matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

 武蔵野の桜

2019-04-25 11:14:48 | 東京散歩




 武蔵野

 4月上旬の武蔵野です。

武蔵境駅で下車、玉川上水に向かう道を
10分程歩くと、桜橋に出ます。


  (桜橋)

国木田独歩の「武蔵野」の一節です。


三崎町の停車場から境まで乗り、
其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと
櫻橋といふ小さな橋がある、(中略)
「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」
と答へると、婆さんも笑て、(中略)
「櫻は春咲くこと知ねえだね」と言った。


桜橋付近は桜の名所で、玉川上水の堀の
両側には、吉野桜として有名な古木の桜
の樹が植えられていました。

独歩が恋人と桜橋を訪れたのは、夏の暑
いさかり。茶屋の婆さんは呆れたように
笑います。


  (独歩文学碑)

桜橋のたもとには、柳田国男らが世話人
となり、没後50年の昭和32年に建て
られた碑があります。

「武蔵野」は近代化で失われつつあった
雑木林などを含めた東京西郊の自然美を
人々に知らしめたことで、現代に至るま
で評価されています。

しかし明治31年の発表当時は、尾崎紅
葉と幸田露伴が主流の「紅露時代」で、
時代に早過ぎた独歩の作品はあまり理解
されませんでした。



玉川上水と境浄水場の間のさくら通りを
三鷹方面へ歩きました。

桜が散り始めています。


  (大橋付近)

大橋は、玉川上水ができた1654年以
降に最初に架けられた橋の一つとされて
います。三鷹との境にあるので「境大橋」
とも呼ばれたそうです。

さくら通りをゆっくり20分程歩くと三
鷹駅北口に着きました。

駅前に「独歩の碑」があります。


  (独歩の碑)

独歩は編集者・小説家として活躍します
が、明治41年36才の若さで肺結核の
ため亡くなります。

田山花袋は弔辞で、独歩の人生を一文字
で表すなら「窮」であると述べました。

碑にある半身レリーフは、独歩が亡くな
った3ヵ月後に誕生した次男佐土哲二の
作品です。


 春の江戸城内郭巡りその2

2019-04-18 11:20:31 | 日本100名城




 江戸城

 江戸城は「内郭」と「外郭」で構成さ
れます。内堀通りに囲まれた内郭は、城
の中心部です。

千鳥ヶ淵交差点から半蔵濠に沿って、千
鳥ヶ淵公園を歩くと半蔵門に出ます。


  (半蔵門)

江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」
とも呼ばれ、甲州街道の要衝となってい
ました。

名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこの
あたりに屋敷を拝領していたという説が
あります。

現在、門内には吹上御苑があり、皇族方
の皇居出入り口となっています。


  (桜田濠)

桜田濠に沿って半蔵門から日比谷方面に
向かって、緩やかに下っていくと外桜田
門が見えてきます。


  (外桜田門)

現在この門は桜田門と呼ばれますが、正
式には外桜田門といい、本丸に近い内桜
田門(桔梗門)に対してこの名が付けら
れました。

門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多
くありました。桜田の名は、この地が古
代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し
ます。

1860年(万延元年)の桜田門外の変
は、大老井伊直弼が屋敷から登城中に水
戸浪士に暗殺された事件です。

1923年の関東大震災で門が壊れまし
たが、再建され現在に至っています。


  (二重橋と伏見櫓)

桜田門から皇居外苑に入りました。

二重橋の正式名称は正門鉄橋。かつては
木橋で、その下に橋桁を支えるもう一つ
の橋があったため、二重に架けられた橋
という意味で「二重橋」と呼ばれます。

奥に見える伏見櫓は現存する二重櫓。濠
の水面までは24mもあります。


  (桔梗門)

