matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

日暮里~上野春散歩その1

2016-03-29 17:20:12 | 東京散歩




 日暮里

 「青雲寺」

 西日暮里駅のほど近くに、青雲寺
があります。



臨済宗妙心寺派の寺。江戸時代の中頃
より「日ぐらしの里」と呼ばれ、
庶民に親しまれてきたこの地は、
四季折々の花を楽しむ人々で
賑わったそうです。

青雲寺は「花見寺」とも
いわれていました。



滝沢馬琴の筆塚の碑があります。


 「羽二重団子」

 江戸時代文化・文政の頃、音無川
のせせらぎと小粋な根岸の三味の音
も聞こえる屋外の小天地
だったそうです。



芋坂は谷中から根岸へむかう長い坂で、
付近で芋を作っていたので、芋坂
という名前がついたそうです。

現在はJR線の線路の手前で、坂は
切れてしまい、跨線橋を渡って
向こう側にいくとまた昔の芋坂
につながります。

その先の右手角に「羽二重団子」
があります。



文政2年(1819年)に初代
庄五郎が「藤の木茶屋」を開いた
のが「羽二重団子」のルーツです。

夏目漱石の「吾輩は猫である」には
「行きましょう。上野にしますか。
芋坂へ行って団子を食いましょうか」
とあります。



「芋坂も団子も

  月のゆかりかな」子規

<正岡子規:道灌山より>

「ここに石橋ありて、芋坂団子
の店あり。
 (中略)
根岸にことの鳴らぬ日はありとも、
この店に人の待たぬ時はあらじ、
戯れに歌をつくる。」

「根岸名物芋坂団子
売り切れ申し候の笹の雪」


羽二重団子本店:東日暮里5-54-3

  (続く)


  



 

菜の花畑(栢山~富水)

2016-03-24 10:33:51 | 日記




 小田原

 小田急線の栢山駅~富水駅間の車窓
に、見事な菜の花畑が広がっています。

富水駅で降りて、15分程歩くと、
「油菜栽培地跡」の標識がありました。



 二宮尊徳(金治郎)は、1787年
現在の小田原市栢山(かやま)に
生れました。

金治郎は寝る間も惜しんで読書をし、
油代がもったいないと、叔父に指摘
されると、菜種をまいて収穫した種
を菜種油と交換し、勉学を続けた
という逸話があるそうです。



現在の菜の花の種は、小田急電鉄が
提供したものだそうです。

速度を落として、ゆっくり通過する
電車もあります。



すっきりとは晴れていませんが、
畑の向こうに、白い富士山が
見えました。



くっきりした富士山を眺めるのは
ひさしぶりです。



 

松江の旅その3-濠端の住まい

2016-03-18 11:29:46 | 旅行




 松江

(撮影は2016年3月1日です。)

 一晩降り続いた雪で、翌朝は雪景色
となりました。

県庁付近まで歩いて、雪の松江城を
撮りました。



小泉八雲旧居のほど近く新橋を渡り、
堀沿いの遊歩道を歩いていくと、
文学碑があります。





碑のあるところから、さらに歩くと
亀田橋です。

そのたもとに「どう」と大書された
倉庫があります。

その裏あたりに「濠端の住まい」が
あったそうです。





1914(大正3)年夏、志賀直哉
(1883-1971年)は、「白樺」
の仲間の里見とんとともに松江に
やってきて、この住まいに100日余り
滞在します。

文学碑の雪を手でかきわけると、
志賀直哉が現れました。



「ひと夏、山陰松江に暮した事がある。
町はづれの濠に臨んだささやかな家で、
独り住まいには申し分なかった。
庭から石段で直ぐ濠になって居る。対岸
は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、
水の上に低く枝を延ばして居る。・・」

短編「濠端の住まい」の冒頭です。

志賀直哉が松江にきたのは、小泉八雲の
著作の縁だそうです。

この年の12月、結婚しますが、父に
反対され、翌年には父の家から除籍
されます。

(つい先頃、この当時書かれた未投函
の叔父宛ての手紙が公開され、当時の
心境がつづられているとの報道が
ありました。

父との確執と和解という、志賀が
こだわった主題が表れているとの記事
でした。)

3月5日付、日本経済新聞より



1915(大正4)年夏、芥川龍之介
(1892-1927年)は一高時代
の親友井川恭の招きで、松江
を訪れます。

半月余り滞在し、周辺の海や山に
遊びます。

松江滞在中の住まいは、たまたま前年に
志賀が暮らした「濠端の住まい」
でした。

芥川は「松江印象記」を残しています。

「松江へ来て、まず自分の心をひいた
ものは、この市を縦横に貫いている
川の水とその川の上に架けられた
多くの木造の橋とであった。
(略)
  
