matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

四国の名城ー丸亀城

2018-12-27 08:33:42 | 日本100名城




 現存12天守巡りの11城目は丸亀城
です。残すは宇和島城のみとなりました。

(撮影は11月中旬です。)

 丸亀

 丸亀城はJR丸亀駅から徒歩圏内の丸
亀中心街にあります。

標高66mの亀山に築かれた平山城で別
名亀山城。「石の城」と形容されるとお
り、石垣の名城として有名です。


  (大手一の門・二の門)

生駒親正は1587年(天正15年)播
州赤穂から17万石の領主として讃岐に
入り、高松城を築き、次いで西讃の鎮め
として、1602年(慶長7年)丸亀城
を築城しました。

その後一国一城令で丸亀城は廃城となり
ますが、1641年(寛永18年)山崎
家治が西讃岐5万石の領主となると丸亀
城を再築します。


  (一の門)

一の門は楼上に太鼓を置き、城下に刻を
知らせたことから、太鼓門とも呼ばれて
います。


  (三ノ丸北側の石垣)

三の丸北側の石垣は、丸亀城の石垣のな
かで最も高く、20m以上の城壁が続き
ます。隅角部の石垣は美しい曲線美から、
「扇の勾配」と呼ばれています。


  (天守)

1658年には京極高和が丸亀藩主とな
り、天守を完成させます。

3層3階の現存木造天守です。高さ約
15m、日本一小さな現存木造天守で
す。


  (天守内部)

天守からの視界には、丸亀の町並みが広
がり、遠くに海や山が見え、見晴らしを
堪能できます。


  (讃岐富士)

見返り坂を登った三ノ丸からは、飯野山
(讃岐富士422m)を正面に望めます。


石垣にかかわる悲しい伝説があります。

羽坂重三郎は、常に仕事をするときは裸
になって一生懸命働くことから「裸重三」
と呼ばれ、丸亀城の石垣を完成させた功
労者です。
殿様は「さすがは重三の築いた石垣だけ
あって完璧だ。これでは空飛ぶ鳥以外に
この城壁を乗り越えるものはあるまい。」
とご満悦でした。

ところが、重三郎は「私に尺余りの鉄棒
を下されば、容易に登ることができます。
」と言って、鉄棒を使いすいすいと城壁
を登ってしまいました。

殿様は、重三郎を生かしておけば来敵に
通じた場合、恐ろしいことになると考え、
城内の井戸の底を重三郎に探らせて、そ
の隙に石を投じて殺してしまいました。
その伝説の井戸が二の丸井戸です。

(「丸亀城ものがたり」永田照雄より)



皆さま、今年1年どうもありがとうござ
いました。どうぞ良いお年をお迎えくだ
さい。




四国の名城ー高松城

2018-12-20 10:58:13 | 日本100名城




 高松・丸亀の旅の続きです。

 高松その2

 「栗林公園」を出て、琴電に乗り終点
「高松築港駅」まで。

高松城跡(玉藻公園)が間近にあります。

閉門30分前ですが、あわてて駆け込み
ました。



「菊花展」の最終日でした。



高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれて
いますが、その由来は万葉集で柿本人麻
呂が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と
詠んだことに因み、このあたりの海が玉
藻の浦と呼ばれていたからだそうです。

1588年(天正16年)生駒親正が、
現在地を高松と改め築城に着手した平城
(水城)です。

瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引
き込んだこの城は、日本の三大水城のひ
とつといわれています。


  (月見櫓)

1640年(寛永17年)、生駒騒動と
いわれるお家騒動により、生駒氏は出羽
国矢島1万石に移されました。

この後常陸国下館藩主だった松平頼重が
東讃岐12万石の領主として入城しまし
た。

頼重は中国・四国の監察役を命じられて
いたといわれ、以後松平氏の治世は11
代228年間にわたり、高松は松平氏の
城下町として栄えました。


  (天守台)

