buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

ヨーロッパからアメリカをへて日本へ 

2011年06月05日 | 歴史の中の1ページ

明治初期、日本の政治上の建設に最大の貢献をしたのは
フルベッキというオランダ生まれのアメリカ人です。
裕福なユダヤ系オランダ商人の家に生まれたフルベッキは、オランダ、イギリス、フランス、ドイツ語の教育を受け
語学が堪能でした。
1852年に渡米、エンジニアとして働きましたが、病気を機に宣教師としての勉強をはじめ、志願し、
オランダ改革派教会から派遣され1859年に日本にやってきたのです。
ここまでの経歴では、フルベッキがひとつの国に留まらず、グローバルな視点を持った人だったのかがわかります。
実はフルベッキは手続き上では『無国籍』であったそうです。
何か、そんなことも関係しているのでしょうか、、、。

フルベッキは御雇い外国人として招聘され、
まずは長崎に住み,長崎奉行所管轄の済美館や薩長土肥の俊秀が集う佐賀藩の致遠館で英語などを教えました。
学識があり、芸術を解し、高潔で誠実な人柄のフルベッキは多くの人に敬愛され、信頼を受けていました。
彼の教え子の大隈重信,副島種臣らは明治維新政府の高官となってから、彼を東京に招き,
教育,外交面での彼の助言を重んじたそうです。
また、当時の最高実力者であった岩倉具視に『岩倉使節』の派遣を進言しています。

さて、そのフルベッキには夫人との間に7人の子どもがいたそうですが、
次女のエマ・ジャポニカ・ヴァーベックは1863年長崎生まれ。
自分の子どもの名前に『ジャポニカ』と入れるところに、フルベッキの日本への思いが込められているように思います。
多分、エマは日本語が流暢に話せたんでしょうね~。

エマはフルベッキの友人であった聖公会の宣教師チャニング・ウイリアムスから洗礼を受けました。
その後、エマはアメリカで教育を受け、20歳の時にアメリカ聖公会の宣教師に志願し、
再び日本に戻ってきます。
彼女は父であるフルベッキが亡くなるまでの10年間、立教女学院で英語と音楽を教えました。
父が亡くなった翌年の1904年エマは帝国大学で英米法を教えていたH.T.テリーと結婚します。 
テリーはその後も10年間日本に留まり大学で教えていました。その後家族もともに帰国、
エール大学の教授となったそうです。

フルベッキとエマは親子2代に渡って、日本の教育、政治に大きな影響を与え、日本の近代化に
貢献したのです。

娘が自分と同じ使命(宣教師)を持って、また日本に戻ってきてくれる、と知った時の
父親はどんな気持ちでしょうか。
きっとことばでは言い表せないくらい嬉しかったと思います。
ちょっと羨ましい感じがしてしまいます。



参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/グイド・フルベッキ
梅渓昇「御雇い外国人~明治日本の脇役たち」


ところで、フルベッキですが、
日本では日本人が発音しやすいようフルベッキ(Verbeck)と名乗り、
現在に至るまでこのように 呼ばれているそうです。
しかし、娘のエマはヴァーベックという表記を使っています。



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写真はエマが教えた現在の立教女学院








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