buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

緊急一時奨学金

2011年04月30日 | おもちゃ箱



今日は午後、息子の大学の保護者の会の常任委員会へ。
年度末の決算などの議事の他に、東日本大震災で被災した学生への奨学金の支給について
話し合いました。
本当に残念で悲しいことですが、ひとりの学生が津波で亡くなったそうです。

もともと保護者の集まりは、保護者がリストラ、病気などで授業料を払えなくなったとき、
保護者会の会費から奨学金を出すために作られました。
でも、確かにそれだけでは何かが足らなかった、、、それが天災などの震災で
経済的に苦しくなった学生の支援です。


家を流された学生、倒壊、半壊、原発避難など該当者がけっこうな数にのぼりました。

きっとみんな卒業まで勉強したいはず。
本当にいいタイミングでこの保護者会(昨年設立)ができたと思います。


学校の緑がきれいでした。
風が吹いて、新緑が散っていましたが、、、。
それもまた風情があるものです。






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聖マ-ガレット礼拝堂

2011年04月29日 | お散歩


美しい会堂です。
写真は聖マーガレット礼拝堂。
日本聖公会に属する教会です。

宣教師のチャニング・ウイリアムスが湯島に1895年に女学院を創設し、
1897年に築地の居留地37番地に移転。
さらに関東大震災のあと、現在の杉並区に移ったということです。

今日は所用で女学院を訪ね、キャンパスの中を案内していただきました。
下記の写真は高校の校舎



そして講堂


伝統と優雅さを感じさせる見事な建造物の配置になっています。

古い建物の窓から一枚、中庭の写真をとりました。
鉄の鎖が印象的でした。







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女学院に似合う藤の花





参考文献
立教学院の歩いて来た道 寺崎昌男著







ボルシチ

2011年04月29日 | ボランティア


ロシア料理を食べました。
友人と一緒です。
場所は高田馬場、駅そばのロシア料理店。
老舗のひとつだそうです。

友人は日本語教師。
大地震のあと、非常勤として勤める日本語学校の学生数が激減。
今後のことを真剣に考え始めたそうです。

彼女の話によると、ある大手の日本語学校は非常勤のスタッフ全員を自宅待機にして
いるとか、、、。いつ復職できるか、見通しがたっていないそうです。
本人のの勤めるところも同様。
もしかしたら閉校になるかも、、と。

再就職もままならず、一気に転職を考える人が増えそうです。
日本語教師はやはり、かなり不安定な仕事です。

幸い、友人は自分のキャリアを真剣に次のステップに活かそうとしています。
こんな人はきっと、何かチャンスがめぐってくるのだろうな~、と
熱々のボルシチを食べながら、確信しました。

写真はロシア料理店の前菜。






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3票の差

2011年04月26日 | おもちゃ箱


ほぼ1週間に1回、その人は駅前で演説をしていました。
何となく、顔をおぼえてしまいました。
もちろん名前も。

昨日の区議会議員選挙。

その人はわずか3票の差で次点。
敗れました。

3票って3人じゃないですか。
本当に残念ですよね。
駅前であんなにがんばっていたのに。

でも少なくとも、彼のスピーチは私には影響を与えました。
私が投票しなければ、彼は4票差になったからです。

まだ、30代。
これからです。
がんばって区政をさらによいものにしてもらいたいと思います。




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トンパ文字 跳躍する 飛躍する 





父の引っ越し

2011年04月23日 | 家族(息子・夫・ネコ2匹)


とうとう、父が我が家に引っ越して来ました。
静かでおとなしい父ですが、
自分の荷物が10分の1ぐらいになってしまったのが寂しいようです。

どうにか部屋に荷物を入れましたが、まだまだごちゃごちゃ。

7月にはおじいちゃん思いの長男も上海から帰国する予定です。
これからはどんな感じになっていくのかな?