天守台には、かつて3重5階(3重4階
+地下1階)の天守が建っていました。
老朽化により明治17年に取り壊されま
した。



高松藩士・小神野与兵衛「盛衰記」の逸
話です。3代将軍家光が頼重に12万石
をあたえたころ(家光39才、頼重21
才)、いっしょに江戸城の風呂に入って
いました。

「頼重よ、水戸殿がうらやましくないか」
頼重の弟光圀は水戸藩28万石の世子と
なった。

「いいえ、ちっとも。私は上様のお風呂
の相手まで許されていますので」
「いずれは同格の大名にしてやろう」
「ほんとうですか。ゆびきりかまきり、
ゆびきりかまきり」

おそらくは頼重自身の回想を、誰かが聞
いて記憶していたのでしょう。

(日経新聞12月1日付け書評欄「大名
家の秘密」から一部引用させてもらいま
した。)

 撮影は11月中旬です。







晩秋の古都ー寿福寺・海蔵寺・源氏山公園

2018-12-13 11:03:19 | 鎌倉散歩




 鎌倉

 12月上旬、鎌倉を訪ねました。
前日の雨で葉はだいぶ落ちたようです。

1.寿福寺

鎌倉駅西口から、今小路を北鎌倉方向へ
10分程歩くと寿福寺があります。

源頼朝が没した翌年(1200年)、妻
の北条政子が明庵栄西を開山に招いて建
立した鎌倉五山第三位の寺です。



栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧
で、「喫茶養生記」を著すなど、お茶を
飲む習慣を日本に伝えたことでも知られ
ています。

墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政
子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。



山門から中門にいたる参道の石畳は鎌倉
一美しい意匠をしているといわれます。

2.海蔵寺

寿福寺を出て、英勝寺の横を通って15
分程歩くと海蔵寺があります。



かつて七堂伽藍を持つ規模の大きい寺が
あったと伝えられますが、鎌倉幕府滅亡
時に焼失します。

その後1394年、鎌倉公方足利氏満の
命で、上杉氏定が心昭空外(建長寺の大
覚禅師に参禅・修学)を招いて再建した
のが海蔵寺です。



いつも手入れの行き届いた庭にはカイド
ウやハギなど、四季を通じて花が咲き継
いでいくため、鎌倉有数の花の寺として
人気があります。



3.源氏山公園

海蔵寺から急峻な化粧坂切通しを登ると、
源氏山公園です。



源氏山公園は、源義家が後三年の役の際、
戦勝祈願したとされる源氏にゆかりのあ
る山公園です。

1965年に源頼朝の鎌倉入り800年
を記念して公園として整備され、頼朝像
が建てられました。



紅葉シーズンの終わりを惜しむかのよう
な源氏山です。







六義園の紅葉

2018-12-06 10:58:38 | 東京散歩




 駒込

 11月末、六義園を訪ねました。
快晴の気持ちよい日で、日光に照らさ
れた紅葉が鮮やかです。



5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が、
加賀藩旧下屋敷跡地を、7年の歳月を
かけて築園した大名庭園です。

「六義園」の名称は、紀貫之が「古今
和歌集」の序文に書いた「六義」(むく
さ)という和歌の分類の六体に由来する
そうです。



吉保は紀州の和歌浦を中心とした美しい
歌枕の風景を写して造園しました。

1702年(元禄15年)に完成すると、
綱吉のお成りが頻繁にあったそうです。

池をめぐる園路を歩きながら、移り変わ
る景色を楽しめる繊細で温和な日本庭園
です。



柳沢氏は武田氏の滅亡後、徳川家康の家
臣団に組み込まれた竹田遺臣から近世大
名化した一族です。

1680年、舘林藩主の綱吉が兄である
4代将軍家綱の後継として江戸城に入る
と、綱吉の家臣である吉保も幕臣となり
ました。



吉保は綱吉の文治政治に恭順するために、
荻生徂徠ら儒者を召し抱え、儒学の発展
に少なからぬ役割を果たしました。


明治初年には岩崎弥太郎が六義園を購入
します。



関東大震災、東京大空襲の被害もほとん
ど受けずに、造園時の面影を今日まで伝
えています。