外桜田門に対して内桜田門と呼ばれまし
た。本丸南口の通用門で、大手門と並ぶ
登城の門でした。

門の警護は6~7万石の譜代大名があた
っていました。

桔梗濠に沿って大手門まで戻り、これで
内郭一周しました。

現在、皇居として使われているのは西の
丸や吹上などです。

1868年(慶応4年)の無血開城より
以前に、本丸御殿と二の丸御殿は消失し、
実質的な城の中心は西の丸御殿に移って
いました。

明治天皇は西の丸に入り、以後西の丸が
皇室の御座所となりました。

 春の江戸城内郭巡りその1

2019-04-11 11:26:51 | 日本100名城




 江戸城

 3月下旬の快晴の日、桜咲く江戸城を
訪ねました。

徳川家康が築いた江戸城は、総面積約
230万平方メートル、外濠の総延長
は約14kmにも及ぶ巨大な城です。

地下鉄大手町駅で下車、大手門から
スタートしました。

内堀に沿って約5kmを今回は歩きま
した。


  (大手門)

大手門は江戸城の正面玄関として使われ
た桝形の門。大きい方の門は昭和20年
の空襲で焼失し、昭和42年に復元され
ました。


  (富士見櫓)

大手門から皇居東御苑に入りました。

富士見櫓は江戸城の遺構で現存する唯一
の三重櫓。

明暦の大火で焼失後、1659年(万治
2年)に再建され、天守の代用としても
使われていました。

将軍が富士山や両国の花火、品川の海を
眺めたといわれています。


  (天守台)

江戸城では、慶長期天守(1607年)、
元和期天守(1623年)、寛永期天守
(1638年)と3度、天守が建てられ
ました。

最も規模が大きかった寛永期天守は、地
上からの高さが約58m(15階建ての
ビルに相当)あったそうです。

この天守台は、寛永期天守が明暦の大火
(1657年)により焼失後、天守再建
を目指して1659年に築かれましたが、
保科正之の「実用性に乏しい天守建築は
無駄」という鶴の一声で天守の建てられ
ないままになりました。

江戸時代の江戸城は天守があった50年
間の後、天守がない状態が210年間続
いたことになります。


  (本丸広場)

現在の本丸芝生広場には、本丸御殿が
建っていました。本丸御殿は「表」「
中奥」「大奥」の3区画に分かれてい
ました。



北桔橋(はねばし)門から皇居東御苑を
でました。

千鳥ヶ淵に向かう沿道は見事な桜並木
です。




  (続く)





 春の大阪城散歩その2

2019-04-04 10:57:15 | 日本100名城




 大阪その2

 天守閣の内部に入りました。

展示室では、大阪城の復元模型、秀吉の
作った黄金の茶室の原寸大模型など歴史
資料が豊富です。



ミニチュア夏の陣では、真田幸村隊と松
平忠直隊の激戦をミニチュア人形で再現
しています。


  (展望台からの眺望)

8F展望台まで昇ると、地上50mから
広大な大阪城と大阪のまちを一望できま
す。


大阪城の歴史は、本願寺八代蓮如上人が、
1496年(明応5年)この地に坊舎を
建てたことに始まります。


  (蓮如上人袈裟懸の松)

上人が袈裟をかけた松があったと伝えら
れ、その切り株だけが残っているとされ
るのが、二の丸内にある「蓮如上人袈裟
懸の松」です。

ところが徳川幕府による大阪城再築にさ
いして、豊臣大阪城は地上から消されて
おり、現在の地表に切り株があるはずが
ないとの指摘もあります。


  (蓮如上人の筆跡の「六字名号の碑」)

1532年(天文元年)山科本願寺が炎
上すると、本願寺はこの地に移され、本
願寺教団の中心となりました。

石山本願寺の寺内町では、多くの職人や
商人が生活しており、当時の堺とならぶ
豊かな都市生活がくりひろげられていま
した。

やがて本願寺は織田信長と対立し、15
70から11年間におよぶ石山合戦の後、
大阪を退去しました。


  (豊国神社)

本丸南側にある豊国(ほうこく)神社は、
1960年に中の島から移築され、豊臣
秀吉・秀頼・秀長をまつっています。

秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守
として新たな八幡として自らを祀るよう
遺言しました。

しかし八幡として祀られるという希望は
かなえられず、「豊国大明神」という神
号で祀られ、豊臣家滅亡後は神社も廃絶
されました。

豊国(とよくに)神社が京都に再建され
たのは明治8年のことです。

明治12年に、大阪別社として豊国神社
が創建されました。