の助言を重んじたそうです。
また、当時の最高実力者であった岩倉具視に『岩倉使節』の派遣を進言しています。

さて、そのフルベッキには夫人との間に7人の子どもがいたそうですが、
次女のエマ・ジャポニカ・ヴァーベックは1863年長崎生まれ。
自分の子どもの名前に『ジャポニカ』と入れるところに、フルベッキの日本への思いが込められているように思います。
多分、エマは日本語が流暢に話せたんでしょうね~。

エマはフルベッキの友人であった聖公会の宣教師チャニング・ウイリアムスから洗礼を受けました。
その後、エマはアメリカで教育を受け、20歳の時にアメリカ聖公会の宣教師に志願し、
再び日本に戻ってきます。
彼女は父であるフルベッキが亡くなるまでの10年間、立教女学院で英語と音楽を教えました。
父が亡くなった翌年の1904年エマは帝国大学で英米法を教えていたH.T.テリーと結婚します。 
テリーはその後も10年間日本に留まり大学で教えていました。その後家族もともに帰国、
エール大学の教授となったそうです。

フルベッキとエマは親子2代に渡って、日本の教育、政治に大きな影響を与え、日本の近代化に
貢献したのです。

娘が自分と同じ使命(宣教師)を持って、また日本に戻ってきてくれる、と知った時の
父親はどんな気持ちでしょうか。
きっとことばでは言い表せないくらい嬉しかったと思います。
ちょっと羨ましい感じがしてしまいます。



参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/グイド・フルベッキ
梅渓昇「御雇い外国人~明治日本の脇役たち」


ところで、フルベッキですが、
日本では日本人が発音しやすいようフルベッキ(Verbeck)と名乗り、
現在に至るまでこのように 呼ばれているそうです。
しかし、娘のエマはヴァーベックという表記を使っています。



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写真はエマが教えた現在の立教女学院








プリンセス・トヨトミと辰野金吾の遺産

2011年05月31日 | 歴史の中の1ページ


御雇い外国人のジョサイア・コンドルは明治時代にイギリスから来日、日本の近代建築の基礎を築き、
日本人の優秀な設計者を育てた人です。

コンドル先生は東京大学工学部の前身、工部大学校の教師でした。
その第1期生で、工部大学校を首席で卒業したのが辰野金吾です。
辰野はその後、コンドル先生の故郷、ロンドンに官費(国費)留学、西洋建築の学びに励みます。
帰国後は精力的に仕事に集中し、日本銀行本店、日本銀行大阪支店、京都支店
中央停車場(東京駅)大阪市中央公会堂などを設計しました。

赤煉瓦に白い花崗岩の横縞が見事な調和を見せるデザインは、辰野金吾が得意とした
ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、現在は「辰野式」とも呼ばれています。




上の写真は東京駅、下の写真は日本銀行本店



写真を見ると、赤れんがの建物はいかにも頑丈そうですよね。
そんなところから辰野は辰野『堅固』と名前をもじってあだ名で呼ばれていたそうです。


さて、現在上映中の映画『プリンセス・トヨトミ』の原作本
万城目(まんきめ)学の同名の小説の195ページから、辰野金吾の設計した建物について触れられています。
実は大阪城や国会議事堂、赤れんがと白い花崗岩の洋風建築はこの物語の大切なポイントです。
(ネタバレになるので、ここまでにしておきます)
原作はけっこう引き込まれる面白さですが、映画は、、、
ミスキャストかな~、、という感じ。
原作のよさを描き切れなかったような感じがしますし、原作の変更の仕方に少々違和感を覚えます。
映画は原作を越えず、、、なのかな~
しかし、本を読まずに映画だけ見れば、なかなかの作品のようですよ。
(↑夫の話)

話を辰野金吾に戻しますが、
彼は九州唐津藩の貧しい武士の子どもでした。
彼の英語の師匠は有名な『高橋是清』で、彼のつてで上京し、工部大学校で
コンドル先生の第1期の教え子として学ぶことになります。
辰野金吾は貧しい下級武士の息子であり、彼を除けば同期生はみな上席の武士の息子か縁者でした。
ですから、辰野は明治という新しい時代を利用し、以前の身分を越えて
活躍しようというチャレンジ精神に燃えていたのではないでしょうか。

