![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/81/a9ea90acc0d30d929e8aaa720b1f6418.jpg)
(伊達政宗・秀宗父子)
1月中旬、宇和島城を訪ねました。
これで江戸時代から現存する12天守
登頂達成しました。
姫路城(2016.1)松江城(201
6.1)彦根城(2016.4)松本城
(2016.7)松山城(2016.9)
丸岡城(2016.10)弘前城(20
17.9)犬山城(2018.3)備中
松山城(2018.5)高知城(201
8.10)丸亀城(2018.11)
于和島城(2019.1)
と3年かかりました。
宇和島
松山に1泊して、翌朝宇和島へ向かい
ました。
JR宇和島駅から徒歩15分で城山の登
り口です。さらに20分程歩くと天守に
着きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/b8/faa3fd3bdcdc40f0b25da08cb7a489d0.jpg)
(石垣)
城山には450種の草木がうっそうと生
い茂り、苔むした石垣群が続いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/49/bf993ff0012cfddbd91664560a68fb81.jpg)
(宇和島城の井戸)
三ノ丸からの登り道に、数少ない城山の
遺構の一つ、深さ約11メートルの井戸
があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/10/de6d59bbfaee98d5e24da4f9bb235f1c.jpg)
(天守)
リアス式海岸の最深部に位置する、中世
に築かれた板島丸城の跡地に、1595
年藤堂高虎が宇和島7万石を拝領し入城
しました。
1614年には伊達政宗の長男秀宗が十
万石で入封、以後伊達氏歴代の居城とな
ります。
藤堂高虎が創建した望楼型天守を、2代
伊達宗利が層塔型に新造したものが、現
在の天守です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/0e/4862fb79c169c4ea274b8bd2d4c7dc32.jpg)
(天守内部)
小さいながらも御殿建築の意匠が随所に
見られ、非常に格式を重んじた造りです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/08/fb6e49d8e5df1f7d644642a6a2f3e6fa.jpg)
(天守からの眺め)
8代藩主伊達宗城(1818-1892
年)は、福井の松平春嶽、土佐の山内容
堂、薩摩の島津久光と並び「幕末の四賢
候」と称されました。
蘭学を積極的に導入し、高野長英、大村
益次郎(村田蔵六)を来藩させ、軍事の
近代化と殖産興業を発展させました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/be/2e5abf357a6de21b96f8557da2a8d754.jpg)
司馬遼太郎は「街道をゆく・南伊予・西
土佐の道」に
「天守閣と城山だけが
凝然と青い空をささえていて、
その孤独さは
悲痛なほどである」
と記しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/18/bc006a42fbd42fd03c1bbf40089a5cec.jpg)
(闘牛のモニュメント)
宇和島駅へ戻ると、闘牛のモニュメント
がありました。闘牛は直径20mの土俵
で巨牛が角を突き合わせる、宇和島の観
光名物です。
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