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がんばれ、福島の野菜

2011年04月19日 | 食いしん坊



去年の夏、福島の安達太良山に登りました。
友人と一緒です。

泊まったところは岳温泉。
とても静かな山あいの温泉街でした。
今回の地震と原発の影響が心配です。

観光業全体に元気がありません。
箱根や伊豆でもキャンセル客が相次いでいるそうです。

『がんばれ、福島!』
夏休みにはもう一度、会津あたりに行ってみようかな~、、、。

留学生で「がんばれ、福島」と書いてある野菜を買って
料理し、食べた、と話してくれた人がいました。
ちょっと嬉しかったです。
『風評なんて、気にしていません。』と言える人。
日本が大好きな学生たちに私も応援された感じです。


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ここ1週間ほど忙しく、なかなかブログの更新ができませんでした。
ご来訪くださったみなさま、本当にありがとうございます。

写真は安達太良山です。















O・ヘンリー的結末

2011年04月14日 | 本・映画・音楽・美術のページ


今日は4年ほど続いている授業『原作と映画』の第1回目の授業です。
大地震で学生が半分に減ってしまった教室ですが、それでも18人もの学生が集まってくれました。
授業では半年で4冊の小説を読み、映画化された作品を見ます。
集まって来る学生は『本好き』『映画好き』でちょっと作品にうるさい面々です。
今回は読書会の形式を取り入れた新しいスタイルで授業をしてみようと思っています。

ところで、
中学生の時に読んだ『O・ヘンリ短編集』
それから何十年もたったのですが、いまも大好きな1冊です。
O・ヘンリの物語には
ありとあらゆる階層の人たちが登場し、お話は最後にいつも意外な結末を生みます。

O・ヘンリの略歴でよく知られているのは、彼が出納係をしていた銀行から告訴され
公金横領の罪で3年間、刑務所に服役したということです。

刑務所の中は「人の命がここまで軽く扱われるのか」と自身が記しているほど、ひどいものだったようですが
この刑務所の体験がなければ、O・ヘンリの名作は生まれてこなかったのではないかと言われています。

起承転結がはっきりしていて、意外なオチ(結末)があるのは、人を惹きつけてやまないO・ヘンリの手法です。

私の元教え子の中国人は大学を卒業後、日本で就職。
結婚し、子どもが生まれたばかりです。
仕事も順調で、これから、というときに大地震が起きました。
地震から1週間もたたないうちに、彼は妻と幼い子どもを連れて、中国に帰国する決断をしました。
『仕事もうまくいっていたのですけれど、、、子どものことを考えると、、、。』
と言っていました。
人生の転機ですよね。

しかし、一方で3月に卒業し、その時点では就職がきまっていなかったのですが、
4月に就職が決まった留学生が2名。
それも誰もが知っている日本と韓国の大企業からの採用です。
前任者が地震で帰国してしまったのだそうです。
これもまた人生の転機ですよね。

人生って本当に不思議、そしてときに皮肉です。
Oヘンリの小説でなくても、驚いてしまうような結末、いろいろなところにありそうです。




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写真はニューオーリンズのベーニエ(四角い粉砂糖のかかったドーナツ)が有名な
カフェドモンデュのベーニエセット ちょっとアメリカっぽい雰囲気の中






幸せを探す旅~

2011年04月12日 | 歴史の中の1ページ

Über den Bergen
                Karl Busse
Uber den Bergen,
weit zu wandern, sagen die Leute,
wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging,
im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
Uber den Bergen,
weit, weit druben, sagen die Leute
wohnt das Gluck.