辰野金吾はあるとき、コンドル先生に言います。
『私は東京に3つの建築を残したいと思います。』
「それはなんですか。」
『まず第1に、日本の中央銀行です。次に東京中央駅、そして最後にいつか開かれるであろう国会議事堂です。』

これらの建物は近代国家を代表する建造物です。
3つの建物を造るということは、まさに国家的事業に必ずや参加したいという辰野の野心を表しているように思えます。
また、実際にその3つの建物のうち2つを設計し完成させるのです。

コンドル先生をはじめとする御雇い外国人に教育を受けた辰野らは、日々学び、技術を身につけ、経験を積んでいきました。
彼らが成長するにつれて、当然の流れかもしれませんが、日本の国家的事業は次第に外国人の手から離れていきました。


さて、最後に下の写真ですが、日本銀行本店のドアです。
頑丈そうですね。
もちろん辰野『堅固』の作品です。



それから、上のドア、『プリンセストヨトミ』の映画に出てきた地下通路に続くドアに

どことなく似ているような気がします。


<参考文献>
辰野金吾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE
畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 御雇い建築家ジョサイアコンドルの生涯』河出書房新社
梅渓昇『御雇い外国人~明治日本の脇役たち』講談社学術文庫
万城目学『プリンセス・トヨトミ』文春文庫





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幸せを探す旅~

2011年04月12日 | 歴史の中の1ページ

Über den Bergen
                Karl Busse
Uber den Bergen,
weit zu wandern, sagen die Leute,
wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging,
im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
Uber den Bergen,
weit, weit druben, sagen die Leute
wohnt das Gluck.


山のあなた
     カール・ブッセ
     上田敏訳 『海潮音』より

山のあなたの 空遠く
「幸い」住むと 人のいう
噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて
涙さしぐみ かえりきぬ
山のあなたに なお遠く
「幸い」住むと 人のいう


ドイツ新ロマン派の詩人、カール・ブッセ(Carl Busse,1872-1918)の有名な作品「山のあなた」は
明治時代の詩人、翻訳家、文学者である上田敏の翻訳詩集『海潮音』(明治38年)に収められています。
上田敏の訳は時代を超えた名訳と言われていますが、
もう少し(自分に)わかりやすく解釈してみると、、、

遠い遠い山のずっと向こうには幸せがあるんだって、誰かが言っていた、、、。
それが本当なら、
と私も幸せを探しに行った。
私と同じように『幸せ』を探している人がたくさんいたけれど、
私が求めていた「幸せ」は見つからなかった。
悲しくて涙を浮かべながら、戻ってくると
他の人が教えてくれた。
その幸せはね、あなたが探しに行った山のもっとずっと向こうにあるんだよ、って・・・。

ちょっとさびしい、それでいて心惹かれる詩です。

人はみな確かで、壊れたり崩れたりしない確固としたものを
探して一生を旅しているのかもしれません。
それが『幸せ』なのか、何なのか、、、。


ところで、このカール・ブッセですが、1887年、来日して東大で5年間も哲学を講義していた、、、ということです。
つまり、御雇い外国人のひとりだったのです。
ブッセはドイツに帰国後、大学教授となり、1892年出版した『詩集』で有名になりました。。
一方、ブッセの詩を翻訳した上田敏は1897年(明治30年)に東大を卒業しています。
ですから、二人の間には5年ほどのタイムラグがあり、面識はなかったということになります。

上田敏は東大の大学院でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の学生だったそうですが、
小泉八雲から
「英語を以て自己を表現する事のできる、一万人中、唯一人の日本人学生である。」と
最大級の賛辞を贈られています。

その後、東京高等師範学校(筑波大の前身)の教師となりましたが、東大を辞した小泉八雲の
後任として東大で教えます。
本当に優秀で、小泉八雲に可愛がられていたのでしょう。

