デルフト
デルフトはハーグから列車で
約20分。
1600~1800年頃までヨーロッパ
で重要な陶器の産地でした。
中国や日本の伊万里からの影響を受けた
デルフト焼は、いまも技術を受け継いで
います。
人口約9万人。大学町でもあります。
ヨハネス・フェルメール(1632-
1675年)はデルフトに生まれ、
生涯のほとんどを過ごしました。
1632年といえば、レンブラントが
出世作「テュルプ博士の解剖学講義」
を描いた年です。
生涯で描いた絵は55点前後、現在
までに見つかっている作品は35点
前後とされています。
1653年にカタリーナと結婚します。
フェルメールはプロテスタントですが、
妻の実家はカトリックでした。
15人の子供が生まれましたが、4人
は夭折しています。
「デルフトの眺望」は1660-
1661年頃に描かれました。
中央にスヒーダム門(時計塔)、少し
奥に新教会が明るく朝日を受けて
輝いています。
マルクト広場にそびえるゴシック様式
の新教会は14世紀中ごろの建造です。
フェルメールは新教会で洗礼を受け
ました。
現在のマルクト広場は観光客で
にぎわい、カフェやデルフト焼
の店が並んでます。
運河オウド・デルフト沿いに眺める
旧教会です。
デルフト最古の教会で、14世紀に
建てられた塔はピサの斜塔のように
傾いています。
内部にはフェルメールの墓があります。
フェルメールは画家兼美術商のかたわら
パブ兼宿屋を経営しました。
1670年代に第3次英蘭戦争が勃発
すると、経済は低迷し、絵画市場も
大打撃を受けます。
画家の数が4分の1にまで減少した
そうです。
大量の負債を残して、1675年43歳
で死去しました。
妻カタリーナの母は裕福でしたが、孫を
負債から守る為、カタリーナは過酷な
生活をしいられ、12年後に亡くなり
ます。
フェルメールの名は長らく忘れられて
いましたが、ようやく19世紀フランス
において再発見され、高い評価と
人気を得るようになりました
「失われた時を求めて」の作家
マルセル・プルースト(1871-
1922年)は、ハーグでこの絵を
見て「この世で最も美しい絵」と
賛美し、小説にもとりあげています。
フェルメールが描いたあたりから
撮影してみました。
フェルメール作品の大半は室内に立つ
女性の姿を描いています。都市景観図
は異例ですが、西洋美術において
エル・グレコの「トレドの風景」同様
に、ひとつの町に対する最大の賛辞
となっています。
フェルメールは日記や手紙を残して
おらず、その私生活は謎につつまれて
います。
不思議なことに母と子を描いた作品が
見当たりません
フェルメールの作品世界は静まり
かえった寡黙な世界です。
日常生活の一コマとして描かれた女性
たちは、深いやすらぎと穏やかさを感じ
させ、まるで手の届かないヴェールに
おおわれた世界の住人のように
見えます。