きのう、昼飯時に
心のどこかに、武満徹の音楽が鳴って
都市の溝に、無数の蟻たちが流茫、退散、消去される
ようなことをイメージ。
自転車で、京の小路を走っているときだ。
詩は、いつもこんな感じで書きはじめられる。
すっと行くときは、ほぼ20分ぐらいで
50行ぐらいに草稿があがる。
この夏、8月締め切りの詩作品が7件もあった。
みな、水にまつわる作品ばかりだった。
蟻が流された、豪雨、あるいは驟雨。
その雨は、この世界を描く、素描の主体で
夏の人々は、その蟻よりも淡い、主や身で
受動的に構成され、描かれている
と思った。
連作進行中の「双児の艸」でも
似たようなことを考えている。
右耳の上のこめかみあたりがずっと痛く
湿布をしたりしているが、調べる必要があるかも。
7作も書いて、雑誌に送って
その間に、通販カタログなどのコピーも仕上げる。
湿布を貼りながら
ゴルフの月例競技にもでる。
祇園に行くような生業関連の日常もある。
詩を書く、その「書くこと」を日録になど
しるしたことはほとんどないが
疲れた、夏だなあと思う。
★
ステレオではなくて、
50年代のモノラルの音源に親しんできた。
8月から9月にかけて
ウィリアム・カペルというピアニストの音。
これも、なぜだか
「水」を感じて聞いている。
ミケランジェリの音も。
ピアノの音、「風」よりも少し、少しだけ
ソリッドな粘りのある「水」がいい。
それは、すぐに、退却して、流茫して消える。
この夏は、そんな夏だった。
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