1908年にヨーロッパに留学し、帰国してからは京都大学の教授となりました。
また1910年には、若干35歳で慶応義塾大学文学科顧問に就任しています。
ここまでは順風満帆のように思えますが、
残念なことに上田敏は大正5年(1916)7月9日
腎臓疾患(尿毒症)のため東京の自宅で急死してしまいます。
それは、親交の深かった森鴎外を訪ねようとしていた時だった、と言われています。
享年43歳。
まだまだ活躍してもらいたかった、、、あまりにも早すぎる死だと思います。

上田敏は東京の築地生まれ。築地には外国人の居留地があり、特に多くの教育者、
文学、語学の教師、宣教師の住んでいたところです。
こんな環境も上田が優れた翻訳者、文学者、教育者となる素地だったのかもしれません。



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写真は目黒川のさくら。日曜日に撮りました。
サクラ、咲きましたね。





ハマっていること

2011年04月09日 | 歴史の中の1ページ



明治時代の御雇い外国人に完全にハマってしまった、今日この頃です。
多分、学校で留学生たちのキャリア指導などをしている影響もあるかと思いますが、、、。

江戸末期から明治にかけて日本にやって来た1万人近い外国人たちの
その技術や知識が日本の文明開化の大きな原動力になっていたことは確かです。
調べれば調べるほど、彼らの持っていた信念や理想には敬服です。

ただ、漠然として日本に行きたい、と思っていたのではなく
その持っている力を日本のために役立てようと考えていたのです。
何をしたいか、というより、何ができるか、それがどう役に立つか、ということを
外国人たちは考えていたのではないでしょうか。

多くの御雇い外国人は熱心に日本語や日本の習慣を学びました。
しかし彼らにとって語学は伝達の手段であって、本当に伝えたかったのは
その技術や知識なのです。

そんなこんなで『御雇い外国人』について、熱く思いを語る私に
A学院のB先生がA学院の資料室からウイリアムズ・チャニング(立教大学の創設者)に関する
文献を持って来てくださいました。

小冊子ですが、ウィリアムズ・チャニングがどのように日本で過ごしていたかが
エピソードと一緒に書かれていて、読んでいて本当におもしろいのです。

日本に着たばかりの時、長崎でウィリアムズは
幕府の役人、武士、医師、僧侶などに英語や世界情勢を教えていたということです。
ウィリアムズ・チャニングの学生の中には佐賀藩士で討幕運動に係わり、
東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設した大隈重信や
日本の郵便制度を作った前島密もいたそうです。


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さて、
明日は休日です。もし天気がよいようだったら、築地の居留地跡に行ってみようかな~、
と思っています。
私の住んでいる品川からは30分の距離です。
そしてもうひとつの居留地があった横浜までも30分の距離。
趣味にはもってこいの場所に住んでいるって、偶然にしても嬉しくなりました。



写真は築地近くの浜離宮恩賜公園










横須賀ストーリー

2011年04月03日 | 歴史の中の1ページ


次男が引っ越しました。
家の中が静かになった、食事の準備にほとんど時間がかからなくなった、
洗濯物の量が減った、など、次男がいなくなって、改めて感じることが
そこここにあります。

さて、次男が引っ越したのは、神奈川県の横須賀(厳密に言うと最寄り駅は横須賀市
住まいは横浜市)なのですが、、、

横須賀は江戸時代から外国人にゆかりのある土地です。
教科書で勉強したウィリアム・アダムス(=三浦按針、徳川家康に仕えた)
1853年浦賀沖に黒船でやってきたアメリカ合衆国東インド艦隊司令官のマシュー・ペリー提督などは、
誰でもが知っているのではないでしょうか。

幕末になると、外国に対抗するため海軍の重要性が強くなり、横須賀製鉄所の建設が始まります。
ここで小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)らや
御雇い外国人、フランスからやって来たヴェルニーの活躍により、横須賀に製鉄所ができ、
日本の造船技術が飛躍的に上がりました。



