matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

北のベニス「水の都」、アムステルダム

2016-07-04 11:23:20 | 世界の都市




 オタンダの旅、最終回は
アムステルダムです。

 アムステルダム

 13世紀頃、アムステル川河口に
ダムを造り、街が築かれました。

港町として少しずつ力をつけ、自由な
都市として活気を呈し、スペインからの
独立戦争の後、17世紀には世界初の
株式会社・東インド会社の本拠地として
世界貿易の中心地となりました。



165もの運河と1300あまりの橋
があり、運河に沿って古いれんが造り
の家が並んでいます。



国立美術館は1885年に開館
しました。

中世・ルネサンスから20世紀まで、
絵画・工芸品が時代毎に展示されて
います。



17世紀オランダ絵画は必見です。

レンブラントの「夜警」、フェルメール
の「牛乳を注ぐ女」「手紙を読む青衣の
女」などを見ることが出来ました。



ゴッホ美術館は1973年に開館
しました。

ゴッホのオランダ時代からアルルや
サン・レミなどフランス時代の作品
まで年代順に展示されています。


フィンセント・ファン・ゴッホ
(1853-1890年)はオランダ
南部の小さな村ズンデルトに生まれ
ました。

牧師の6人兄弟の長男です。

美術商や牧師になる夢を抱きましたが、
いずれも挫折し、弟テオの助言もあり
27歳で芸術家になることを決意
します。



1885年「じゃがいもを食べる人々」
を描きましたが、テオは暗すぎると感じ
ます。

当時パリには印象主義の明るくすがすが
しい色彩の時代が到来していました。

1886年にパリに出て、印象主義や
点描主義の作品から大きな影響を受け
ます。

色彩は劇的に変化し、カフェや社交の
場、公園などを描きました。

鎖国していた日本が1854年に開国
して貿易が可能になると、ヨーロッパ
ではジャポネズリ(日本趣味)が流行
し始めます。

浮世絵はゴッホを含む多くの芸術家の
インスピレーションの源となります。


黄色い家 1888年

ゴッホは、自然の中で素朴な生活を
営む修行僧のような日本の芸術家に
自分の理想像を重ねあわせました。

南仏プロヴァンスを日本になぞらえ
ました。

「空気の明るさと陽気な色彩効果の
おかげで、僕には日本と同じように
美しく思える」

ゴッホの恋愛は不運の連続でした。

いとこ、元娼婦、精神不安定な近所
の女性と結婚相手にふさわしくない
相手ばかりでした。


カフェにて、「ル・タンブラン」の
アゴスティーナ・セガトーリ
1887年

パリでこの派手な女性と交際して
いました。イタリア人でカフェ兼
キャバレーの女主人でした。

「人生は謎で、恋は謎の中の謎だ」

ゴッホが37歳で死去すると、唯一の
理解者テオも半年後あとを追って亡く
なります。

テオの若き妻ヨハンナは、膨大な美術
コレクションと手紙類を献身的な努力
で保存しました。

そして1914年テオを兄の墓の隣に
移し、再び埋葬しました。

フェルメールの故郷、デルフト

2016-06-27 11:00:40 | 世界の都市



 デルフト

 デルフトはハーグから列車で
約20分。

1600~1800年頃までヨーロッパ
で重要な陶器の産地でした。

中国や日本の伊万里からの影響を受けた
デルフト焼は、いまも技術を受け継いで
います。

人口約9万人。大学町でもあります。


ヨハネス・フェルメール(1632-
1675年)はデルフトに生まれ、
生涯のほとんどを過ごしました。

1632年といえば、レンブラントが
出世作「テュルプ博士の解剖学講義」
を描いた年です。



生涯で描いた絵は55点前後、現在
までに見つかっている作品は35点
前後とされています。

1653年にカタリーナと結婚します。
フェルメールはプロテスタントですが、
妻の実家はカトリックでした。

15人の子供が生まれましたが、4人
は夭折しています。

「デルフトの眺望」は1660-
1661年頃に描かれました。

中央にスヒーダム門(時計塔)、少し
奥に新教会が明るく朝日を受けて
輝いています。



マルクト広場にそびえるゴシック様式
の新教会は14世紀中ごろの建造です。

フェルメールは新教会で洗礼を受け
ました。



現在のマルクト広場は観光客で
にぎわい、カフェやデルフト焼
の店が並んでます。



運河オウド・デルフト沿いに眺める
旧教会です。

デルフト最古の教会で、14世紀に
建てられた塔はピサの斜塔のように
傾いています。



内部にはフェルメールの墓があります。

フェルメールは画家兼美術商のかたわら
パブ兼宿屋を経営しました。

1670年代に第3次英蘭戦争が勃発
すると、経済は低迷し、絵画市場も
大打撃を受けます。

画家の数が4分の1にまで減少した
そうです。

