matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

フェルメールの故郷、デルフト

2016-06-27 11:00:40 | 世界の都市



 デルフト

 デルフトはハーグから列車で
約20分。

1600~1800年頃までヨーロッパ
で重要な陶器の産地でした。

中国や日本の伊万里からの影響を受けた
デルフト焼は、いまも技術を受け継いで
います。

人口約9万人。大学町でもあります。


ヨハネス・フェルメール(1632-
1675年)はデルフトに生まれ、
生涯のほとんどを過ごしました。

1632年といえば、レンブラントが
出世作「テュルプ博士の解剖学講義」
を描いた年です。



生涯で描いた絵は55点前後、現在
までに見つかっている作品は35点
前後とされています。

1653年にカタリーナと結婚します。
フェルメールはプロテスタントですが、
妻の実家はカトリックでした。

15人の子供が生まれましたが、4人
は夭折しています。

「デルフトの眺望」は1660-
1661年頃に描かれました。

中央にスヒーダム門(時計塔)、少し
奥に新教会が明るく朝日を受けて
輝いています。



マルクト広場にそびえるゴシック様式
の新教会は14世紀中ごろの建造です。

フェルメールは新教会で洗礼を受け
ました。



現在のマルクト広場は観光客で
にぎわい、カフェやデルフト焼
の店が並んでます。



運河オウド・デルフト沿いに眺める
旧教会です。

デルフト最古の教会で、14世紀に
建てられた塔はピサの斜塔のように
傾いています。



内部にはフェルメールの墓があります。

フェルメールは画家兼美術商のかたわら
パブ兼宿屋を経営しました。

1670年代に第3次英蘭戦争が勃発
すると、経済は低迷し、絵画市場も
大打撃を受けます。

画家の数が4分の1にまで減少した
そうです。

大量の負債を残して、1675年43歳
で死去しました。

妻カタリーナの母は裕福でしたが、孫を
負債から守る為、カタリーナは過酷な
生活をしいられ、12年後に亡くなり
ます。

フェルメールの名は長らく忘れられて
いましたが、ようやく19世紀フランス
において再発見され、高い評価と
人気を得るようになりました

「失われた時を求めて」の作家
マルセル・プルースト(1871-
1922年)は、ハーグでこの絵を
見て「この世で最も美しい絵」と
賛美し、小説にもとりあげています。

フェルメールが描いたあたりから
撮影してみました。



フェルメール作品の大半は室内に立つ
女性の姿を描いています。都市景観図
は異例ですが、西洋美術において
エル・グレコの「トレドの風景」同様
に、ひとつの町に対する最大の賛辞
となっています。

フェルメールは日記や手紙を残して
おらず、その私生活は謎につつまれて
います。

不思議なことに母と子を描いた作品が
見当たりません

フェルメールの作品世界は静まり
かえった寡黙な世界です。

日常生活の一コマとして描かれた女性
たちは、深いやすらぎと穏やかさを感じ
させ、まるで手の届かないヴェールに
おおわれた世界の住人のように
見えます。


オランダ黄金時代の名品マウリッツハイス美術館、ハーグ

2016-06-21 11:07:27 | 世界の都市




 オランダの旅の続きです。

キンデルダイクからハーグへ
向かいました。

(撮影は2015年9月下旬)

