matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

団子坂と観潮楼

2017-10-28 11:41:23 | 東京散歩
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  (「舞姫」をモチーフに、「舞」の彫刻)

 千駄木

 東京・千駄木の団子坂は、潮見坂・千
駄木坂・七面坂の別名があります。

「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が
望見できたためと伝えられています。


  (団子坂上)

幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が
並び、明治40年頃が最盛期だったそう
です。

団子坂上には森鴎外(1862-
1922年)が、30才から晩年まで
過ごした「観潮楼」跡があります。


  (森鴎外記念館)

森鴎外記念館が2012年に開館しま
した。現在は特別展「鴎外と慶応3年
生まれの文人たち」を開催中です。

1867年(慶応3年)は、明治を代表
する文人たちがそろって誕生しました。

夏目漱石・正岡子規・幸田露伴・尾崎紅
葉などです。森鴎外は彼らより5才年上
ですが、彼らと共に日本の近代文学史に
足跡を遺しました。


  (鴎外像)

鴎外は石見国津和野出身。森家は代々
津和野藩の典医をつとめていました。

東京大学医学部を卒業すると、軍医とし
て陸軍に入ります。4年間ドイツに留学
し、衛生学や衛生制度の調査研究を行い
、その一方で文学作品を読み、芸術に親
しみました。

1907年(明治40年)には陸軍軍医
総監(中将相当)に昇進します。
当時、脚気は結核と共に二大国民病とい
われ、戦死者も多く、鴎外は臨時脚気病
調査会を創設し、脚気研究の土台をつく
りました。

1911年には鈴木梅太郎がオリザニン
(ビタミンB1)を発見し、脚気治療へ
の画期的な道を開きました。

鴎外は観潮楼で多くの小説・翻訳・評論
を執筆し、文人達のサロンにもなりまし
た。

観潮楼歌会は、与謝野鉄幹「新詩社」系
と正岡子規「根岸派」との歌壇内対立を
見かねて、鴎外が1907年から191
0年まで定例的に開きました。
伊藤左千夫、北原白秋、石川啄木、斉藤
茂吉等延べ22名が集いました。

「学問の自由研究と芸術の自由発展とを
妨げる国は栄えるはずがない。」
鴎外の言葉です。



現在は日本中にある「藪そば」の元祖は
団子坂に江戸時代開業したそうです。
団子坂の蔦屋の連雀町店を明治13年に
譲りうけた堀田七兵衛が、屋号を「藪そ
ば」として営業を始めました。

今でも団子坂界隈には数多くの蕎麦屋が
あります。
団子坂上にある「巴屋」に入りました。
江戸時代から続く老舗の暖簾分けで、こ
の地では昭和5年からだそうです。


  (夏目漱石旧居跡)

観潮楼から藪下通りを5分程歩くと
「夏目漱石旧居跡」があります。

漱石は英国留学から帰国後、1903年
(明治36年)駒込千駄木町(現在の文
京区向丘)に居を構えました。1906
年末まで住みました。

「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊っち
ゃん」等を発表し、人気作家としての地
位を固めていきました。

旧居跡の題字は川端康成が書きました。

 

旧藤沢宿を歩くその2-遊行寺

2017-10-23 11:12:34 | 鎌倉散歩



  (一遍上人像)

 藤沢

 藤沢本町駅から旧東海道を15分程
歩くと遊行寺橋があります。



広重の浮世絵に登場する橋。
昔のままの三間幅を残し、境川を渡ると
遊行寺の門前です。


  (遊行寺橋)

時宗総本山の遊行寺は清浄光寺が正式の
寺名ですが、遊行上人の寺ということか
ら広く一般に遊行寺と呼ばれています。


  (清浄光寺)

時宗の開祖一遍上人(1239-1289
年)は、伊予松山の豪族河野家の出身。

10歳で母を亡くし、13歳で浄土宗に
入門。25歳の時父が亡くなると、家督
を継ぐため還俗。35歳で再び出家しま
す。

熊野本宮での「熊野成道」(宗教的な覚
醒を得たこと)の後、「信不信を選ばず
、浄不浄を嫌わず」会う人ごとに「南無
阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って、
念仏を勧めて、東北地方から九州まで
全国を遊行しました。