山のあなた
     カール・ブッセ
     上田敏訳 『海潮音』より

山のあなたの 空遠く
「幸い」住むと 人のいう
噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて
涙さしぐみ かえりきぬ
山のあなたに なお遠く
「幸い」住むと 人のいう


ドイツ新ロマン派の詩人、カール・ブッセ(Carl Busse,1872-1918)の有名な作品「山のあなた」は
明治時代の詩人、翻訳家、文学者である上田敏の翻訳詩集『海潮音』(明治38年)に収められています。
上田敏の訳は時代を超えた名訳と言われていますが、
もう少し(自分に)わかりやすく解釈してみると、、、

遠い遠い山のずっと向こうには幸せがあるんだって、誰かが言っていた、、、。
それが本当なら、
と私も幸せを探しに行った。
私と同じように『幸せ』を探している人がたくさんいたけれど、
私が求めていた「幸せ」は見つからなかった。
悲しくて涙を浮かべながら、戻ってくると
他の人が教えてくれた。
その幸せはね、あなたが探しに行った山のもっとずっと向こうにあるんだよ、って・・・。

ちょっとさびしい、それでいて心惹かれる詩です。

人はみな確かで、壊れたり崩れたりしない確固としたものを
探して一生を旅しているのかもしれません。
それが『幸せ』なのか、何なのか、、、。


ところで、このカール・ブッセですが、1887年、来日して東大で5年間も哲学を講義していた、、、ということです。
つまり、御雇い外国人のひとりだったのです。
ブッセはドイツに帰国後、大学教授となり、1892年出版した『詩集』で有名になりました。。
一方、ブッセの詩を翻訳した上田敏は1897年(明治30年)に東大を卒業しています。
ですから、二人の間には5年ほどのタイムラグがあり、面識はなかったということになります。

上田敏は東大の大学院でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の学生だったそうですが、
小泉八雲から
「英語を以て自己を表現する事のできる、一万人中、唯一人の日本人学生である。」と
最大級の賛辞を贈られています。

その後、東京高等師範学校(筑波大の前身)の教師となりましたが、東大を辞した小泉八雲の
後任として東大で教えます。
本当に優秀で、小泉八雲に可愛がられていたのでしょう。

1908年にヨーロッパに留学し、帰国してからは京都大学の教授となりました。
また1910年には、若干35歳で慶応義塾大学文学科顧問に就任しています。
ここまでは順風満帆のように思えますが、
残念なことに上田敏は大正5年(1916)7月9日
腎臓疾患(尿毒症)のため東京の自宅で急死してしまいます。
それは、親交の深かった森鴎外を訪ねようとしていた時だった、と言われています。
享年43歳。
まだまだ活躍してもらいたかった、、、あまりにも早すぎる死だと思います。

上田敏は東京の築地生まれ。築地には外国人の居留地があり、特に多くの教育者、
文学、語学の教師、宣教師の住んでいたところです。
こんな環境も上田が優れた翻訳者、文学者、教育者となる素地だったのかもしれません。



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写真は目黒川のさくら。日曜日に撮りました。
サクラ、咲きましたね。





一人暮らしのすすめ

2011年04月10日 | 家族(息子・夫・ネコ2匹)


今朝はちょっとだけ寝坊しました。
気がつくと、次男からの不在着信が携帯に入っていました。

電話をかけてみると、『今から行くから。経音部の友だちも一緒。ギターとキーボードをとりにいく。』
『お昼、二人分頼む。』とのことでした。
次男のアパートは大学の裏側。すでに軽音楽部の新入生たちのたまり場になっているようです。
そこで、知り合った高知県出身のAくん、茨城出身のBくん、静岡のCさんたちとバンドを組んだそうです。
次男のバンドは5人。全員が大学そばにアパートを借りて住んでいますが、
大学から実家まで1時間、というのは次男だけです。

Aくんと次男は、嵐のようにやって来て、電話をもらってから急いで作った
オムライス(大盛り)とスープ、サラダ、を食べ、お弁当に作ってあげたサンドイッチを持ち、
夫の今は使っていないキーボードとギター、ベースギターを抱え、1時間ほど家にいて、
また横須賀へ戻って行きました。
(夫からはすでに楽器を借りる約束ができていたようです)

