matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

明治の洋館とジョサイア・コンドル

2015-07-31 10:15:37 | 日記


 ジョサイア・コンドル(1852-1920)は
イギリス・ロンドン出身の建築家です。

1877年(明治10年)来日し、工部大学校(現
東大工学部建築学科)の教授として、創成期の日本
人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を
築きました。

業績は数えきれないほどありますが、とりわけ有名
なのが「鹿鳴館」です。

 鹿鳴館は外部卿井上馨の計画のもと、コンドル設計
により1883年(明治16年)完成しました。
1887年(明治20年)までの3年間は「鹿鳴館時
代」といわれ、当時の日本外交の課題であった、不平
等条約改正、治外法権の撤廃を目指す、井上らの欧化
政策の推進を象徴する舞台となりました。

井上の外務大臣辞任とともに、歴史の幕を下ろしまし
た。1940年に取り壊されました。

コンドル設計の歴史的建築物は、震災・戦災等で多く
が失われてますが、残存するいくつかを見てみます。

①三菱一号館(レプリカ)





三菱一号館は、1894年(明治27年)丸の内に建
設された日本初のオフィスビルです。1968年に解
体されましたが、2009年復元されました。翌年、
「三菱一号館美術館」として生まれ変わりました。

19世紀後半の英国で流行したクイーンアン様式が用
いられています。

現在、「画鬼暁斎 幕末明治のスター絵師と弟子コン
ドル」という展覧会が、この美術館で開かれています。

コンドルは日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日
本画を学ぶなど日本文化にも大いに親しんだ趣味人で
もありました。

②岩崎久弥茅町本邸





1896年(明治29年)完成。
イギリス17世紀初頭のジャコビアン様式を基調にした
傑作といわれています。

③古河虎之助邸

(「旧古河庭園のバラ」の画像を再度掲載します。)





1917年(大正6年)完成。
コンドル最晩年の建築、美しいバラ園で有名。

コンドルは竣工後、3年足らずで急逝します。




萩 がんこ庵

2015-07-25 10:27:30 | グルメ




 萩の旅行記、最終回は「グルメ」編です。

「がんこ庵」は、中央公園の近くにあるそば処。



有名店だけあって、店内には芸能人・文化人の
色紙や写真がいっぱいです。





ロケの合間に、伊勢谷友介や井上真央も訪れた
そうです。

そば屋さんの口コミによれば、店主は上野の老舗
「蓮玉庵」で修業の後、出雲そばの「荒木屋」の
娘さんと結婚して、出雲そばの店をだしたそうです。





わんこ蕎麦と鳥南蛮をいただきました。
歯ごたえがよく風味豊かな味わいです。

庭をみると赤い花が咲いていたので、おかみさんに
聞くと、ザクロの花でした。アップでないのでわか
りにくいですね。
こんなに花が咲いたのは初めてと言っていました。



おかみさんは「萩と出雲は近いようで遠い。高速道
路の計画はあるのにいつまでたっても完成しない。」
とぼやいていました。

帰りがけに1枚の名刺をもらいました。
「亀庵 越峠(こえど)」は神奈川・伊勢原にある
そば屋です。同じ師匠で修業した兄弟分だそうです。





萩城城下町へ、青春を尋ねてその3

2015-07-20 11:08:17 | 旅行







⑧久坂玄瑞銅像

 今年1月に建立されました。
久坂玄瑞(1840-1864)は、
藩医久坂良廸の三男。14歳で母を、
15歳で兄と父を失い家督を相続します。
17歳の時に松下村塾に入りました。
1857年、松陰は妹・文を久坂に嫁が
せました。

身長は六尺(約180cm)ほどの長身
で恰幅がよく、声が大きく美声であった
といわれています。

松陰亡き後、長州藩を尊王攘夷へ動かす
中心的存在となりますが、1864年、
禁門の変で敗れ、自決します。

西郷隆盛は、明治維新後、木戸孝允に対
して「お国の久坂先生が今も生きて居ら
れたら、お互いに参議だなどと云って威
張っては居られませんがなァー」と語っ
たそうです。





⑨高杉晋作誕生地

 高杉晋作(1839-1867)は、
家禄200石の大組士・高杉小忠太の長
男。
高杉と久坂は松下村塾の双璧といわれま
した。
1862年には藩命で長崎から上海へ渡
航、清が欧米の植民地となりつつある実
情や、太平天国の乱を見聞。上海で購入
したリボルバーは、坂本龍馬に贈られま
した。

奇兵隊を組織し、四境戦争(1866年)
では、幕府軍を各所に撃破。大政奉還を
見ずして肺結核のため27歳で病没しま
した。

辞世の歌といわれるのが
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
ですが、
下の句
「すみなすものは心なりけり(心の持ち方
次第でおもしろくもつまらなくもなるもの
だ)」は、野村望東尼がつけました。

「冬ふかき雪のうちなる梅の花 埋もれな
がらも香やは隠るる」
望東尼が詠んだ句です。
(雪の中にうもれていて姿は見えなくても、
梅の香り高さは決して消えない)