さて、次男の住む場所からしばらく行くと、安針塚がありますが、その先には
第4代アメリカ横須賀海軍基地司令官として、戦後の横須賀の発展に尽力をした、ベントン・デッカーさんの
胸像のある横須賀中央公園に着きます。

デッカーさんは明治の人ではありません。

デッカーさんは、戦後間もない1946(昭和21)年から50年までの4年間、アメリカ海軍基地司令官としてこの地に着任。
横須賀を戦後の日本復興の見本にしようとして、教育と医療、福祉の充実に力を入れたそうです。
デッカーさんは経済・産業の発展のため企業を誘致したり、衣笠病院をはじめとした病院の近代化をはかり、
全国のキリスト教関係者に声をかけ、栄光学園や清泉女学院、青山学院大工学部などの創設にかかわったそうです。

これらの精力的な支援は横須賀市民からも高く評価され、
当時の横須賀市議会からは、なんと市長になってくれないか、と要請があったというのですから
驚きです。


栄光学園の2008年の創立記念式典の校長先生のメッセージの中に
下記のようなものがあります。
ttp://www.eiko.ed.jp/00ekh/web/gt/076/076-026.pdf#search='デッカー司令官'

この学園の創立の経緯については中1のときに話しました。敗戦によって社会が疲弊していた時期に、
横須賀の進 駐軍の司令官であったデッカー大佐からの要請を受けて、イエズス会が学校を始めることになった、
ということでした。
デッカー大佐は戦後の日本の社会を作っていくために は教育が重要である、健全な価値観を持ち、自分の力を
自 分のためだけではなく他人のため、社会のために使うこと ができる人を養成することが不可欠であると考えました。
そして1947年4月に栄光が開校し、今日まで61年の歩み をたどってきたわけです。

栄光学園がめざす “Men for Others”の“Others"は、とくに弱い人、貧しい人、周辺に追いやられて
しまっている人です。
そのような人たちが本当に幸せだと感じ、人間 として誇りを持って生きていけるような状況にすることが、
私たちの使命ではないかと思います。


ここにもひとり、日本を愛した外国人を見つけました。

デッカーさんは軍人でしたし、司令官として大きな権力を持っていた人です。
彼は持てる力をよく理解し、それを活かしました。
自分の「横須賀を日本復興のモデルにしたい」という信念に基づき、わずか4年の赴任でしたが、
その間、まさに精力的に働いたのです。




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さて、次男は私にとっては興味津々の場所に住むことになりました。
ちょっとうらやましいな~、と思います。
次男の新居(?)は大学の裏門まで歩いて1分、主な校舎まで3分の好立地です。

ちゃんと勉強してくれるといいな~。
がんばってね。

おととい、追加で醤油1本、米5キロ、(本人が絶対必要と言った)オリーブオイル1本
ラーメン丼ひとつ、などを送りました。
早速、昨日連絡あり。
「ラーメン丼が一番嬉しかった!」、、、、。








御雇い外国人 ガードナーの軌跡

2011年04月02日 | 歴史の中の1ページ



明治時代に日本にやって来た外国人(御雇い外国人)
ジェームズ・マクドナルド・ガードナーについて調べてみました。
ガードナーは『宣教師、教育者、建築家』という3つの肩書きを持ち、どの分野にあっても
秀逸であった人です。
(もしかしたら、ガードナーは宣教師なので、御雇い外国人には含まれないかもしれませんね。)

1857年、米国セントルイスで生まれで、ハーバード大学建築科に入学するも、1877年(明12年)に中退してしまいます。
その後、聖公会宣教師で立教学校の創設者であったチャニング・ウィリアムズの要請で、
アメリカの聖公会伝道局から宣教師として日本に派遣されることになりました。
1880年(明治15年)に東京築地の外国人居留地にやってきたガードナーは23歳。
すぐに立教学校(立教大学の前身)に校長として赴任します。

23歳の若きガードナーは教育者として立教学校を経営しましたが、同時に建築家としての意欲も高かったのだと思います。
1891年立教大学校を退任し、建築家として本格的に仕事を始め、洋風建築の建物を作っています。