次男を家から出して、独り住まいさせることに、私は最初反対でした。
もちろん経済的なこともあります。
なにしろ、大学まで電車で1本。乗り換えなしで40分もあればつく場所です。
家から通ってもらった方がどれぐらい助かるか、、、。
それに、何となく寂しい、、、。
でも、 
『このままだと、あいつは甘えてばかりでダメになってしまう。
外に出した方がいい。』
という一貫した夫の主張に従いました。

今日、戻って来た次男は前回と違って、本当に活き活きとしていました。
Aくんが
「高知から出てきて、本当に寂しかったですよ。
でも、今は毎日が楽しくて。◎△くん(次男のこと)とはすっかり意気投合しちゃいました。」
と話していました。

次男もちょっとずつ変わっています。
なにしろ、家で食べる食事に対して感想を言うようになりました。
「あ~、うまい。」
以前は、作ってもらって当たり前、嫌いなものは食べない、、、。という感じでしたが、
「ひとりでご飯作るのが大変。」
「ここ1週間、パスタばかり作っていた。もう食べたくない。」

長男も現在は上海で一人暮らし中。
我が家はちょっとした自立ブームです。

とはいうものの全員がスカイプを使って、2、3日に1回は顔を見て話しています。
安心しますよね。顔を見ると、、、。
離れていても、どこかでつながっている、っていうことが大切なんだな~、って
わかったような気がします。



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トンパ文字

2011年04月09日 | ボランティア



あるところから、中国の奥地(、、とはどこを指すのか、わかりづらいのですが)について
ちょっと話してもらえないか、と頼まれました。
それで、数年ぶりに中国の雲南省を訪れた時に集めた資料などを出して読んでいたら、
すっかり陽が暮れてしまいました。

雲南省西北部の大理をたずねた時に、ナシ族という少数民族の村に行きました。
ナシ族は『トンパ文字』という独自の象形表意文字を持っているのです。

写真の文字は 人が手をつないでいるのが『デート』左が男の子、右が女の子です。
2番目は人が寝ているようですよね、、、『怠ける』です。
そして最後が『木』と『葉』

確かに象形文字です。
わかりやすいし、何だかかわいい!
ちょっと前に、ユニクロのTシャツのデザインにもなっていたような、、、

ところで『トンパ文字』の他に
もうひとつ、ナシ族を有名にしたのは、「通い婚」の風習です。
女性の家に男性が通う、、、という私たちにしてみれば驚くような習慣ですが、
少数民族として、生き残っていくために、また雲南のこの地方の文化や生活に合わせての
ぴったりの習慣だったようです。

世界は広いですよね。
考え方や習慣もさまざまです。
他国に行くと、何が『スタンダード』なのか、ということを改めて考え直す機会になります。


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さて、とうとう来週から授業が始まります。
今はその準備に少々焦っています。








ハマっていること

2011年04月09日 | 歴史の中の1ページ



明治時代の御雇い外国人に完全にハマってしまった、今日この頃です。
多分、学校で留学生たちのキャリア指導などをしている影響もあるかと思いますが、、、。

江戸末期から明治にかけて日本にやって来た1万人近い外国人たちの
その技術や知識が日本の文明開化の大きな原動力になっていたことは確かです。
調べれば調べるほど、彼らの持っていた信念や理想には敬服です。

ただ、漠然として日本に行きたい、と思っていたのではなく
その持っている力を日本のために役立てようと考えていたのです。
何をしたいか、というより、何ができるか、それがどう役に立つか、ということを
外国人たちは考えていたのではないでしょうか。

多くの御雇い外国人は熱心に日本語や日本の習慣を学びました。
しかし彼らにとって語学は伝達の手段であって、本当に伝えたかったのは
その技術や知識なのです。

そんなこんなで『御雇い外国人』について、熱く思いを語る私に
A学院のB先生がA学院の資料室からウイリアムズ・チャニング(立教大学の創設者)に関する
文献を持って来てくださいました。

