文屋

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●「朗読否定論者」になりかけていたけど、そうでもないように思えてきたこと。

2008年01月11日 19時01分22秒 | 文学全部

あまり夢のことなんか書きたくないけど
きのうの夢、

私は、ある集まりにきていて
そこに知り合いがいっぱい集ってきている。
それで、なんだかそれが前衛劇団のようで
来ている人たちが、次々に紙片を渡していく。
渡された紙片には、詩が書いてある。
どの詩も、当然ばらばらの内容。

そして壁面に、どこかの駅頭の雑踏が映し出される。
 (その映像は、なかなか洒落ていていいなと思う
       はっきり今でも覚えている)

で、「さあ、それらの詩篇をリーディングしろ」
と言う。

ぼくは、困った困った、なんかそんなことできないよお、
というところで目が覚めた。
今朝の4時頃。

それで考えた。どれぐらい考えていただろうか。
覚めて、ぼんやりしながら。

考えたことは、以下のこと。



詩は、手で書く。
もしも手の不自由な人(またはない人)ならば、口で書く。
口述筆記でもいいだろう。

詩のリーディングとは、この口、あるいは声で創作する行為
なのだろうなと思った。

書いたものを、声に出して「読む」ことではない。

書いたものを、「書いたときの声」にもう一度戻して「追創作」すること。
「書いたときの声」には、少し「音楽」や「リズム」もある。

書いたものを、声に出して「伝え」たり「演じ」たりするものではない。



リーディングの会というのは、「追創作の共有空間」であって、
パフォーマンスを観る空間ではない。
この場合、リーディングの会は、「創作の空間」であって
自作者自読がのぞましい。

演者と観客という関係ではないのだから、そこにギブ&テイクの
奉仕はない。故に、無料が基本だろうと思った。

ただ、「共有空間の使用料」は、共負担にしたほうがいいだろう。



詩のリーディングは「書く」ということに他ならない。
それを共有する、聴く側にとっても、「書く」ということだろう。



詩のリーディングを、できる限り「媒体化」しないこと。
余計な音楽や映像を挿んだり、協奏することなどは必要ない。
「書く」ことには、すでに、つまり「書いたときの声」には
音楽も映像もそこにあるわけだから。

媒体化する前に、身体は、すでに明確な媒体でもあるのだから。



詩のリーディングは、興行ではない。
基本的には、演奏会でもエキジビジョンでもない。

最近、リーディングということを否定的に考えがちだったが
こういう整理をしてみて、またできるような気がしてきた。

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