高杉の不世出の才能を詠んだといわれてい
ます。



⑩萩城跡

 毛利輝元が関ヶ原の戦いに敗れた後、減
封されて指月山麓に築いた城跡。
以後13代260年にわたり居城。明治7
年(1874年)に解体され、現在は石垣
を残すのみです。
解体前は5層の白亜の天守閣がありました。


 萩の町は三方を山に囲まれ、一方が日本海
に面する風光明媚な土地です。
城下町のたたずまいは、当時のままに残され
ています。熱血の志士たちが往来した通りを
歩いていても、当時の面影がまるで幻としか
思えないような静けさにつつまれています。

萩城城下町へ、青春を尋ねてその2

2015-07-14 11:18:39 | 旅行


 萩

 



④明倫館

 明倫館は1718年、長州藩主毛利吉元が
創建した長州藩(萩藩)の藩校です。
毛利家家臣の子弟教育のために造られました。
水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並び、
日本三大学府の一つと称されました。
 
吉田松陰は、1838年叔父から藩の兵学師範
を受け継ぎ、11歳の時には、藩主に戦法を講
義すると「松本村に天才あり」と萩城下に知れ
渡りました。
19歳の時、独立師範(兵学教授)となると、
藩主に意見書を度々提出しました。



⑤木戸孝允旧宅

 木戸孝允(1833-1877)は、藩医和
田昌景の長男。明倫館に通い松陰の兵学門下と
なります。20歳の秋江戸へ旅立つまでここで
過ごします。
1862年藩の要職につき京都へ出て国事に奔
走、1866年薩摩藩と「薩長同盟」を結びま
す。



⑥吉田松陰幽囚の旧宅

 杉家は、松陰24歳の時に清水口から、現在
の松陰神社の地に転居します。
松陰は海外密航に失敗した際ここで幽閉生活を
送り、松下村塾を主宰します。
文と久坂玄瑞が新婚生活を送った家でもありま
す。



⑦野山獄

 1854年、松陰と金子重之輔は密航を企て
るも失敗し、松陰は士分を入れる上牢に、金子
は庶民を入れる下牢である岩倉獄に幽閉されま
す。金子は翌年岩倉獄で病没します。

1858年、幕府が日米修好通商条約を締結す
ると、松陰は無勅許の不平等条約と激怒し、老
中暗殺を計画しますが、計画は頓挫し、再び野
山獄に幽閉されます。

1859年10月27日、安政の大獄に連座し
江戸で斬首刑に処せられます。(満29歳没)

収監される直前の書状で、「・・・草莽崛起(
そうもうくっき)の人を望む外頼なし・・・」
と記しました。
「草莽」とは草木の間に潜む隠者を指し、転じ
て一般大衆を指します。「崛起」は一斉に立ち
上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ
」の意です。

(続く)



  

萩城城下町へ、青春を尋ねてその1

2015-07-11 09:42:23 | 旅行


 萩

 大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台、萩を
訪ねました。今回の旅は友人のS氏の
企画です。S氏は「花燃ゆ」を毎週見
ています。
梅雨の季節ですが、幸い雨には降られ
ませんでした。



①吉田松陰誕生地

 1830年(天保元年)萩藩士杉百
合之助の次男として誕生しました。
田畑に仕事へ行く父に連れられ、そこ
で手習いや読書を教わります。19歳
までこの地に過ごします。



志士たちも眺めた萩の城下町が一望で
きます。墓所もすぐ近くにあり、吉田
松陰、久坂玄瑞、高杉晋作等のお墓が
並んでます。



②玉木文之進旧宅

 玉木文之進(1810-1876)は
吉田松陰の叔父。生まれつき学識に優れ
松陰の教育にも大きな影響を与えます。
付近の児童を集めて教授し、松下村塾と
名付けました(1842年)。
萩の乱(1876年)で多くの門下生が
参加した責任をとり自刃します。



③松下村塾

 松陰神社内にあります。
松下村塾は玉木文之進に次いで久保五郎
左衛門、そして28歳の松陰が継ぎます。
松陰は身分や階級にとらわれず塾生とし
て受け入れ、僅か1年余りの間に、久坂
玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など幕末維新
期に活躍する数多くの人材を育てました。



50㎡ほどの小舎で、8畳の講義室、10
畳半のひかえの間から成ってます。

 
 松陰はアヘン戦争(1840-1842)
で清が西洋列強に大敗を知るや、西洋兵学
を学ぶため、九州に遊学、次いで江戸で佐
久間象山に師事します。

1853年のペリー浦賀来航時に黒船を視察
し、西洋の先進文明に心打たれ、外国留学を
決意します。翌年ペリーが再航すると、金子
重之輔と2人で渡航しようとするも失敗し、
野山獄に幽囚されます。

ペリーは航海記で「厳しい国法を犯し知識を
得るために命をかけた2人の教養ある日本人
の激しい知識欲・・・・興味あるこの国の将
来には、何と夢に満ちた広野が開けているこ
とか・・・・・」と記しているそうです。

松陰の1句です。
「かくすれば かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂」

(続く)