1894(明治27年)年6月20日の明治東京地震でガードナーが設計した立教学校校舎などの建物が被害を受けました。
その後、ガードナーは建物の耐震性も考慮した設計を行うようになったといわれています。

1894年には一時アメリカに帰国しました。
その際、中退してしまったハーバード大学に論文を提出し学位を受けます。
すでに建築家としてのキャリアを積んでいたガードナーですが、20年近くかかって大学を卒業したことになります。
その後、また日本に戻り、古巣の立教大学で英語・英文学の教授となりますが、1903年にはガーディナー建築事務所を開業します。
ガードナーの足跡をたどると、教師、建築家、教師、建築家とキャリアを重ねていることがわかります。
どちらにも惹かれるものがあったのでしょうね。

ガードナーの家族は奥さんのフローレンス・ピットマンと3人の子どもです。
フローレンスとは日光市で出会ったそうです。
彼は日光に「ガードナー日光山荘」を建て、ここで夏を過ごしたそうですが、、、
きっと奥さんや家族を連れて来たのでしょうね。
日光にはもうひとつ、ガードナーの作った建物、ロマネスク風、石造りの聖公会日光真光教会があります。
のちにガードナーの遺言により、ガードナー夫妻はこの教会に葬られたということですから
ガードナーと彼の家族にとって日光は『故郷』だったのかもしれません。

ガードナーは1903年、ガードナー設計事務所を開設します。
その後、邸宅や教会堂の設計に力を入れますが、彼の作った建物は関東大震災の時にかなりの被害を受けたそうで、
現在は10棟ほどしか残っていないということです。

ガードナーは1925年築地の聖路加病院(現在の聖路加国際病院)で亡くなります。68歳でした。
ガードナーは宣教師として来日、立教学校での教育、そして数々の洋風建築を日本各地に残し、
その一生を閉じました。
彼はなんと68歳の生涯のうち、45年間を日本で過ごしたのです。


私も知らず知らずのうちにガードナーの作品の建物を日本各地で見ています。
まずは京都にある日本聖公会聖アグネス教会。
京都御所のそばにあり、茶色いれんが造り、ゴシック風の教会堂で、1923年に建てられました。
(最初の写真)

外交官の家(旧内田家住宅)は、1910年(明治43年)に建築された塔屋付き木造2階建の西洋館で、1997年に、国の重要文化財に指定されました。
もともとは渋谷区南平台にあったものですが、現在は横浜の山手イタリア山庭園に移されています。




日本聖公会弘前昇天教会教会堂(下の写真)も大正12年建造のゴシック風の教会堂です。
ガードナーはもともと聖公会から派遣された宣教師でしたから、日本各地の聖公会の建物を作っているのです。
この教会には日本最古のリードオルガンがあり、現在も活躍中です。






残念ながら日光の真光教会教会堂は何度も日光を訪れていながら、行ったことはありませんでした。
次に日光に行く時はぜひ訪れてみたいと思っています。


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明治の時代に日本にやって来たお雇い外国人は1万人近くいるとのことです。
今日はそのひとり、ジェームズ・マクドナルド・ガードナーについて、調べてみました。
最後までおつき合いくださりありがとうございました。

ところで、明治時代の横浜と東京築地はお雇い外国人にとっては切っても切れない場所だったようです。
次回はそのあたりを趣味の領域で調べてみたいと思っています。


御雇い外国人の他のブログは「カテゴリー 歴史の中の1ページ」を参考にしてください。


出典・参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームズ・ガーディナー
http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/nikkoshinkochach19850802.html日光真光教会
http://maskweb.jp/b_nikkonskk_1_1.html近代建築散策
http://ja.wikipedia.org/wiki/チャニング・ウィリアムズ






「Do for others」

2011年03月29日 | 歴史の中の1ページ


明治時代には多くの外国人が日本にやって来て、新政府の新しい国づくりを支えていました。
法律、医学、軍事、教育などの専門家がヨーロッパやアメリカから明治政府に雇用され、
その数1万人を越えると言われています。

