matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

江戸城外郭巡りその2-秋葉原~御茶ノ水

2019-05-24 10:55:48 | 東京散歩



  (万世橋)

 秋葉原

 秋葉原で下車、神田川を和泉橋で渡る
と柳原通りです。

かつてこのあたりは「柳原土手」といわ
れ、外堀の守りを固めるための土手が、
浅草橋門から秋葉原あたりまで続いてい
たそうです。

柳原通りを西に進むと万世橋です。


  (筋違門)

江戸時代、この場所に橋はなく、約
150m上流に筋違(すじかい)門
に付属する橋がありました。

1872年(明治5年)に筋違見附が
解体されたとき、その石材を再利用し
て東京最初の石橋が架けられ、万世橋
と命名されました。



筋違門は、上野寛永寺の将軍家墓所への
参詣と、日光東照宮への社参の際に、徳
川将軍が通る御成門として重要視されて
いました。

現在では旧万世橋駅、中央線の高架のレ
ンガ塀の中です。門跡を示す説明版だけ
が立っています。


淡路坂を登ると御茶ノ水駅です。

聖橋を渡ると「湯島聖堂」です。


  (湯島聖堂)

1690年(元禄3年)5代将軍綱吉は、
孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自
ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励
しました。


  (孔子像)

1797年(寛政9年)幕府は学舎の敷
地を拡げ、孔子の生まれた地名をとって
「昌平坂学問所」を開きます。

学問所は、明治維新に至るまでの70年
間、官立の大学として江戸時代の文教セ
ンターの役割を果たします。

高台である「駿河台」は元来、本郷・湯
島台と地続きで「神田山」と呼ばれてい
ました。

家康は神田山を切り崩し、江戸城の南に
広がる日比谷入江を埋め立てました。

日本橋、大手町、日比谷あたりの土地が
造成されました。1620年ごろには完
成したようです。


  (お茶の水碑)

お茶の水橋の交番脇に「お茶の水」と
書かれた碑があります。

秀忠が付近を訪れた際、飲んだ泉の水
がたいへんおいしく「お茶に適してい
る」というので「お茶の水」と名付け
られ、地名になったそうです。



「駿河台」の由来は、家康の死後、駿府
城にいた旗本たちが江戸に戻り、その多
くが住み着いた場所だったからといわれ
ています。








江戸城外郭巡りその1-浅草橋・柳橋

2019-05-16 10:36:40 | 東京散歩




 江戸城の総構えと呼ばれる城郭全体は、
現在の千代田区と中央区のほぼ全域にも
わたる巨大なものでした。

外郭とは、城の中心部である内郭の外側
に広がる、外濠で囲まれた区域のことで
す。

 浅草橋

 JR「浅草橋」駅から神田川に向かっ
て歩くと浅草橋があります。



江戸時代、浅草橋門の桝形がありました
が、現在は「浅草見附跡」の碑が残るだ
けです。


  (浅草橋)

浅草橋門は奥州街道が通る道で、江戸城
北東の守りを固める要地でした。

神田川にはじめて橋がかけられたのは
1636年(寛永13年)。

浅草観音への道筋にあたることから浅草
御門橋と呼ばれましたが、いつしか「浅
草橋」になりました。

浅草橋から神田川べりを隅田川に向かう
と柳橋です。


  (柳橋)

柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部
に位置する第一橋梁です。

1698年(元禄11年)に初めて架け
られました。

当初は川口出口之橋と呼ばれますが、い
つしか柳橋と呼ばれるようになりました。

江戸中期から花街としてよく知られ、橋
のほとりには船宿が並び賑わい、料亭・
芸者衆も多く隆盛を誇りました。


  (亀清楼)

亀清楼は安政元年創業の江戸前料理の
老舗。かつての花街「柳橋」の風情を
残す唯一の料亭です。

正岡子規は「寒山落木」の中で、
「春の夜や女見返る柳橋」
と詠みました。

島崎藤村は明治39年から大正2年まで
今の柳橋一丁目に住み、「新片町にて」
を発表、小説「沈黙」の中では大正期の
柳橋界隈を情景豊かに描きました。



神田川が隅田川に流入する地点です。
右手の橋が両国橋。

隅田川は江戸城の外濠として機能。
江戸の舟運にも重要な役割を担います。
東側の城下町との境界線となりました。


  (両国橋からスカイツリーを望む)

神田川は家康が水利工事をし、秀忠が
流路を付け替えた外濠。洪水対策と外
濠の強化を兼ねて隅田川に通じるよう
開削された人工の濠です。


 駒場公園と旧前田家本邸

2019-05-08 11:32:28 | 東京散歩




 駒場

 4月下旬、駒場公園を訪ねました。
小田急線「東北沢」駅から10分程歩き
ました。

旧前田家本邸の屋敷地は昭和42年(1
967年)、駒場公園として開園されま
した。

敷地の全体配置は前田家が居住していた
頃の姿を現在も良く残しています。


  (洋館玄関)

旧加賀藩主前田家16代当主の侯爵前田
利為の居宅として、昭和3年から5年に
かけて建設されました。

その広壮さは、個人邸宅としては東洋随
一と称されました。

滞欧経験が豊富で駐英大使館附武官も務
めた利為は、洋館は迎賓館としても利用
できるよう、和館は外国からの賓客に日
本文化を伝える空間として設計されまし
た。


  (玄関広間)

階段のある広間は洋館の「顔」で、彫刻
の施された豪華な階段が目を引きます。


  (書斎)

前田家は、明暦3年(1657年)から
本郷に上屋敷を営み、明治維新後約10
万坪あった上屋敷の大半は文部省用地
(現東京大学本郷キャンパス)となり、
約1万坪が前田家の屋敷地として残り
ました。

大正13年、関東大震災後の復興計画を
機に、隣接する東京帝国大学が敷地拡張
のために、駒場農学校との土地交換を打
診してきたことから、本邸の駒場移転が
スタートしました。


  (和館玄関)

和館は木造2階建の近代和風建築で、庭
園側から見ると銀閣寺とプロポーション
が似ているそうです。


  (1階大広間)

書院造で、大名家らしくスケールの大き
い構えです。


  (池泉庭園)

池泉庭園は流れを中心とした設えで、
灯篭や景石の一部は本郷邸から移設
したものと伝わります。

昭和17年、前田利為が太平洋戦争で
戦死した後、邸宅は中島飛行機製作所
に渡ります。

戦後はアメリカ極東軍空軍司令官の官
邸として連合国軍に接収されました。

昭和初期の上流華族の生活をうかがい
知ることができる貴重な文化財です。