matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

コスモポリタンな港町、アントワープその1

2015-11-30 11:19:42 | 世界の都市





 アントワープ

 ブリュッセルから北へ45Km、列車だと
30分。オランダはそこからわずか30Km
の距離です。人口、約50万のベルギー第
2の都市です。

北海にそそぐスヘルデ川の河口にある世界
有数の港町です。

15世紀後半までは運河の町、ブルージュ
がトップでしたが、そのブルージュを抜い
て発展してきました。

また、世界のダイヤモンドの研磨・取引の
中心地となっています。



ステーン城は10世紀から16世紀まで使
われていた要塞の一部です。



大広場、グロート・マルクトは市の中心広場
です。

市庁舎は1561年から1565年に当時、
この地方では前例のないイタリア&フランド
ル・ルネッサンス様式で建てられました。



市庁舎前の広場中央には、ブラボーの像がつ
いた噴水があります。

ブラボーとは古代ローマの兵士の名で、スヘ
ルデ川で猛威をふるっていた巨人、アンチゴ
ンの手を切り取って投げたという伝説により
ます。



昼食はノートルダム大聖堂に面した、フルン
広場にある「HOF VAN EDEN]で
とりました。





黒ビールを飲みながら、シコンのグラタンを
食べました。


アントワープの黄金時代は16世紀で、アル
プス以北における最大規模の都市となりまし
た。



アントワープ経済は、イタリア・イギリス・
スペイン・ポルトガルなど各地からやって来
た商人たちの手で支えられ、このことが都市
内の多様性・コスモポリタン的性格を形成し
ていきました。

しかし、1568年にオランダがスペインか
ら独立すると、アントワープの有力商人たち
は、スペインとカトリックの鎖をきらい、信
教の自由を求めて新興のアムステルダムに移
っていきます。


(続く)

カリヨンの音色響く古都、メッヘレン

2015-11-23 11:56:03 | 世界の都市


 メッヘレン

 メッヘレンはアントワープとブリュッセルの
中間に位置する人口約8万人の町です。

16世紀初頭にはネーデルランド(現在のベルギー
とオランダ)の首都として、25年間ヨーロッパ
の政治・文化・芸術の中心地として栄えました。





 二つの宮殿が道を挟んで向かいあっています。

「オーストリアのマルガレータの宮殿」と
ゴシック様式の中庭です。

16世紀初頭に建てられたルネサンス様式
の建物です。




こちらは「マーガレット・オブ・ヨークの邸宅」
です。



マーガレット・オブ・ヨーク(1446-1503)は
ブルゴーニュ公国最後の君主にイギリスから嫁いできま
した。

1500年から1515年までは、神聖ローマ帝国皇帝
カール5世がこの邸宅で暮らしました。



メッヘレンの中心にある、マルクト広場(グロート・
マルクト)と聖ロンバウツ大聖堂です。



広場には「オーストリアのマルガレータ像」が立って
います。

「オーストリアの・・」と枕言葉がついているのは
彼女がハプスブルク家の出身だからです。

父親は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世。母親は
「美女の中の美女」と称えられた「ブルゴーニュ
のマリー」です。
(マリーの義母がマーガレット・オブ・ヨークです。)

ネーデルランド総督となったマルガレータは兄の遺児
カールの養育を、父マクシミリアンから託されます。

皇帝家としてハプスブルク家は絶対のものになって
いきます。



15世紀から16世紀に移っていく激動の時代に
「マルグリット」なる同名の二人の女性が、メッ
ヘレンを舞台に活躍しました。



「オブ・シニョールケ(紳士の上)」という愛嬌
ある名の像のレプリカです。
アントワープの人を揶揄する表現として使われる
そうです。



聖ロンバウツ大聖堂は、13世紀から約300年
の歳月をかけて建設されたゴシック様式の教会で
す。



付属する鐘楼は高さ97m。49個の鐘からなる
大規模なカリヨンが2組あります。



内部にはヴァン・ダイクの「十字架のキリスト」
の祭壇画があります。

メッヘレンは、今もこじんまりした、絵のように
美しい町でした。


倉敷の秋

2015-11-17 09:55:48 | 旅行





2013年5月にスペインを旅した際、
トレドのサント・トメ教会で、エル・グ
レコの傑作「オルガス伯爵の埋葬」を見
ました。

エル・グレコ(1541-1614年)は、
ギリシャ生まれですが、生涯の大半をトレ
ドで過ごしました。

その年の秋、倉敷の大原美術館にエル・グ
レコの「受胎告知」が展示されていること
を知り、倉敷を初めて訪ねました。


 倉敷



 大原美術館は1930年(昭和5年)に
大原孫三郎が創設しました。

画家の児島虎次郎は、孫三郎の経済的支援
を受けて1920年代初頭に西洋諸国を巡
って、エル・グレコ、モネ、ゴーギャン、
マティスなど優れた作品を収集しました。



ヘンリー・ムーアの「横たわる母と子」です。






美術館を出ると、すぐ横に「エル・グレコ」
という喫茶店がありました。







中世の夢映す古都、ゲント

2015-11-11 10:54:04 | 世界の都市


 再びベルギーの旅に戻ります。ブルージュ
からゲントに向かいました。


 ゲント

 中世以来、ゲントはブルージュのライバル
として歴史に登場しました。

現在は、東フランドル地方の中心都市として
近代産業都市に生まれ変わりました。





鐘楼と繊維ホールです。
13~14世紀に建造されたゲントのランド
マーク的存在です。

繊維ホールは市の有力者たちが事務所を構え、
毛織物の商人たちの会議場でもありました。





聖ニコラス教会です。
13~15世紀に建設されました。
スヘルデ・ゴシック様式の最高峰とされます。

石畳の残る道は複雑に入り組み、曲がりくねっ
た狭い街路をトラムが走り抜けていきます。





聖バーフ大聖堂です。

17世紀フランドル絵画の最高傑作とされる
ファン・アイク兄弟作「神秘の仔羊」は、修
復工事中でした。



19世紀末に建てられた劇場です。
劇はすべてオランダ語で演じられるそうです。


 古都ゲントは、16世紀にはパリにつぐ大
都市だったそうです。

レイエ川やスヘルデ川をへて、北海へとつな
がる内陸港をもち、交易や繊維業で繁栄を誇
りました。

マルコ・ポーロによると、13世紀の中国の
高官はすでにここで織られた衣服を身にまと
っていたそうです。



市内のあちこちにはギルドハウスが今も残り
ます。



通りを自転車に乗った若者達が走り抜けてい
きます。

この町は3万4千人の学生を擁する大学町で
もあります。




ゲントはカール5世(1500-1558)の
生れた町でもあります。

16歳でスペイン王カルロス1世となり、19
歳で神聖ローマ帝国の皇帝となりました。

「余は商人には英語で、女どもにはイタリア語
で、男どもにはフランス語で、神にはスペイン
語で、そして余の馬にはドイツ語で話す。」

彼が言ったとされる台詞ですが、この当時ドイ
ツ語はまだ、泥臭い田舎言語にすぎなかったの
でしょうか。



立山連峰、秋から冬へ

2015-11-05 15:17:32 | 旅行




 立山

 10月下旬、立山室堂平まで行きました。

 立山の紅葉は、9月中旬から始まり、徐々
に山を下り、この頃にはすでに美女平付近ま
で降下していました。






室堂には、秋の気配はもうありません。
冬の準備が始まっていました。





青く澄んだミクリガ池に、冠雪の山肌がくっき
りと映し出されていました。







ケーブルカーで美女平駅から立山駅へ下る途中
で、やっと紅葉をカメラにおさめることが出来
ました。