医学者で宣教師であったイギリス人のヘンリー・フォールズは1873年(明治6年)
インドの宣教を経て日本にきました。
彼は現在の築地に居をかまえ、築地病院を設立、外科と眼科治療をしながら、宣教しました。
築地病院は現在の聖路加国際病院です。

そのフォールズが日本に来る10年前の1859年(安政元年)、医者であり、宣教師であったヘップバーンが
来日しました。

ヘップバーンは日本に来る前には中国での宣教を目指していました。
一度は中国アモイに入ったものの、大流行していたマラリアを患い、帰国を余儀なくされました。
その後、ニューヨークで開業し、コレラの治療などで成果をあげ、彼の病院は有名になりました。
病院経営はその後も順調でしたが、ヘップバーンは日本での宣教に使命を得ます。
彼はすべてを投げ打ち、ひとり息子も知人に託して妻のクララとともに日本に来たのです。

宣教に燃えていたヘップバーンは
来日後はすぐに、日本で医療活動(横浜の寺での医療活動)、教育活動を始めました。
また、横浜居留地にはヘボン塾という小さな学校を開きました。
のちにヘボン塾は明治学院大学、フェリス女子大学へと発展していきます。
さて、
このヘップバーンというのはヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士のことです。
博士は日本と日本人を愛し、日本語に精通し、聖書を翻訳するために、辞書を編纂しました。

ヘボン博士にとって日本での時間はあっという間に流れていったのではないでしょうか。


「余等夫婦の残年僅少(わず)かなるべしといへども永く日本を忘るること無かるべし。」

と日本を離れる時に、ことばを残しています。
ヘボン博士はこのとき77歳になっていました。
彼は母国を離れ、33年間も日本に滞在していたのです。

「Do for others」

これがヘボン夫妻の生涯を貫く信念だったと言われています。

さて、もうひとり、アメリカ人のバプテスト派の宣教師アルバート・アーノルド・ベネットについて
書きたいと思います。
ベネットは1879年(明治12年)9月にマサチューセッツ州で結婚しましたが、新妻ベラとともに
そのわずか3ヶ月後には日本に赴任をしたのです。
彼は宣教師でしたから、横浜を起点に宣教活動をしました。
1884年横浜バプテスト神学校を設立し、そこで日本人のキリスト教伝道者の教育と育成をしたそうです。
この神学校が現在の関東学院大学の前身となりました。

1896年(明治29年)岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmを震源とする明治三陸大地震が
起こりました。M8.2~8.5という巨大地震で、地震後の津波が本州観測史上最高の波高38.2mを記録するなど
津波被害が甚大だったそうです。
ベネットはこのとき、三陸大津波の救援のために横浜で救援金を集め、物資をたずさえ
現地に赴き、被災した人たちのために1ヶ月にわたり不眠不休の働きをした、ということです。

1909年、ベネットは横浜バプテスト神学校創立25年記念会で病をおして奉仕し、その翌日、天に召されました。
享年60歳。

横浜外国人墓地にあるベネットの墓の墓碑銘には
“He Lived to Serve”(生涯にわたって奉仕の人であった)
と記されてあるそうです。

さて、
東北地方の大地震では、今、たくさんのボランティアが必要とされています。
もちろん人によってはベネットのようにすぐに行動を起こして、現地に赴くこともできるかもしれませんが、
今回の大地震ではボランティアの現場も混乱しているようです。

「Do for others」

いつ、何をどんなふうに、支援できるのか、自分自身もよく考えてみたいな、と思っています。


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今日は日本を愛し、日本の人のために奉仕した外国人たちの足跡を駆け足でたどってみました。
おつき合いくださり、ありがとうございました。




出典:明治学院大学の歴史と現在 http://www.meijigakuin.ac.jp/guide/history.html
明治という国家 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/187912/
関東学院の沿革 http://www.kanto-gakuin.ac.jp/history.html
ウィキペディア アルバート・アーノルド・ベネット http://ja.wikipedia.org/wiki/アルバート・アーノルド・ベネット






