その途中、1279年(弘安2年)信州
佐久で「踊り念仏」が初めて踊られまし
た。
(「踊り念仏」は平安時代、空也が京都
の市屋あるいは四条の辻で始めたといわ
れますが、確証はないそうです。)

一遍上人の踊り念仏は盆踊りの原型とい
われます。

1282年(弘安5年)には幕府のある
鎌倉入りを目指しますが、北条時宗警護
の武士たちにはばまれます。

やむなく片瀬(現藤沢市片瀬)の浜の
地蔵堂におちつくと、町の人々がどっと
押し寄せ、「踊り屋」で僧俗の人々が
踊りました。

一遍上人は自分の寺をもたず、遊行し続
け「遊行上人」「捨聖」ともいわれ、
1289年、51才の生涯を閉じまし
た。


  (本堂)

清浄光寺は1325年(正中2年)、
遊行四代呑海上人が開山しました。

本尊は阿弥陀如来坐像。



1631年(寛永8年)、江戸幕府から
時宗274寺の総本山と認められまし
た。


  (放生池)

放生池に金魚、鯉等を放生すれば、その
功徳により家内の繁栄、長寿を保つとさ
れています。

徳川綱吉の生類憐れみの令では、江戸市
中の金魚の保護所となったそうです。


一遍上人は「一代聖教みな尽きて、南無
阿弥陀仏になりはてぬ」と言い、一部の
経典以外は焼き捨て、静かにこの世を去
りました。

ところが教えを受けた人たちは各地に寺
を建て、教団を組織化していきました。
又、時衆は室町文化(能・歌舞伎・連歌
・囲碁・築庭など)に大きな役割を果た
しました。

旧藤沢宿を歩くその1-白旗神社

2017-10-16 11:31:13 | 鎌倉散歩




 藤沢

 東海道の江戸・日本橋から数えて6番
目の宿場であった藤沢宿。

藤沢本町周辺の旧東海道沿いが藤沢宿で
した。

江戸から京まで東海道を旅するのに、江
戸時代には約14日間ほどの日数を要し
たそうです。
日に約40キロを歩く強行軍でした。

大名たちが泊まる本陣や脇本陣をはじめ
、一般の旅人が利用する旅籠が遊行橋
付近に45軒あったそうです。



徳川家康・秀忠・家光の3代が利用した
将軍宿泊施設として藤沢御殿が、
1596年(慶長元年)設置され、
その後参勤交代が制度化されると、
大名宿泊施設としての本陣・脇本陣
が整えられ、御殿は廃止されました。

藤沢宿の主要街道(東海道、鎌倉道、
大山道、江の島道)の分岐点として
通行する人々で賑わい、特に大山詣で、
江の島詣での旅人の宿泊・遊興の場所
として賑わいました。



白旗神社は旧東海道の白旗交差点を左折
してやや歩くとあります。

相模国の一宮の寒川比古命と源義経を祭
る神社です。



源義経は源義朝の9男、頼朝の異母弟
です。

1185年、27歳のとき、壇ノ浦の
戦いで平氏を滅亡させる軍功がありま
した。
しかし、その後頼朝と対立し朝敵とさ
れます。

1189年藤原泰衡に攻められ、岩手
県平泉町にある衣川館で自刃。
享年31.



義経の首は美酒に浸して、43日間かけ
て鎌倉に送られ、腰越の浦で首実検がな
され、伝承では夜の間にこの神社に飛ん
できたそうです。



頼朝は義経や奥州藤原氏の怨念を鎮める
ために、鎌倉に永福寺を建立しましたが
、現在は廃寺になっているとのこと
です。

新潟から青森へその2-弘前城

2017-10-09 11:48:31 | 日本100名城



 (二の丸南門)

 現存12天守巡りは、姫路城・松江城
・彦根城・松本城・松山城(伊予)・
丸岡城に続いて弘前城です。

 弘前
 
 新潟から弘前へ向かいました。
雨はあがり、気持ち良い秋の空が広がっ
ています。

弘前城は弘前藩4万7千石の居城として
廃藩に至るまでの260年間、津軽地方
の政治経済の中心地でした。

創建当初の総面積は38万5千平方メー
トル。

司馬遼太郎は「街道をゆくー北のまほろ
ば」で「日本7名城の一つ」と紹介して
います。


 (下乗橋から)