小冊子ですが、ウィリアムズ・チャニングがどのように日本で過ごしていたかが
エピソードと一緒に書かれていて、読んでいて本当におもしろいのです。

日本に着たばかりの時、長崎でウィリアムズは
幕府の役人、武士、医師、僧侶などに英語や世界情勢を教えていたということです。
ウィリアムズ・チャニングの学生の中には佐賀藩士で討幕運動に係わり、
東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設した大隈重信や
日本の郵便制度を作った前島密もいたそうです。


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さて、
明日は休日です。もし天気がよいようだったら、築地の居留地跡に行ってみようかな~、
と思っています。
私の住んでいる品川からは30分の距離です。
そしてもうひとつの居留地があった横浜までも30分の距離。
趣味にはもってこいの場所に住んでいるって、偶然にしても嬉しくなりました。



写真は築地近くの浜離宮恩賜公園










ちょっと寂しいんだ

2011年04月07日 | 家族(息子・夫・ネコ2匹)

ちょっと寂しいんだ。

いきなり夕方家に帰って来た次男。
一人暮らしを始めて一週間目です。

思いっきり夕飯を食べて、
貴重品の納豆と次の日のお弁当用のおにぎり、ひじきとタケノコの煮物、
パンを持ち、牛乳をがぶがぶ飲んで、夜10時ごろ帰っていきました。

帰るとき、『ちょっと寂しいでしょ。』と次男が私に言いました。

確かに。
でも、もっと寂しいのは次男のようです。

次男が携帯電話を買い替えたとき、
担当の若いスタッフが「一人暮らしすると、いろいろわかるよ。」と言ってくれました。
いろいろわかって、先に進んでくれるといいな、と思います。


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家に人が少なくなって、ペットのネコたちも「さびしい、、、。」
夜帰ってくると、すごくべたべたしています。






















休日散歩 御殿山~五反田~天王洲

2011年04月04日 | お散歩


静かな毎日が過ぎていっています。
昨日は、次男が置いていった自転車に乗って、買い物に出かけました。
自転車に乗ったのは数年ぶりです。

品川から桜が五分咲きの御殿山を通って五反田へ抜けました。
まずはブックオフに行き、長男用の就職活動用の参考書(就活本?)を買いました。
EMSで留学中の上海に送ってほしい、ということです。
帰国まであと3ヶ月ですが、帰って来たらすぐに就職活動に入ります。
その準備なのかな~、、、?
でも、本人はあと半年か1年、留学を延ばそうかと頭のどこかで考えているようです。

さて、
五反田から目黒川沿いを通って大崎を抜け、天王洲まで一気にサイクリング。
川沿いの桜は三分咲きです。

天王洲から見た東京湾も春らしい感じ。

品川、御殿山、五反田あたりはけっこう坂が多く、上りのきついところもありますが、
いい運動になりました。

旧東海道から東京湾に向かった天王洲方面は江戸時代からの埋め立て地です。
鉄道が通ったころは、品川駅のホームから向こうが海だったそうです。

人はずいぶん海を埋め立てて、土地を作り出したのだな~、って感じます。
つまり、地盤もそれなりに弱い、ということですよね。



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横須賀ストーリー

2011年04月03日 | 歴史の中の1ページ


次男が引っ越しました。
家の中が静かになった、食事の準備にほとんど時間がかからなくなった、
洗濯物の量が減った、など、次男がいなくなって、改めて感じることが
そこここにあります。

さて、次男が引っ越したのは、神奈川県の横須賀(厳密に言うと最寄り駅は横須賀市
住まいは横浜市)なのですが、、、

横須賀は江戸時代から外国人にゆかりのある土地です。
教科書で勉強したウィリアム・アダムス(=三浦按針、徳川家康に仕えた)
1853年浦賀沖に黒船でやってきたアメリカ合衆国東インド艦隊司令官のマシュー・ペリー提督などは、
誰でもが知っているのではないでしょうか。

幕末になると、外国に対抗するため海軍の重要性が強くなり、横須賀製鉄所の建設が始まります。
ここで小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)らや
御雇い外国人、フランスからやって来たヴェルニーの活躍により、横須賀に製鉄所ができ、
日本の造船技術が飛躍的に上がりました。