御雇い外国人

2011年03月02日 | 歴史の中の1ページ
2010年10月末の国内の完全失業率は5.1%
(2010年総務省「労働力調査」)となり、
正社員の有効求人倍率も0.35%という厳しい雇用状況が続いています。
その反面、日本に居住し、日本国内で就職する外国人は年々
増加しています。
厚生労働省の発表によると、2008年10月末の外国人労働者数は
486,839人で
このうち専門的・技術的分野の在留資格84,878人です。

今年は私たちの学校の卒業生数名もこの数にプラスされるのだとは
思うのですが。
もっともっとたくさんの外国人が日本で働いて、チャンスを広げ、
キャリアを積み重ねていってほしいな~、と願っています。

ところで今から150年ほど前、明治政府は日本の近代化(文明開化)を
図るため、多くの欧米人の専門家を日本に招き、
その技術や学問を積極的に学びました。
なんと、1898年までに、イギリスから鉄道開発、電信、公共土木事業、
建築、海軍制、などの専門家、6177人、
アメリカから外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などの
専門家、2764人、フランスから陸軍制や法律家、619人、
イタリアからは主に絵画や彫刻といった芸術45人、合計で1万人以上の
外国人専門家が日本を訪れているのです。

彼らは当時「御雇い外国人」と呼ばれていました。
また、多くのキリスト教の宣教師もキリスト教の解禁とともに
日本にやってました。


その中でも有名なのは、アメリカ人の宣教師で医師、ヘボン式ローマ字を
考えたヘボン(=ヘプバーンとも発音)。
彼は日本語を熱心に勉強し、英和辞典を編纂や聖書の和訳にも尽力しました。
ミッションスクールである明治学院大学(ヘボン塾)を創設し、
ヘボンはその妻とともに33年間も日本のために貢献したのです。
ヘボンの弟子には(坂ノ上の雲にも登場した)高橋是清や島崎藤村がいます。

また、『青年よ大志を抱け』ということばで有名なウイリアム・S・クラーク、
例のクラーク博士ですが、札幌農学校(北海道大学の前身)で
教頭を務めました。
博士は日本に9ヶ月しかいなかったようですが、彼のキリスト教に基づく
教育は農学校で学んだ内村鑑三や新渡戸稲造に大きな影響を与えたそうです。
ただし、クラーク博士は帰国後、会社経営などに失敗、詐欺罪で訴えられた
こともあり、評判はあまり良くなかったようです。
御雇い外国人の給料に引かれた、という人までいるようですから、、、。


ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は日本人の誰もが知っていますよね。
御雇い外国人の代表格でもあります。
彼はもともとアイルランド人とギリシア人の両親を持ち、アイルランド、フランス、
イギリスで学びアメリカの新聞社に勤めていた、というこの時代の国際人で、
日本人と結婚し、日本で亡くなりました。
最初は島根県の松江市で英語の教師をしていたのですが、
東京に出てきて早稲田や東大で英文学を教えていました。

実は私が以前に勤めていた学校は東京新宿区の新大久保にありましたが、
散歩をしている時に彼を記念する小さな公園を見つけました。
ハーンは家族と一緒に西大久保に住んでいたようです。





さて、御雇い外国人たちは、私の元の学生(留学生や卒業して日本で生活する外国人)とは
異なり、すごい高給取りでした。
遥か遠い欧米からアジアの端の国までやってくるのですから、確かに給料は高く要求したい
のですが、、。

たとえば、岩倉具視が600円(年俸6000万円)、伊藤博文、板垣退助が
500円(年棒5000万円)に比べ、御雇い外国人は最も高い者で2000円、
9ヶ月で帰ったクラークでさえ、300円(年俸3000万円)もらっていた、
というのですから、すごい額です。

このように資料を調べていくと
日本で働いた外国人の歴史は本当に長いですね。
現在の私の学生たちには、このような歴史上の先輩たちのことを知ってもらいたいな~と思います。

さて、長文におつき合いいただきありがとうございました。
御雇い外国人の話はけっこう面白いので、またいつか触れてみたいと思っています。



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マテオ・リッチ(Matteo Ricci/利瑪竇)の弟子