1590年、南部氏に臣従していた大浦
為信(のち津軽に改姓)は、小田原征伐
の際に秀吉より4万5千石の所領安堵の
朱印状を受けました。
南部氏も小田原に急行しましたが、時す
でに遅く、津軽は為信が獲得しました。

津軽氏は伊達・南部・戸沢・佐竹などの
諸氏と肩を並べる近世大名として発足す
ることになりました。


 (津軽為信公の像)

1600年、為信は関ヶ原の戦いで東軍
につき、2千石の加増を受け4万7千石
の弘前藩が成立しました。

弘前城は為信が計画し、2代藩主信枚が
着手し、1616年に完成しました。


 (現存天守)

当初の天守は1627年落雷で焼失しま
したが、現存天守は1810年天守櫓造
営の目的で幕府の許可を得て建てられた
ものです。

地元では天守と呼ばず、「御三階」櫓と
呼んでおり、本当の天守は消失した五層
天守であったとしているそうです。



現在は100年ぶりの石垣修理のため、
天守は本丸の内側に約70m移動して
います。

本丸は四方に石垣が築かれ、藩政時代
には御殿や能舞台が建てられていまし
た。

ここから望む岩木山(標高1625m)
は絶景です。



弘前は「東北の京都」ともいわれ、太宰
治は自伝的小説「津軽」(1944年)
のなかで、弘前の悪口もいいつつ、「こ
こは津軽人の魂の拠りどころである」と
もいっています。

「あれは春の夕暮だったと記憶している
が、弘前高等学校の文科生だった私は、
ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一
隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふ
と脚下に、夢の町がひっそりと展開して
いるのに気づき、ぞっとしたことがある
。(中略)お城のすぐ下に、私のいまま
で見た事もない古雅な町が、何百年も昔
のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそ
めてひっそりうずくまっていたのだ。・
・・・・・」
 (「津軽」より一部引用させてもらい
  ました)

新潟から青森へその1-新発田城

2017-10-02 08:37:48 | 日本100名城




 9月上旬、新潟(新発田)・青森
(弘前)を旅しました。

 新発田

 新潟駅から白新線に乗り新発田駅で
下車。

駅前で昼食をとりますが、雨は止みそう
にありません。タクシーで新発田城まで
行きました。

表門前で下車すると、堀部安兵衛の像が
雨に濡れて立っています。


 (辰巳櫓)

辰巳櫓の管理責任者であった安兵衛の父
中山弥次衛門は、櫓の失火の責任を負い
浪人となり、安兵衛は18歳で江戸に出
ます。

赤穂藩主浅野内匠頭と新発田藩主の孫、
溝口宣就は親戚同士で、大目付の宣就が
安兵衛と知り合いで、討ち入りにも関与
していた可能性ありとの最新の研究もあ
ります。
 (読売新聞 2017.9.8付)


 (辰巳櫓内部)

新発田城は鎌倉時代より新発田氏の居城
でした。

1581年新発田重家が信長の越中・越
後侵攻に呼応して上杉景勝に対して反乱
を起こしました。

しかし信長没後は孤立し、1587年
新発田氏は滅亡します。

1598年、溝口秀勝が秀吉の命により
加賀国大聖寺から新発田に入封しまし
た。

歴代藩主は河川改修や干拓などの治水と
新田開発に努め、美田の広がる地へと変
貌させました。


 (旧二の丸櫓内部)

1873年(明治6年)廃城令により、
大半の建物が破却されました。

城跡には陸軍の歩兵第16連隊が置かれ
ました。
現在も大部分は陸上自衛隊の新発田駐屯
地となっています。


 (旧二の丸櫓内部)

平成16年に三階櫓と辰巳櫓が復元され
ました。

天守閣の代わりを果たしていた三階櫓は
、3匹の鯱を配するという独特の櫓で
す。(内部は通常は公開されてません)


 (三階櫓)


雨天の撮影に苦労しましたが、夕方新潟
に戻りました。

旅の楽しみの一つは、地元の美味しい肴
と地酒を探して「居酒屋」に入ること。

ホテル近くの「あづま亭」という店に入
りました。

カウンターでほっと一息つきながら飲ん
でいると地元の2人連れの方に声をかけ
られました。

しばしお城談義をしていると、途中から
板前さん(新発田出身)も話の輪に加わ
り、何だか楽しくなってきました。

人情あふれる新潟の夜でした。

 あづま亭 中央区東大通り1-7-1