matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

出雲大社相模分祠の名水とほおずき市

2016-07-25 10:46:42 | 日記




 秦野

 「関東のいづもさん」とも称される、
出雲大社の分社に初めて行きました。

小田急線秦野駅からバスで20分程度
です。



島根県の本社から見て、ほぼ真東に
この相模分祠は位置しているそうです。



創建は1888年(明治21年)。
1975年、火災で失われた本殿を
現在地に再建しました。



手水舎の水は秦野盆地湧水群が
使われています。

1609年(慶長14年)に湧出した
と伝わるこの水は、古くは酒造や茶席
でも使われたとか。



本年度の名水百選選抜総選挙で、
秦野の水がおいしさ部門第一位
を受賞しました。

名水「若返りの水」と呼ばれて
いるそうです。



7月8~10日には「ほおずき市」が
開催されていました。



昔、ほおずきは薬草とされ、煎じて
飲むと子供の夜泣きに効果があると
いわれました。

そのため神社で売られているほおずき
は、千日詣のおみやげとして特に人気
が高かったそうです。



松本の旅その2-縄手通りと信州蕎麦

2016-07-18 10:56:00 | 旅行




 松本その2

 旧開智学校は1873年(明治6年)
に開校した、わが国最古の小学校の
ひとつです。



文明開化の息吹が感じられる擬洋風建築
です。




縄手通りの由来は、松本城のお堀と
女鳥羽川の清流にはさまれた
「縄のように細く長い土手」から
きています。



四柱(よばしら)神社の参道として
発達してきました。

祭事にはずらりと露店が並び、通りに
沿って流れる女鳥羽川の水辺には
「河鹿(かじか)蛙」が美しい鳴き声
をかなでていました。



城下の風景を再現したような各店舗は
玩具・骨董・駄菓子など、見ているだけ
でも楽しい歩行者天国通りです。


松本には信州蕎麦の名店がいろいろ
あります。

お店によってみんな味が違うし、季節
によっても天候によっても、又気分
によっても違うそうです。



中町通りにある「ふじ美蔵」に入り
ました。

料理はセットになっていて、馬刺し・
天ぷら・おやき・野沢菜そして
ざるそばです。



日本酒は辛口の「大信州」で、店主が
蔵元とそばに合う酒を探求した結果
生れた酒だそうです。

きりりとしまった、さわやかな風味の
酒です。

料理はどれも美味しかったです。

松本の旅その1-国宝松本城

2016-07-11 10:57:45 | 旅行




 国宝五天守を巡る旅、姫路城・
松江城・彦根城に続いて4城目は
松本城です。

 松本

 松本城の始まりは、戦国時代の
永正年間(1504-1520年)
に造られた深志城です。

1550年には、武田信玄がこの地
を占領し、信濃支配の拠点としました。

1582年には小笠原氏が本能寺の変
による動乱の虚に乗じて、深志城を回復
し松本城と改めました。



1590年、豊臣秀吉が徳川家康を関東
に移封すると、石川数正が入城し、天守
を始め城郭・城下町の整備を行ないまし
た。

松本市の見解によると、大小天守は
1593-94年、数正の子康長が
建造しました。

異説もあり、大天守は石川氏の後に
藩主となった小笠原氏が1615年
に築いたとする見方もあります。

天守は最も重要な軍事機密であり、
文献が少なく史実の確定も難しい
ようです。

月見櫓(大天守の左側)は月見を
するための櫓で、泰平の世になって
から増築されたため、
開放的な造りになっています。



天守二階にある鉄砲蔵です。



天守閣は外からは五重に見えますが、
内部は六階になっています。



明治時代になってからは、旧物破壊
思想により、松本城天守も売却・破壊
の運命にさらされました。

地元有力者の尽力により買いもどされて
難をのがれました。

現存12天守の中で唯一の平城です。

400年の風雪に耐えて、黒と白の
コントラストが鮮やかです。




北のベニス「水の都」、アムステルダム

2016-07-04 11:23:20 | 世界の都市




 オタンダの旅、最終回は
アムステルダムです。

 アムステルダム

 13世紀頃、アムステル川河口に
ダムを造り、街が築かれました。

港町として少しずつ力をつけ、自由な
都市として活気を呈し、スペインからの
独立戦争の後、17世紀には世界初の
株式会社・東インド会社の本拠地として
世界貿易の中心地となりました。



165もの運河と1300あまりの橋
があり、運河に沿って古いれんが造り
の家が並んでいます。



国立美術館は1885年に開館
しました。

中世・ルネサンスから20世紀まで、
絵画・工芸品が時代毎に展示されて
います。



17世紀オランダ絵画は必見です。

レンブラントの「夜警」、フェルメール
の「牛乳を注ぐ女」「手紙を読む青衣の
女」などを見ることが出来ました。



ゴッホ美術館は1973年に開館
しました。

ゴッホのオランダ時代からアルルや
サン・レミなどフランス時代の作品
まで年代順に展示されています。


フィンセント・ファン・ゴッホ
(1853-1890年)はオランダ
南部の小さな村ズンデルトに生まれ
ました。

牧師の6人兄弟の長男です。

美術商や牧師になる夢を抱きましたが、
いずれも挫折し、弟テオの助言もあり
27歳で芸術家になることを決意
します。



1885年「じゃがいもを食べる人々」
を描きましたが、テオは暗すぎると感じ
ます。

当時パリには印象主義の明るくすがすが
しい色彩の時代が到来していました。

1886年にパリに出て、印象主義や
点描主義の作品から大きな影響を受け
ます。

色彩は劇的に変化し、カフェや社交の
場、公園などを描きました。

鎖国していた日本が1854年に開国
して貿易が可能になると、ヨーロッパ
ではジャポネズリ(日本趣味)が流行
し始めます。

浮世絵はゴッホを含む多くの芸術家の
インスピレーションの源となります。


黄色い家 1888年

ゴッホは、自然の中で素朴な生活を
営む修行僧のような日本の芸術家に
自分の理想像を重ねあわせました。

南仏プロヴァンスを日本になぞらえ
ました。

「空気の明るさと陽気な色彩効果の
おかげで、僕には日本と同じように
美しく思える」

ゴッホの恋愛は不運の連続でした。

いとこ、元娼婦、精神不安定な近所
の女性と結婚相手にふさわしくない
相手ばかりでした。


カフェにて、「ル・タンブラン」の
アゴスティーナ・セガトーリ
1887年

パリでこの派手な女性と交際して
いました。イタリア人でカフェ兼
キャバレーの女主人でした。

「人生は謎で、恋は謎の中の謎だ」

ゴッホが37歳で死去すると、唯一の
理解者テオも半年後あとを追って亡く
なります。

テオの若き妻ヨハンナは、膨大な美術
コレクションと手紙類を献身的な努力
で保存しました。

そして1914年テオを兄の墓の隣に
移し、再び埋葬しました。