2011年02月21日 | 歴史の中の1ページ

上海のアンティークな建物を検索しているうちに
徐光啓という明の時代の宰相のことを知りました。
私が以前興味を持ったイエズス会の宣教師マテオリッチにも縁の深い人です。
今日はこの徐光啓という偉人について紹介したいと思います。

1562年、中国の上海に生まれた徐光啓は博学多才な人物で、1597年、
35歳のときに中国の官吏の試験、科挙の中の『郷試』に合格しました。
『郷試』に合格する、ということは国の政治を動かす官吏への第1歩です。
彼はとても頭のいい人だったということですね。

その後,徐光啓は南京で活動していたイエズス会の
イタリア人司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci/1552 - 1610/中国語名:利瑪竇)の
話を聞き、ぜひともリッチの西洋の教えを受けたいと南京に向かいます。

当時、マテオ・リッチは南京で中国語や中国の習慣を学びながら、布教活動をしていました。
同時にヨーロッパの天文学や数学などを中国の人々に教え、ヨーロッパから送られて来た
珍しいおみやげ品を役人に贈り、
中国人との交流を様々な手段を用いて深めていきました。

念願の南京に到着した徐光啓はイエズス会の宣教師たちと交流を深めながら,
自分自身がキリスト教に大きな影響を受けていました。
そして、とうとう1603年に宣教師ヨハネ・ソエリオ(羅如望)の手で洗礼を受け、
キリスト教徒となったそうです。

その後、当時の試験では最も難しい『進士』の試験に合格、国の政治に直接関わる官吏となりました。
彼はじょじょに頭角を現し、ついには式部省の頭となり、明朝の宰相となるのですが、、、

徐光啓とリッチとの交際はますます深く広くなり、天文学,地理、物理、水利、
暦数などについても学んでいきました。
特にユークリッド(Euclid)の「幾何学原論(Στοιχε?α/Elements)」をリッチとともに中国語に訳し、
「幾何」「点」「線」「面」「平行線」「鈍角」「鋭角」といった用語を中国で初めて使ったそうです。
また,彼の著書や翻訳書は非常に多く、日本にも大きな影響を与えた農書『農政全書』などが有名です。


徐光啓の学問の師匠であり、信仰の指導者であるマテオ・リッチの宣教活動は
中国の服を着て中国人と同じような生活を送り、その土地の習慣をよく研究し
キリスト教に中国古来の習俗や人々が信奉する儒教を取り入れ、すりあわせながら
伝道する方法でした。

徐光啓はさまざまな功績を残すとともにリッチの伝道活動を支え,援助していました。
彼はカトリックの教えは儒教を補うものと考えており、そのため迫害を蒙らずに、
明朝の政治の世界で高位に昇ることができた、と言われています。
恐らく、徐光啓はマテオ・リッチの宣教の形をそのまま受け入れたのではないでしょうか。

1633年、徐光啓は亡くなり、上海の「徐家匯」に埋葬されました。
「徐家匯(xu-jia-hui)」とは、「徐家」の水路の集まるところと言う意味で、
1978年に、政府はこの辺を「南丹公園」と名づけ、
1983年には徐光啓逝去350周年の記念として、公園の名を「光啓公園」に改称しました。
このことから考えても、徐光啓は中国政府も認めた偉人のひとりだと言えるでしょう。

「徐家匯」には1906年から6年間かけて建築された聖イグナチオ教会
(徐家匯教会と通称されている)があります。
とても素敵な教会堂で、現在もミサが行われています。

明や清の時代のお役人は,科挙という信じられないくらい難しい試験に合格した学者ばかりです。
徐光啓は政治の世界で活躍しながら、西洋の新しい科学を中国に取り入れるという
偉業を成し遂げた人です。
本当はどんな人だったのでしょうか、、、すごく興味があります。


さて、私の趣味の分野の長文におつき合いくださりありがとうございました。
3月にはまた上海に行く予定です。
その時には,徐光啓の公園に行ってみたいと思っています。


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