 橋梁に次いで、自分の心をとらえた
ものは千鳥城の天守閣であった。天守閣
はその名の示すがごとく、天主教の渡来
とともに、はるばる南蛮から輸入された
西洋築城術の産物であるが、自分たちの
祖先の驚くべき同化力は、ほとんど何人
もこれに対してエキゾティックな興味を
感じえないまでに、その屋根と壁とをこ
とごとく日本化し去ったのである。
・・・・・・・・・」

22歳の芥川はこの年、「羅生門」を
発表し、又夏目漱石の門下に入ります。

芥川は師であり自分を見出してくれた
漱石を終生尊敬し続けました。

最晩年の芥川は、谷崎潤一郎との
文学論争の中で、「話らしい話のない」
純粋な小説の名手として、志賀直哉を
称揚したそうです。




 

松江の旅その2-小泉八雲旧居と武家屋敷

2016-03-14 11:05:49 | 旅行




 松江

 小泉八雲(1850-1904年)が
暮らした家は、武家屋敷の並ぶ塩見縄手
とよばれる通りにあります。



ラフカディオ・ハーンはアイルランド人
の父とギリシャ人の母との間に
生まれますが、幼くして両親が離婚、
大叔母に育てられながら、
フランス・イギリスで教育を受け、
アメリカに渡りジャーナリスト
になります。



1890(明治23)年に来日し、
松江で英語教師に任じられます。

翌年、松江士族の娘小泉セツと
結婚します。



八雲は三方に庭がみえる西側の
3部屋をおもに使っていました。



書斎に机をおき、夜はランプをともして
「知られざる日本の面影」を
書きました。



庭は八雲の「日本の庭」にでてくるのと
ほとんど変わっていないそうです。



妻セツは日本語が読めない夫の
リクエストに応じて日本の民話・伝説
を語り聞かせるため、普段から
それらの資料収集に努めました。



八雲旧居に並ぶ、公開されている
武家屋敷です。

600石程度の中級藩士の屋敷跡です。





かつての武士の質素でつつましやかな
生活がしのばれます。





八雲はその後も、熊本・神戸・東京
と居を移しながら、日本の英語教育
に尽力し、欧米に日本文化を紹介
する著書を多数遺しました。

八雲は1904年、新宿区大久保
で54年の生涯を閉じます。

1906年に、エリザベス・ビスランド
という女性が
「ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡」
という伝記を発表します。

彼女はネリー・ブライと世界一周旅行
の世界記録を無理やり競わされた
ジャーナリストです。

ハーンは、同僚の彼女から旅行の
帰国報告を受けた際に、

いかに日本は清潔で美しく
人々も文明社会に汚染されていない
夢のような国であったかを聞き、
強く心をゆさぶられ、日本に行く
ことを決意したそうです。

 (続く)

松江の旅その1-国宝松江城

2016-03-09 10:29:31 | 旅行




 松江

 2月末、松江へ旅しました。

天候は不安定で、どんよりした曇り空で
ときおり粉雪が舞い降りてきます。
又、雲のすき間から青空がのぞくことも
あります。



 松江城は、松江開府の祖、堀尾吉春が
1607(慶長12)年から1611年
まで、5年の歳月をかけて築城しました。

千鳥が羽を広げたように見える
入母屋破風(いろもやはふ)の屋根が
見事なことから、別名「千鳥城」とも
呼ばれています。



昭和10年に国宝に指定され、
昭和25年文化財保護法の制定
により、重要文化財に改称されました
が、昨年国宝に再指定されました。



堀尾家、京極家の跡をつぎ、松平家
が1638(寛永15)年から
1871(明治4)年まで松江藩を
統治します。

初代直政は、徳川家康の第2子
結城秀康の第3子です。

初陣は14歳で、大阪冬の陣に
参戦し、敵将真田幸村は、その武勇
を讃えて自らの軍扇を投げ与えた
といわれています。



5層6階、高さ30mの天守閣
の最上階に着くと、四方が開け、
松江市の全貌が見渡せます。



夕方、宍道湖に行きました。

宍道湖は日本で7番目に大きい湖
です。

宍道湖で獲れる宍道湖七珍は、
島根の代表的な郷土の味覚です。
シラウオ・ワカサギ・スズキ・
コイ・モロゲエビ・シジミ・ウナギ
です。



宍道湖の夕景は「夕日百選」に選ばれる
ほど美しいと聞き、カメラを構えました
が、あいにくの天気で、絶景をとらえる
ことは出来ませんでした。

   (続く)