 
 ハーグ

 ハーグは北海に面するオランダ第3の
都市です。

人口約52万人のこじんまりした町は、
緑が多く、公園のなかの町といった
雰囲気です。

政府機関や大使館が集まり、オランダ
の政治の中心地であり、また
ベアトリックス前女王が住んでいた
宮殿もあり、「ロイヤルシティ」の
異名ももちます。

又、近頃話題になっている国際司法
裁判所もここにあります。



ビエンホフには13世紀から17世紀
にかけて建てられた由緒ある建物が
集まっています。

最も古いのが騎士の館と呼ばれる国会
議事堂。



ビエンホフの一角に、オランダで最も
美しい建物のひとつといわれる
マウリッツハイス美術館があります。



17世紀にヨーハン・マウリッツ伯爵
の私邸として建てられたルネッサンス風
の建物です。

17世紀オランダ・フランドル絵画の
珠玉の名品を観ることができます。



ルーベンスの「聖母被昇天」です。

3階にはレンブラント室とフェルメール
室があります。



フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」
と「デルフトの眺望」です。



フェルメールについては、次回デルフト
を旅しながら述べます。


レンブラント・ファン・レイン
(1606-1669年)は、
フェルメール、カラヴァッジョ、
ルーベンス、ベラスケスなどと共に、
バロック絵画を代表する画家です。

「光の画家」または「光と影の
魔術師」などといわれます。

明暗法によって光と影の劇的な効果を
生み出す技法に熟達し、人物の感情が
高揚するドラマチックな瞬間を描写
することを得意としていました。

スペインから独立する(1609年)
直前のオランダ、ライデンで
生まれます。

日本はこの頃、徳川幕府の創設期です。



1632年の「テュルプ博士の解剖学
講義」は、教授が行う解剖の講義を
受ける名士たちを描いた集団肖像画です
が、高い評価を得て、代表作かつ出世作
となりました。

翌年22歳のサスキアと婚約し、多額の
持参金と富裕層へのコネクションを
得ました。

富と名声を得たレンブラントは、豪邸を
所有し、弟子を教育しつつ、あらゆる
ものを対象に描きました。

資料のために、美術品・工芸品・装飾品
などを収集し、投機にも手を出し失敗
したりします。

サスキアの財産を食いつぶしていると
非難されたりします。

又、3人の子供を短命で亡くす不幸にも
見舞われます。

1642年には「夜警」を完成させます
が、この年サスキアは29歳で亡くなり
ます。

サスキアの遺言は、彼が再婚しないこと
を条件に4万ギルダーの遺産を彼に
使わせるというものです。

彼の浪費癖は治まらず、私生活も泥沼を
迎えます。

仕事もめっきり減り、1652年に
英蘭戦争が勃発し、オランダ経済が
不況になると、無一文になり貧民街
に移ります。

晩年にも人生は好転することなく、
1669年に亡くなります。

レンブラントは絵画の革新者として
高い評価と名声を得ましたが、彼の
生き方はプロテスタント的価値観とは
異質でした。

「光と影の画家」そのままに、
浮き沈みの大きい生涯でした。

赤坂迎賓館と山王祭

2016-06-15 10:05:06 | 東京散歩




 赤坂

 赤坂迎賓館が一般公開されています。

朝、四谷駅前の「PAUL」で朝食を
とり、外に出ると偶然にも、山王祭の
祭列行列を見ることができました。



山王祭(日枝神社)は神田祭、深川祭
とともに江戸三大祭りのひとつです。

2年に一度の行列は東京都心を練り歩き
ます。

江戸時代の最盛期には神輿3基、山車
60台という大行列だったそうです。




日本の迎賓館は、赤坂迎賓館と京都
迎賓館とがあります。

かつて紀州徳川家の江戸中屋敷が
あった広大な敷地の一部に、
1909(明治42)年東宮御所
が建設されました。



鹿鳴館などを設計したジョサイア・
コンドルの弟子、片山東熊の設計
による日本における唯一のネオ・
バロック様式の西洋風宮殿建築です。

大正時代に赤坂離宮と改められますが、
戦後は皇室から国に移管され、
国会図書館、東京オリンピック
組織委員会などに使用されました。



