あまり夢のことなんか書きたくないけど
きのうの夢、
私は、ある集まりにきていて
そこに知り合いがいっぱい集ってきている。
それで、なんだかそれが前衛劇団のようで
来ている人たちが、次々に紙片を渡していく。
渡された紙片には、詩が書いてある。
どの詩も、当然ばらばらの内容。
そして壁面に、どこかの駅頭の雑踏が映し出される。
(その映像は、なかなか洒落ていていいなと思う
はっきり今でも覚えている)
で、「さあ、それらの詩篇をリーディングしろ」
と言う。
ぼくは、困った困った、なんかそんなことできないよお、
というところで目が覚めた。
今朝の4時頃。
それで考えた。どれぐらい考えていただろうか。
覚めて、ぼんやりしながら。
考えたことは、以下のこと。
★
詩は、手で書く。
もしも手の不自由な人(またはない人)ならば、口で書く。
口述筆記でもいいだろう。
詩のリーディングとは、この口、あるいは声で創作する行為
なのだろうなと思った。
書いたものを、声に出して「読む」ことではない。
書いたものを、「書いたときの声」にもう一度戻して「追創作」すること。
「書いたときの声」には、少し「音楽」や「リズム」もある。
書いたものを、声に出して「伝え」たり「演じ」たりするものではない。
★
リーディングの会というのは、「追創作の共有空間」であって、
パフォーマンスを観る空間ではない。
この場合、リーディングの会は、「創作の空間」であって
自作者自読がのぞましい。
演者と観客という関係ではないのだから、そこにギブ&テイクの
奉仕はない。故に、無料が基本だろうと思った。
ただ、「共有空間の使用料」は、共負担にしたほうがいいだろう。
★
詩のリーディングは「書く」ということに他ならない。
それを共有する、聴く側にとっても、「書く」ということだろう。
★
詩のリーディングを、できる限り「媒体化」しないこと。
余計な音楽や映像を挿んだり、協奏することなどは必要ない。
「書く」ことには、すでに、つまり「書いたときの声」には
音楽も映像もそこにあるわけだから。
媒体化する前に、身体は、すでに明確な媒体でもあるのだから。
★
詩のリーディングは、興行ではない。
基本的には、演奏会でもエキジビジョンでもない。
最近、リーディングということを否定的に考えがちだったが
こういう整理をしてみて、またできるような気がしてきた。
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