大量の負債を残して、1675年43歳
で死去しました。

妻カタリーナの母は裕福でしたが、孫を
負債から守る為、カタリーナは過酷な
生活をしいられ、12年後に亡くなり
ます。

フェルメールの名は長らく忘れられて
いましたが、ようやく19世紀フランス
において再発見され、高い評価と
人気を得るようになりました

「失われた時を求めて」の作家
マルセル・プルースト(1871-
1922年)は、ハーグでこの絵を
見て「この世で最も美しい絵」と
賛美し、小説にもとりあげています。

フェルメールが描いたあたりから
撮影してみました。



フェルメール作品の大半は室内に立つ
女性の姿を描いています。都市景観図
は異例ですが、西洋美術において
エル・グレコの「トレドの風景」同様
に、ひとつの町に対する最大の賛辞
となっています。

フェルメールは日記や手紙を残して
おらず、その私生活は謎につつまれて
います。

不思議なことに母と子を描いた作品が
見当たりません

フェルメールの作品世界は静まり
かえった寡黙な世界です。

日常生活の一コマとして描かれた女性
たちは、深いやすらぎと穏やかさを感じ
させ、まるで手の届かないヴェールに
おおわれた世界の住人のように
見えます。


オランダ黄金時代の名品マウリッツハイス美術館、ハーグ

2016-06-21 11:07:27 | 世界の都市




 オランダの旅の続きです。

キンデルダイクからハーグへ
向かいました。

(撮影は2015年9月下旬)

 
 ハーグ

 ハーグは北海に面するオランダ第3の
都市です。

人口約52万人のこじんまりした町は、
緑が多く、公園のなかの町といった
雰囲気です。

政府機関や大使館が集まり、オランダ
の政治の中心地であり、また
ベアトリックス前女王が住んでいた
宮殿もあり、「ロイヤルシティ」の
異名ももちます。

又、近頃話題になっている国際司法
裁判所もここにあります。



ビエンホフには13世紀から17世紀
にかけて建てられた由緒ある建物が
集まっています。

最も古いのが騎士の館と呼ばれる国会
議事堂。



ビエンホフの一角に、オランダで最も
美しい建物のひとつといわれる
マウリッツハイス美術館があります。



17世紀にヨーハン・マウリッツ伯爵
の私邸として建てられたルネッサンス風
の建物です。

17世紀オランダ・フランドル絵画の
珠玉の名品を観ることができます。



ルーベンスの「聖母被昇天」です。

3階にはレンブラント室とフェルメール
室があります。



フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」
と「デルフトの眺望」です。



フェルメールについては、次回デルフト
を旅しながら述べます。


レンブラント・ファン・レイン
(1606-1669年)は、
フェルメール、カラヴァッジョ、
ルーベンス、ベラスケスなどと共に、
バロック絵画を代表する画家です。

「光の画家」または「光と影の
魔術師」などといわれます。

明暗法によって光と影の劇的な効果を
生み出す技法に熟達し、人物の感情が
高揚するドラマチックな瞬間を描写
することを得意としていました。

スペインから独立する(1609年)
直前のオランダ、ライデンで
生まれます。

日本はこの頃、徳川幕府の創設期です。



1632年の「テュルプ博士の解剖学
講義」は、教授が行う解剖の講義を
受ける名士たちを描いた集団肖像画です
が、高い評価を得て、代表作かつ出世作
となりました。

翌年22歳のサスキアと婚約し、多額の
持参金と富裕層へのコネクションを
得ました。

富と名声を得たレンブラントは、豪邸を
所有し、弟子を教育しつつ、あらゆる
ものを対象に描きました。

資料のために、美術品・工芸品・装飾品
などを収集し、投機にも手を出し失敗
したりします。

サスキアの財産を食いつぶしていると
非難されたりします。

又、3人の子供を短命で亡くす不幸にも
見舞われます。

1642年には「夜警」を完成させます
が、この年サスキアは29歳で亡くなり
ます。

サスキアの遺言は、彼が再婚しないこと
を条件に4万ギルダーの遺産を彼に
使わせるというものです。

彼の浪費癖は治まらず、私生活も泥沼を
迎えます。

仕事もめっきり減り、1652年に
英蘭戦争が勃発し、オランダ経済が
不況になると、無一文になり貧民街
に移ります。

晩年にも人生は好転することなく、
1669年に亡くなります。

レンブラントは絵画の革新者として
高い評価と名声を得ましたが、彼の
生き方はプロテスタント的価値観とは
異質でした。

「光と影の画家」そのままに、
浮き沈みの大きい生涯でした。

世界遺産の風車群、キンデルダイク

2016-05-13 10:27:50 | 世界の都市




 ベルギーからオランダへ入りました。
最初はキンデルダイクです。

(撮影は2015年9月下旬)

