matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

四国の名城ー高松城

2018-12-20 10:58:13 | 日本100名城




 高松・丸亀の旅の続きです。

 高松その2

 「栗林公園」を出て、琴電に乗り終点
「高松築港駅」まで。

高松城跡(玉藻公園)が間近にあります。

閉門30分前ですが、あわてて駆け込み
ました。



「菊花展」の最終日でした。



高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれて
いますが、その由来は万葉集で柿本人麻
呂が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と
詠んだことに因み、このあたりの海が玉
藻の浦と呼ばれていたからだそうです。

1588年(天正16年)生駒親正が、
現在地を高松と改め築城に着手した平城
(水城)です。

瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引
き込んだこの城は、日本の三大水城のひ
とつといわれています。


  (月見櫓)

1640年(寛永17年)、生駒騒動と
いわれるお家騒動により、生駒氏は出羽
国矢島1万石に移されました。

この後常陸国下館藩主だった松平頼重が
東讃岐12万石の領主として入城しまし
た。

頼重は中国・四国の監察役を命じられて
いたといわれ、以後松平氏の治世は11
代228年間にわたり、高松は松平氏の
城下町として栄えました。


  (天守台)

天守台には、かつて3重5階(3重4階
+地下1階)の天守が建っていました。
老朽化により明治17年に取り壊されま
した。



高松藩士・小神野与兵衛「盛衰記」の逸
話です。3代将軍家光が頼重に12万石
をあたえたころ(家光39才、頼重21
才)、いっしょに江戸城の風呂に入って
いました。

「頼重よ、水戸殿がうらやましくないか」
頼重の弟光圀は水戸藩28万石の世子と
なった。

「いいえ、ちっとも。私は上様のお風呂
の相手まで許されていますので」
「いずれは同格の大名にしてやろう」
「ほんとうですか。ゆびきりかまきり、
ゆびきりかまきり」

おそらくは頼重自身の回想を、誰かが聞
いて記憶していたのでしょう。

(日経新聞12月1日付け書評欄「大名
家の秘密」から一部引用させてもらいま
した。)

 撮影は11月中旬です。








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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
記事に感謝 (K. F)
2018-12-24 22:52:21
いつも新しい記事を詳しく掲載して頂きありがとうございます。行った気分になります。次はどんな記事がでるのか、楽しみにしてます。
返信する
記事に感謝 (K. F)
2018-12-25 05:20:10
いつも新しい記事を詳しく掲載して頂きありがとうございます。行った気分になります。次はどんな記事がでるのか、楽しみにしてます。
返信する

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