さて、次男の住む場所からしばらく行くと、安針塚がありますが、その先には
第4代アメリカ横須賀海軍基地司令官として、戦後の横須賀の発展に尽力をした、ベントン・デッカーさんの
胸像のある横須賀中央公園に着きます。

デッカーさんは明治の人ではありません。

デッカーさんは、戦後間もない1946(昭和21)年から50年までの4年間、アメリカ海軍基地司令官としてこの地に着任。
横須賀を戦後の日本復興の見本にしようとして、教育と医療、福祉の充実に力を入れたそうです。
デッカーさんは経済・産業の発展のため企業を誘致したり、衣笠病院をはじめとした病院の近代化をはかり、
全国のキリスト教関係者に声をかけ、栄光学園や清泉女学院、青山学院大工学部などの創設にかかわったそうです。

これらの精力的な支援は横須賀市民からも高く評価され、
当時の横須賀市議会からは、なんと市長になってくれないか、と要請があったというのですから
驚きです。


栄光学園の2008年の創立記念式典の校長先生のメッセージの中に
下記のようなものがあります。
ttp://www.eiko.ed.jp/00ekh/web/gt/076/076-026.pdf#search='デッカー司令官'

この学園の創立の経緯については中1のときに話しました。敗戦によって社会が疲弊していた時期に、
横須賀の進 駐軍の司令官であったデッカー大佐からの要請を受けて、イエズス会が学校を始めることになった、
ということでした。
デッカー大佐は戦後の日本の社会を作っていくために は教育が重要である、健全な価値観を持ち、自分の力を
自 分のためだけではなく他人のため、社会のために使うこと ができる人を養成することが不可欠であると考えました。
そして1947年4月に栄光が開校し、今日まで61年の歩み をたどってきたわけです。

栄光学園がめざす “Men for Others”の“Others"は、とくに弱い人、貧しい人、周辺に追いやられて
しまっている人です。
そのような人たちが本当に幸せだと感じ、人間 として誇りを持って生きていけるような状況にすることが、
私たちの使命ではないかと思います。


ここにもひとり、日本を愛した外国人を見つけました。

デッカーさんは軍人でしたし、司令官として大きな権力を持っていた人です。
彼は持てる力をよく理解し、それを活かしました。
自分の「横須賀を日本復興のモデルにしたい」という信念に基づき、わずか4年の赴任でしたが、
その間、まさに精力的に働いたのです。




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さて、次男は私にとっては興味津々の場所に住むことになりました。
ちょっとうらやましいな~、と思います。
次男の新居(?)は大学の裏門まで歩いて1分、主な校舎まで3分の好立地です。

ちゃんと勉強してくれるといいな~。
がんばってね。

おととい、追加で醤油1本、米5キロ、(本人が絶対必要と言った)オリーブオイル1本
ラーメン丼ひとつ、などを送りました。
早速、昨日連絡あり。
「ラーメン丼が一番嬉しかった!」、、、、。








御雇い外国人 ガードナーの軌跡

2011年04月02日 | 歴史の中の1ページ



明治時代に日本にやって来た外国人(御雇い外国人)
ジェームズ・マクドナルド・ガードナーについて調べてみました。
ガードナーは『宣教師、教育者、建築家』という3つの肩書きを持ち、どの分野にあっても
秀逸であった人です。
(もしかしたら、ガードナーは宣教師なので、御雇い外国人には含まれないかもしれませんね。)

1857年、米国セントルイスで生まれで、ハーバード大学建築科に入学するも、1877年(明12年)に中退してしまいます。
その後、聖公会宣教師で立教学校の創設者であったチャニング・ウィリアムズの要請で、
アメリカの聖公会伝道局から宣教師として日本に派遣されることになりました。
1880年(明治15年)に東京築地の外国人居留地にやってきたガードナーは23歳。
すぐに立教学校(立教大学の前身)に校長として赴任します。