 キンデルダイク

 ブリュッセルからキンデルダイク
までは145KM。
バスで2時間半です。

オランダ第2の都市ロッテルダムの
南東に位置する穏やかな田舎町です。



北海から風がつねに吹きつけるオランダ
では、14世紀頃から粉ひきや工業用に
小さな風車が用いられ、改良されて
排水用に使われました。

18世紀になると、風車は干拓事業でも
使用されるようになります。

オランダは国土の約30%が海面より
低く、「世界は神がつくりたもうたが、
オランダはオランダ人がつくった。」
といわれるように、オランダ人は水に
悩まされ、克服してきました。



キンデルダイク郊外には、1740年頃
に造られた19基の風車がレク川、
ノールト川の両側に並んでいます。

1950年頃まで稼働していた
そうです。

19世紀後半には全土で約1万基の
風車が稼働していましたが、現在では
約900基が残るのみです。


司馬遼太郎の「オランダ紀行」には
かん臨丸とキンデルダイクの事が
書かれています。

かん臨丸は1855年に、
キンデルダイクの造船所で誕生し、
99日間かけて日本に回航され、
1857年長崎に到着しました。

勝海舟や福沢諭吉たちが、太平洋
を渡り、アメリカ西海岸に着くのは
1860年(万延元年)の春のこと
です。



オランダでは毎年5月の第2土曜日
を「風車の日」と定め、全国約600
基の風車と水車が一般公開されます。

又、キンデルダイクの19基の風車
が、7月と8月には稼働する様子を
見学することができるそうです。

世界で最も美しい広場グランプラス、ブリュッセル

2016-05-07 11:17:21 | 世界の都市




 世界の都市シリーズ、暫く休みました
が、ベルギーの旅の最終回は
ブリュッセルです。

シント・ピータース・レーウ、
ブルージュ、ゲント、メッヘレン、
アントワープと主にフランドル地方
を中心に巡ってきました。

(撮影は2015年9月下旬です)

 ブリュッセル

 ベルギーは人口1000万余ですが、
首都ブリュッセルに100万人が集中
し、ヨーロッパで一番の過密都市と
いわれています。

EU本部を代表として、近代的な
ビルディングが林立し、外国企業が
ひしめく国際都市です。



グラン・プラスとは「大広場」の意味
ですが、もともとは市場です。

中世の町のつくりは町の中心部に広場
があって、そこで商取引をしました。

約100メートルと69メートル幅の
石畳の広場です。

中世には木造の建物でしたが、17世紀
末ルイ14世によって、市庁舎以外は
破壊されます。

その後、それぞれのギルドによって
石造りのものに再建したそうです。

ここに住んでいた文豪、ヴィクトル・
ユーゴーは「世界でもっとも美しい広場
」と言い、詩人ジャン・コクトーは
「けんらんたる劇場のごとし」と
評しました。



中央が仕立屋の家(油商同業組合)、
その左側が鳩(画家同業組合)、
ユーゴーが弾圧された時期に移り住んだ
場所です。



「ギャルリー・サン・チュベール」

ギャルリーとは、ショッピング
アーケードのことです。
1847年に完成した、ヨーロッパ
で最も古いギャルリーのひとつです。



グラン・プラスから約200メートル
のところに「小便小僧」の像
があります。

1619年の誕生、高さ60センチ
のブロンズ像です。



夕食は「ドラッグオペラ」で
とりました。





ベルギー名物のムール貝の白ワイン
蒸しです。
山盛り出てきました。
この時だけは皆沈黙してひたすら
食べていました。



ライトアップされた市庁舎です。
15世紀に建てられたゴシック・
フランボワイヤン様式の建物です。

夜になっても人混みは絶えることなく、
音と光のショーに酔いしれていました。

幻想的な空間です。


以上の撮影旅の後、パリそして
ブリュッセルでテロが発生しました。

凄惨なテロを乗り越えて、再び世界中
から多くの人々が、この美しい広場
に集えることを願わずにいられません。