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大いなる謎・織田信長 武田鏡村 2002年9月17日 PHP研究所

2015-05-07 11:46:48 | 雑学
天下布武を目指し、抜群の才覚で戦国を席巻した織田信長。だが、戦国随一の実力者でありながら、出生から本能寺の最期に至るまで、その人物像は、いまだ多くの謎に満ちている。本書は信長の幼少から晩年までの言動、合戦時の戦略・戦術、さらには天皇・宗教との対峙、天下統一構想の全貌など様々な観点から、"大うつけ"と蔑まれ"魔王"と恐れられた男の正体徹底検証する。『「信長伝説」の真実』を改題。
裏表紙より。
元の本は1995年11月(講談社)。
読破に3時間。読むのが楽なだけの本が続いた後にしたのは失敗だった。


第一章 戦略児の実像

誕生伝説がない信長の謎
 信長の生れた日は、フロイスの報告書によって、かろうじて推定することができるが、彼がどのようにして生まれたかについては、よくわかっていない。もちろん父親は尾張の織田信秀、母親は土田氏出身の女性である。それはわかっているのだが、彼には英雄にまつわる誕生伝説なるものが、不思議なほどまったくない。
秀吉「ボクちゃんは天皇の隠し子」(どやぁ)
家康「ボクちゃんは仏の生まれ変わり」(きりっ)
で、信長サンはそういうのが無いんだってさー。
「勝つためにもっとも効率的なことを考え、実行せよ」
 これが彼の行動のすべてであった。
効率厨たる信長サンからすれば、
信長サン「出生伝説・・・?」(失笑)
ということだったに違いない、というお話でした。


乳母による養育は常識だった

 信長の非情な性格は、母親の愛の欠落によるという、こうした見方は妙な説得力をもつが、私はこれに対して、多少異議を申し立てたい。
kwsk。
 母親への愛と憎しみが、子どもの性格を決めたというのは、きわめて近代心理学的なとらえ方で、信長の時代心理を理解するものにはならない。そうしたフロイト流の心理学的なとらえ方で、この時代をとらえれば、少なくとも天皇や公卿、将軍、守護大名といった上層社会を形成する男たちは、すべて信長的な性格にならざるを得ないことになる。
「どこの家もそうやってた」なら、それだけを原因と断じるのは確かに無理がある。
それにしてもフロイト流は色んな本で出てくるなぁ・・・うさんくさい本で心理学に幻滅している今こそ、大御所の本を読むべきかもしれない。
 信長の性格を決定づけたものは、やはり信秀であり、信長が育った状況になるといえる。
そこをもっとkwsk・・・と急かすまでもなく話は続く。
父の背中に見た「武将の出処進退」
 この敗北が十一歳の信長に、どのように影響したかはわからない。ただ、父親の出処進退のやり方を学んでいたであろうことは確かである。
『両面作戦という軍事戦略』
『「大将が討死ねば、全軍は壊滅し再起できない」』
『虚栄』
などなど、信秀と斎藤利政(道三)の美濃盗り合戦の影響を指摘。
 このように信長にとって、母親の愛情というよりは、父親の姿そのものが彼の性格を決定づけていたとみるべきである。「子は父親の背中を見て育つ」というが、信長が信秀の背中にみたものは、勝つためには非情な行為さえもいとわない武将という姿であった。
カエルの親はカエルだったんだよ!


第二章 布陣の鉄則

信長の前に屈服した兄弟たち

 ところが帰順したにもかかわらず、再び裏切った者には容赦はしない。「仏の顔も三度まで」というが、信長の"仏の顔"は大体二度である。これを暴君だとか、マキャベリストだ、というのは的はずれなとらえ方である。松永久秀は二度信長を裏切ったものの、信長はこれを許し、三度目にはとうとう堪忍袋の緒を切って攻め殺した。これが同族の場合になると、組織の結束力を高めるために、再びの裏切りは許されない。信行の場合がそれにあたる。
この前の長文には『信長は戦国武将の中でも忍耐強い人であった』ってのもあって驚いた。
例のホトトギスの件は側で8時間くらい待ってたのかもしれない。



「百に一つの勝算あり」に賭ける

 通説では、信長は今川軍に気付かれないように迂回作戦をとって、不意を衝いて義元本陣を奇襲し、成功したといわれている。
世に言うOKEHAZAMAの戦い。
小学校でそう習った気がする。
 ところが、じつは、この桶狭間の合戦では、信長は迂回・奇襲戦法はとっていなかったのである。
な、なんだってー!?
曰く、「今川義元がアホの子だった」とか「信長サンは情報収集を徹底して行っていた」とか・・・その辺は今なお議論が尽きないらしい(Wikipedia)から何とも言えない。
ただ奇襲であろうとなかろうと、信長サンの突撃直前に雨が降って今川軍の対応が遅れたのは重要な点。

「OKEHAZAMA」を並び変えると「AMEZAHAOK」、「雨ザはおk」。
「ザ」は「雨の音」と考えられるため、正確には「雨ザーはおk」。
つまり豪雨による勝利は料理しきれなくてゴメンネー。



第四章 権力の構造

秀吉は信長の命令を無視した!