23歳の若きガードナーは教育者として立教学校を経営しましたが、同時に建築家としての意欲も高かったのだと思います。
1891年立教大学校を退任し、建築家として本格的に仕事を始め、洋風建築の建物を作っています。

1894(明治27年)年6月20日の明治東京地震でガードナーが設計した立教学校校舎などの建物が被害を受けました。
その後、ガードナーは建物の耐震性も考慮した設計を行うようになったといわれています。

1894年には一時アメリカに帰国しました。
その際、中退してしまったハーバード大学に論文を提出し学位を受けます。
すでに建築家としてのキャリアを積んでいたガードナーですが、20年近くかかって大学を卒業したことになります。
その後、また日本に戻り、古巣の立教大学で英語・英文学の教授となりますが、1903年にはガーディナー建築事務所を開業します。
ガードナーの足跡をたどると、教師、建築家、教師、建築家とキャリアを重ねていることがわかります。
どちらにも惹かれるものがあったのでしょうね。

ガードナーの家族は奥さんのフローレンス・ピットマンと3人の子どもです。
フローレンスとは日光市で出会ったそうです。
彼は日光に「ガードナー日光山荘」を建て、ここで夏を過ごしたそうですが、、、
きっと奥さんや家族を連れて来たのでしょうね。
日光にはもうひとつ、ガードナーの作った建物、ロマネスク風、石造りの聖公会日光真光教会があります。
のちにガードナーの遺言により、ガードナー夫妻はこの教会に葬られたということですから
ガードナーと彼の家族にとって日光は『故郷』だったのかもしれません。

ガードナーは1903年、ガードナー設計事務所を開設します。
その後、邸宅や教会堂の設計に力を入れますが、彼の作った建物は関東大震災の時にかなりの被害を受けたそうで、
現在は10棟ほどしか残っていないということです。

ガードナーは1925年築地の聖路加病院(現在の聖路加国際病院)で亡くなります。68歳でした。
ガードナーは宣教師として来日、立教学校での教育、そして数々の洋風建築を日本各地に残し、
その一生を閉じました。
彼はなんと68歳の生涯のうち、45年間を日本で過ごしたのです。


私も知らず知らずのうちにガードナーの作品の建物を日本各地で見ています。
まずは京都にある日本聖公会聖アグネス教会。
京都御所のそばにあり、茶色いれんが造り、ゴシック風の教会堂で、1923年に建てられました。
(最初の写真)

外交官の家(旧内田家住宅)は、1910年(明治43年)に建築された塔屋付き木造2階建の西洋館で、1997年に、国の重要文化財に指定されました。
もともとは渋谷区南平台にあったものですが、現在は横浜の山手イタリア山庭園に移されています。




日本聖公会弘前昇天教会教会堂(下の写真)も大正12年建造のゴシック風の教会堂です。
ガードナーはもともと聖公会から派遣された宣教師でしたから、日本各地の聖公会の建物を作っているのです。
この教会には日本最古のリードオルガンがあり、現在も活躍中です。






残念ながら日光の真光教会教会堂は何度も日光を訪れていながら、行ったことはありませんでした。
次に日光に行く時はぜひ訪れてみたいと思っています。


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明治の時代に日本にやって来たお雇い外国人は1万人近くいるとのことです。
今日はそのひとり、ジェームズ・マクドナルド・ガードナーについて、調べてみました。
最後までおつき合いくださりありがとうございました。

ところで、明治時代の横浜と東京築地はお雇い外国人にとっては切っても切れない場所だったようです。
次回はそのあたりを趣味の領域で調べてみたいと思っています。


御雇い外国人の他のブログは「カテゴリー 歴史の中の1ページ」を参考にしてください。


出典・参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームズ・ガーディナー
http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/nikkoshinkochach19850802.html日光真光教会
http://maskweb.jp/b_nikkonskk_1_1.html近代建築散策
http://ja.wikipedia.org/wiki/チャニング・ウィリアムズ