
3月22日から25日まで北京
26日から29日まで台北と短い期間にふたつの大都市を訪れました。
そして念願だった北京の故宮博物館(紫禁城)と
台北の故宮博物館の両方をじっくりと見学。
台北は2日間通いました。
台北の故宮博物館を代表する陳列物のひとつが
翠玉白菜。
つまり翡翠で作った白菜です。
翠玉白菜の持ち主は第11代清国皇帝『光緒帝』の妃、瑾妃(きんぴ)
瑾妃は満州族の中の他他拉族の出身で、他他拉族はベトナム・ミャンマーに近い広州を管轄していました。
中国とベトナム・ミャンマーの国境地帯は翠玉(ひすい)の大産地です。
翠玉白菜のサイズは18.1センチ(高さ)×9.1センチ(幅)×5.7センチ(厚さ)
この白菜を彫るための翡翠原石は相当な大きさだったと考えられます。

翠玉白菜は原石の緑の部分を白菜の葉、白い部分には葉脈もはっきりと刻まれています。
原石の素材と色合いをそのまま生かし,瑞々しい白菜に生まれ変わらせた名品中の名品です。
緑のグラディエーションが見事な葉の上にはやはり緑の原石部分を活かした
キリギリスとイナゴが彫刻されています。
キリギリスの俗称は「紡織娘」、繁殖力が非常に強く、古代には子孫繁栄の象徴とされたそうです。
(「螽斯羽詵詵兮、宜爾子孫振振兮」)
瑾妃は光緒帝の妃として,紫禁城の中の永和宮(お妃たちが住む一郭)に生涯住んでいました。
(*義和団事件当時、西安に一時避難)

北京故宮博物館乾清宮あたりから永和宮方面の眺め
瑾妃は毎日、永和宮で翠玉白菜を愛でていたということですが,彼女のお妃としての生活はあまり楽しいものでは
なかったようです。
瑾妃は「小太りで,顔が月餅のように丸く,頭からつま先まで同じ太さ、,』
つまりくびれのない体型だった、という話です。
写真も残っていますが、う~ん、、あまり美人とは言えないかもしれません。
実は瑾妃の妹も光緒帝の妃であり、後に西太后の怒りにふれ,井戸に投げ込まれたという有名な
珍妃(ちんぴ、あるいはちんひ)です。
光緒帝はこの珍妃を寵愛し、常に側においたという話です。
実の妹が皇帝に愛され,自分自身は皇帝になかなか目をかけられない、、、
瑾妃としては複雑な心のうちだったのでしょうね。
また翠玉白菜をどのような気持ちで眺めていたのでしょうか?
瑾妃が1924年、大正13年に亡くなりますが、その後、清国の最後の皇帝溥義は紫禁城を出て
当時の日本が建国した満州帝国の皇帝として即位します。
瑾妃の翠玉白菜は瑾妃の死後、中国各地を流転し、第2時世界大戦終了後、紫禁城の宝物と一緒に南京,北京に
戻りました。
しかしすぐに中国国内での内戦が始まり、蒋介石率いる国民党の敗戦が濃厚になると
今度は紫禁城の他の宝物といっしょに一緒に国民党と台北に渡りました。
当時蒋介石の持って行った紫禁城の文物は多くはありませんでしたが、
大変価値のある作品ばかりだったようです。
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これからさき、翠玉白菜はどうなっていくのでしょうか。
何となく,元の紫禁城の永和宮に戻ることはないような気がするのですが、、、。
26日から29日まで台北と短い期間にふたつの大都市を訪れました。
そして念願だった北京の故宮博物館(紫禁城)と
台北の故宮博物館の両方をじっくりと見学。
台北は2日間通いました。
台北の故宮博物館を代表する陳列物のひとつが
翠玉白菜。
つまり翡翠で作った白菜です。
翠玉白菜の持ち主は第11代清国皇帝『光緒帝』の妃、瑾妃(きんぴ)
瑾妃は満州族の中の他他拉族の出身で、他他拉族はベトナム・ミャンマーに近い広州を管轄していました。
中国とベトナム・ミャンマーの国境地帯は翠玉(ひすい)の大産地です。
翠玉白菜のサイズは18.1センチ(高さ)×9.1センチ(幅)×5.7センチ(厚さ)
この白菜を彫るための翡翠原石は相当な大きさだったと考えられます。

翠玉白菜は原石の緑の部分を白菜の葉、白い部分には葉脈もはっきりと刻まれています。
原石の素材と色合いをそのまま生かし,瑞々しい白菜に生まれ変わらせた名品中の名品です。
緑のグラディエーションが見事な葉の上にはやはり緑の原石部分を活かした
キリギリスとイナゴが彫刻されています。
キリギリスの俗称は「紡織娘」、繁殖力が非常に強く、古代には子孫繁栄の象徴とされたそうです。
(「螽斯羽詵詵兮、宜爾子孫振振兮」)
瑾妃は光緒帝の妃として,紫禁城の中の永和宮(お妃たちが住む一郭)に生涯住んでいました。
(*義和団事件当時、西安に一時避難)

北京故宮博物館乾清宮あたりから永和宮方面の眺め
瑾妃は毎日、永和宮で翠玉白菜を愛でていたということですが,彼女のお妃としての生活はあまり楽しいものでは
なかったようです。
瑾妃は「小太りで,顔が月餅のように丸く,頭からつま先まで同じ太さ、,』
つまりくびれのない体型だった、という話です。
写真も残っていますが、う~ん、、あまり美人とは言えないかもしれません。
実は瑾妃の妹も光緒帝の妃であり、後に西太后の怒りにふれ,井戸に投げ込まれたという有名な
珍妃(ちんぴ、あるいはちんひ)です。
光緒帝はこの珍妃を寵愛し、常に側においたという話です。
実の妹が皇帝に愛され,自分自身は皇帝になかなか目をかけられない、、、
瑾妃としては複雑な心のうちだったのでしょうね。
また翠玉白菜をどのような気持ちで眺めていたのでしょうか?
瑾妃が1924年、大正13年に亡くなりますが、その後、清国の最後の皇帝溥義は紫禁城を出て
当時の日本が建国した満州帝国の皇帝として即位します。
瑾妃の翠玉白菜は瑾妃の死後、中国各地を流転し、第2時世界大戦終了後、紫禁城の宝物と一緒に南京,北京に
戻りました。
しかしすぐに中国国内での内戦が始まり、蒋介石率いる国民党の敗戦が濃厚になると
今度は紫禁城の他の宝物といっしょに一緒に国民党と台北に渡りました。
当時蒋介石の持って行った紫禁城の文物は多くはありませんでしたが、
大変価値のある作品ばかりだったようです。
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これからさき、翠玉白菜はどうなっていくのでしょうか。
何となく,元の紫禁城の永和宮に戻ることはないような気がするのですが、、、。