
高崎
箕輪城は高崎市箕郷町にあった平山城
です。
高崎駅からバスに乗り30分。バスの本
数は極端に少ないです。
箕郷本町で下車し、城下町本町上町を歩
きました。途中、諏訪神社があります。

30分程歩くと、こんもりと突き出た丘
に箕輪城跡がありました。
城地は東西約500メートル、南北約
1100メートル、面積約47ヘクター
ルにおよぶ広大なものでした。
搦手口から入り、大堀切を横切り、二の
丸、本丸、御前曲輪と進みました。

1500年頃、上野国長野郷出自の豪族
長野氏が築城しました。
相模を本拠とする北条氏、甲斐の武田氏
、越後の上杉氏が侵攻を繰り返す場でし
た。
長野業正は、箕輪衆と呼ばれる在郷武士
団を束ね、長野氏全盛時代を築きまし
た。

1561年(永禄4年)、業正が没する
と、14歳で子の業盛が家督を継ぎま
す。
業正は臨終に際し「我が葬儀は不要であ
る。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔い
には墓前に敵兵の首をひとつでも多く並
べよ。決して降伏するべからず。力尽き
なば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ
孝徳と心得るべし。」と伝えました。

その死は永らく秘匿されましたが、竹田
信玄は業正の死を知るや再び侵攻を開始
します。
1566年(永禄9年)、竹田軍の総功
撃により箕輪城は落城しました。

若き業盛は重臣たちが落ち延びることを
提言しても聞かず、
「暫時の命を惜しみて不慮の横死などせ
ば、父の遺訓に背き、祖先の名をも汚す
べし。」
父の位牌の前で三度礼拝した後、本丸の
奥、御前曲輪の持仏堂で自害しました。
19歳の短い生涯でした。
「春風に 梅も桜も散り果てて
名のみぞ残る みわの山里」

その後は、竹田氏、織田氏、北条氏、
徳川氏と次々と主が代わりました。
1598年(慶長3年)、井伊直政は
城を高崎に移し、箕輪城は廃城になり
ました。
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