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(万世橋)
秋葉原
秋葉原で下車、神田川を和泉橋で渡る
と柳原通りです。
かつてこのあたりは「柳原土手」といわ
れ、外堀の守りを固めるための土手が、
浅草橋門から秋葉原あたりまで続いてい
たそうです。
柳原通りを西に進むと万世橋です。
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(筋違門)
江戸時代、この場所に橋はなく、約
150m上流に筋違(すじかい)門
に付属する橋がありました。
1872年(明治5年)に筋違見附が
解体されたとき、その石材を再利用し
て東京最初の石橋が架けられ、万世橋
と命名されました。
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筋違門は、上野寛永寺の将軍家墓所への
参詣と、日光東照宮への社参の際に、徳
川将軍が通る御成門として重要視されて
いました。
現在では旧万世橋駅、中央線の高架のレ
ンガ塀の中です。門跡を示す説明版だけ
が立っています。
淡路坂を登ると御茶ノ水駅です。
聖橋を渡ると「湯島聖堂」です。
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(湯島聖堂)
1690年(元禄3年)5代将軍綱吉は、
孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自
ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励
しました。
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(孔子像)
1797年(寛政9年)幕府は学舎の敷
地を拡げ、孔子の生まれた地名をとって
「昌平坂学問所」を開きます。
学問所は、明治維新に至るまでの70年
間、官立の大学として江戸時代の文教セ
ンターの役割を果たします。
高台である「駿河台」は元来、本郷・湯
島台と地続きで「神田山」と呼ばれてい
ました。
家康は神田山を切り崩し、江戸城の南に
広がる日比谷入江を埋め立てました。
日本橋、大手町、日比谷あたりの土地が
造成されました。1620年ごろには完
成したようです。
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(お茶の水碑)
お茶の水橋の交番脇に「お茶の水」と
書かれた碑があります。
秀忠が付近を訪れた際、飲んだ泉の水
がたいへんおいしく「お茶に適してい
る」というので「お茶の水」と名付け
られ、地名になったそうです。
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「駿河台」の由来は、家康の死後、駿府
城にいた旗本たちが江戸に戻り、その多
くが住み着いた場所だったからといわれ
ています。