1974(昭和49)年に現在の
迎賓館が完成しました。

本館内は残念ながら撮影出来ませんが
彩鸞(さいらん)の間、花鳥の間、
朝日の間、羽衣の間などを見学
しました。

内装・調度品・美術品・シャンデリア
等々目をみはるものばかりです。

特にシャンデリアの豪華さが印象的
です。



西洋風の宮殿建築と日本風の意匠が
混じりあい、整然とした調和を
感じさせる落ち着いた気品ある空間
が演出されています。

テレビで何回も見ているのでしょう
が、実地にその部屋にたたずみ、
広い空間を見渡すと又印象が違います。


鎌倉の花の寺ー長谷寺、東慶寺

2016-06-08 10:21:24 | 日記




 鎌倉

 6月初旬、梅雨入り前に鎌倉へ行き
ました。

鎌倉へ行く時は、いつも「江ノ電」に
乗ります。

「鎌倉高校前」でパッと視界がひらけ、
青い海が広がります。陽の光も海の青さ
も、夏が近いことを感じさせます。


長谷寺

「長谷」で降りると徒歩5分。
長谷寺は通称長谷観音。

伝承では長谷寺の創建は奈良時代と
されています。

十一面観音像を本尊としていますが、
大和の長谷寺の十一面観音像と同木
から造られたとされています。



鎌倉有数の紫陽花の名所です。
40種類、2500株の紫陽花
が楽しめます。



見晴台からは由比ヶ浜が眺められます。



東慶寺

東慶寺は北鎌倉駅から徒歩5分。

臨済宗円覚寺派で、鎌倉尼五山二位
の寺格です。

明治中頃まで、本山を持たない独立
した尼寺でした。



江戸時代は縁切寺として知られ、
女性の離婚に対する家庭裁判所の
役割も果たしていました。

文人の墓が多いことで有名です。

鈴木大拙、西田幾多郎、和辻哲郎、
小林秀雄、高見順等々数えあげたら
きりがありません。



境内には四季折々様々な花が
楽しめます。

本堂裏には岩がらみが、壁面一杯
に咲いていました。
この時期だけの特別公開だそうです。

函館散歩その3-立待岬と啄木

2016-06-01 11:26:26 | 旅行




 函館その3

 市電青柳町で下車すると、
ほど近くに函館公園があります。



すりばち山のたもとに、ひっそりと
歌碑が建っています。



「函館の青柳町こそかなしけれ
  
  友の恋歌 矢ぐるまの花」

ただ長年の風雪にさらされて
判読しにくくなっています。


石川啄木(1886-1912年)は
1907(明治40)年5月、故郷
渋民村を旅立ち、青森から青函連絡船
で函館入りします。

函館は当時、東京以北で最も人口の多い
近代都市でした。

啄木はハイカラで文化的な雰囲気に
魅了されました。

21才の啄木は青柳町に居住し、
夏には家族を呼びよせましたが、
8月25日の大火により、勤務先の
小学校・新聞社が焼失してしまいます。

啄木の函館滞在は132日間、以後
札幌・小樽・釧路そして東京と転居
を重ねます。



「死ぬ時は函館で死ぬ・・・」と
書き残し、1912(明治45)年
4月13日、肺結核のため小石川
にて死去。享年26。

翌年5月には妻節子も死去。

友人たちの尽力により、遺骨は東京から
函館に移され、函館山南端の立待岬に
葬られました。

墓面には

「東海の 小島の磯の 白砂に
 
 われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

の一首が刻まれています。



啄木は中学時代、「明星」を読んで
与謝野晶子らの短歌に傾倒して
文学への志を抱きました。



啄木一族の墓から少し歩くと、
1931(昭和6)年に来函した
与謝野夫妻が詠んだ歌が刻まれて
います。

「啄木の 草稿岡田先生の

 顔も忘れじ はこだてのこと」

与謝野晶子


 啄木については、作品と人物の落差
がよくいわれますが、

井上ひさしは
「日本史の上で五指に入る日本語の
使い手」と絶賛し、

ドナルド・キーンは、そのスタイルを
「本質的に即興詩人のものだった」
と指摘しています。

明治生まれの詩人の歌は、現代人の心
にそのまま響きます。



流浪の詩人啄木とその家族は、
津軽海峡を見渡す小高い丘の上に
眠っています。

函館の地できっと、幸せな家族の時間
があったとおもいます。