matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

松江の旅その3-濠端の住まい

2016-03-18 11:29:46 | 旅行




 松江

(撮影は2016年3月1日です。)

 一晩降り続いた雪で、翌朝は雪景色
となりました。

県庁付近まで歩いて、雪の松江城を
撮りました。



小泉八雲旧居のほど近く新橋を渡り、
堀沿いの遊歩道を歩いていくと、
文学碑があります。





碑のあるところから、さらに歩くと
亀田橋です。

そのたもとに「どう」と大書された
倉庫があります。

その裏あたりに「濠端の住まい」が
あったそうです。





1914(大正3)年夏、志賀直哉
(1883-1971年)は、「白樺」
の仲間の里見とんとともに松江に
やってきて、この住まいに100日余り
滞在します。

文学碑の雪を手でかきわけると、
志賀直哉が現れました。



「ひと夏、山陰松江に暮した事がある。
町はづれの濠に臨んだささやかな家で、
独り住まいには申し分なかった。
庭から石段で直ぐ濠になって居る。対岸
は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、
水の上に低く枝を延ばして居る。・・」

短編「濠端の住まい」の冒頭です。

志賀直哉が松江にきたのは、小泉八雲の
著作の縁だそうです。

この年の12月、結婚しますが、父に
反対され、翌年には父の家から除籍
されます。

(つい先頃、この当時書かれた未投函
の叔父宛ての手紙が公開され、当時の
心境がつづられているとの報道が
ありました。

父との確執と和解という、志賀が
こだわった主題が表れているとの記事
でした。)

3月5日付、日本経済新聞より



1915(大正4)年夏、芥川龍之介
(1892-1927年)は一高時代
の親友井川恭の招きで、松江
を訪れます。

半月余り滞在し、周辺の海や山に
遊びます。

松江滞在中の住まいは、たまたま前年に
志賀が暮らした「濠端の住まい」
でした。

芥川は「松江印象記」を残しています。

「松江へ来て、まず自分の心をひいた
ものは、この市を縦横に貫いている
川の水とその川の上に架けられた
多くの木造の橋とであった。
(略)
  
 橋梁に次いで、自分の心をとらえた
ものは千鳥城の天守閣であった。天守閣
はその名の示すがごとく、天主教の渡来
とともに、はるばる南蛮から輸入された
西洋築城術の産物であるが、自分たちの
祖先の驚くべき同化力は、ほとんど何人
もこれに対してエキゾティックな興味を
感じえないまでに、その屋根と壁とをこ
とごとく日本化し去ったのである。
・・・・・・・・・」

22歳の芥川はこの年、「羅生門」を
発表し、又夏目漱石の門下に入ります。

芥川は師であり自分を見出してくれた
漱石を終生尊敬し続けました。

最晩年の芥川は、谷崎潤一郎との
文学論争の中で、「話らしい話のない」
純粋な小説の名手として、志賀直哉を
称揚したそうです。




 


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