 この比叡山攻めにみる信長の武将たちの対欧のちがいは、じつは彼らが主君の信長をどのように見ていたかのちがいでもあった。明智や佐久間は、意見はいうものの決定された命令には従うという柔順な武将であり、秀吉は表面では信長に従いながら、目の届かないところでは独断的に行動するという狡猾な武将であった。
明智・佐久間「坊主や女子供殺しはやめたほうg」
信長サン「殺れ」
明智・佐久間「ラジャーっす!」
一方、何も言わずにしれっと脱走者を見逃す秀吉であった・・・という話。

ところどころで秀吉sageっぽい空気を感じる。
でも嫌悪感はない。俺の知識は秀吉ageのモノに偏ってるのかもしれないし・・・。
幸村「あのどこか土の臭いのとれない」
 「人なつっこい子供みたいな笑顔を向ける秀吉って人が」
 「ボクは――たまらなく好きだったのかもしれない・・・・」
はい、ここツッコムところですよー。



第五章 勝利の方程式
野戦におびき出す信玄の基本戦略

 家康も徳川の面子に心を動かされた。とはいえ信長の厳命も無視しがたい。そこで家康が採った作戦は、「籠城と野戦の両用」という折衷策であった。この曖昧な作戦は、やがて手痛い結果を招くことになる。
「魔王」信長サンと「風林火山」武田信玄の超A級対決に巻き込まれた家康\(^o^)/
でも最後は家康なんだよな。三国志もそうだけど、勝者に\(^o^)/は付き物・・・!

\(^o^)/した者が全て報われるとは限らん。しかし!成功した者は皆すべからく\(^o^)/しt



三万数千人におよぶ皆殺しの真相

 まだ依然として抵抗する石山本願寺や越前の一向宗徒へのみせしめということもあったろうが、騙し討ちによる殲滅作戦は、明らかに信長の心理的変化が戦略にまで影響していた。
 それは「苛立ち」というひと言に尽きる。どれだけ倒しても次から次へ現れる敵勢力への苛立ちである。そんな彼らは、信長が考える天下統一の進路をことごとう妨げる。しかも、朝廷や天皇とのかかわりから生まれてくる政治権力の新体制というものも、依然として曖昧なままである。
長島における数千人以上の『皆殺し』(と書いてジェノサイド)についての考察。
カリカリしやがって、カルシウム不足だぜっ!



第六章 収攬の図式

光秀の懸念は「信長神」であった

 光秀がそう思うようになったのは、決して叱責されたり、面子を潰されたからではない。怨念や遺恨で主君に背く者も多くいたが、光秀はそんなスケールの小さな人物ではなかった。光秀の目に信長の短所が日増しに拡大してきたのは、やはり現人神としての"信長神"の創出であった。そして"信長神"を頂点に戴くであろう日本の政治体制への大いなる疑問であった。
マキャベリの君主論から考える光秀の裏切り。
こういう話を授業では一切聞いた覚えが無いんだよなぁ・・・進学校や大学だったら聞けたのかしら。


その後の信長――あとがきに代えて

 いずれにしても秀吉や家康もまた、信長の死を契機にして、本書で分析した"信長的なるもの"を無視し、排除しようとした。だが彼らは、いずれも信長が築き上げた土俵の上でしか、相撲をとることができなかったというのが真相である。
 その意味で信長は、近世以降の日本の枠組みをつくり上げた創始者であり、「信長の真実」に迫ることは、日本人の意識や行動の源流をたどることになり、大きくいえば日本というものを考える土台となるものである。
最後までさりげなーく秀吉(ついでに家康も)sageて終了。


信長が主役の本で秀吉sageがちょいちょい出てくるのは意外だったけど、そう思う事こそ「破天荒な信長を慕ってその志を継いだ秀吉」のイメージが作られている証拠かもしれない。

『まえがき』にある通り、著者が『推測した"語録"』・・・つまり「小説」的な部分と、明確な事実の「論文」的な部分がある本。
正直後者は眠くなるけど、前者は歴史小説を読んでるようで面白かった。
「漫画→歴史小説→これ」という流れにした方がよかったかもしれない。



午前中は朝。(きりっ)