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(「舞姫」をモチーフに、「舞」の彫刻)
千駄木
東京・千駄木の団子坂は、潮見坂・千
駄木坂・七面坂の別名があります。
「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が
望見できたためと伝えられています。
(団子坂上)
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が
並び、明治40年頃が最盛期だったそう
です。
団子坂上には森鴎外(1862-
1922年)が、30才から晩年まで
過ごした「観潮楼」跡があります。
(森鴎外記念館)
森鴎外記念館が2012年に開館しま
した。現在は特別展「鴎外と慶応3年
生まれの文人たち」を開催中です。
1867年(慶応3年)は、明治を代表
する文人たちがそろって誕生しました。
夏目漱石・正岡子規・幸田露伴・尾崎紅
葉などです。森鴎外は彼らより5才年上
ですが、彼らと共に日本の近代文学史に
足跡を遺しました。
(鴎外像)
鴎外は石見国津和野出身。森家は代々
津和野藩の典医をつとめていました。
東京大学医学部を卒業すると、軍医とし
て陸軍に入ります。4年間ドイツに留学
し、衛生学や衛生制度の調査研究を行い
、その一方で文学作品を読み、芸術に親
しみました。
1907年(明治40年)には陸軍軍医
総監(中将相当)に昇進します。
当時、脚気は結核と共に二大国民病とい
われ、戦死者も多く、鴎外は臨時脚気病
調査会を創設し、脚気研究の土台をつく
りました。
1911年には鈴木梅太郎がオリザニン
(ビタミンB1)を発見し、脚気治療へ
の画期的な道を開きました。
鴎外は観潮楼で多くの小説・翻訳・評論
を執筆し、文人達のサロンにもなりまし
た。
観潮楼歌会は、与謝野鉄幹「新詩社」系
と正岡子規「根岸派」との歌壇内対立を
見かねて、鴎外が1907年から191
0年まで定例的に開きました。
伊藤左千夫、北原白秋、石川啄木、斉藤
茂吉等延べ22名が集いました。
「学問の自由研究と芸術の自由発展とを
妨げる国は栄えるはずがない。」
鴎外の言葉です。
現在は日本中にある「藪そば」の元祖は
団子坂に江戸時代開業したそうです。
団子坂の蔦屋の連雀町店を明治13年に
譲りうけた堀田七兵衛が、屋号を「藪そ
ば」として営業を始めました。
今でも団子坂界隈には数多くの蕎麦屋が
あります。
団子坂上にある「巴屋」に入りました。
江戸時代から続く老舗の暖簾分けで、こ
の地では昭和5年からだそうです。
(夏目漱石旧居跡)
観潮楼から藪下通りを5分程歩くと
「夏目漱石旧居跡」があります。
漱石は英国留学から帰国後、1903年
(明治36年)駒込千駄木町(現在の文
京区向丘)に居を構えました。1906
年末まで住みました。
「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊っち
ゃん」等を発表し、人気作家としての地
位を固めていきました。
旧居跡の題字は川端康成が書きました。
(「舞姫」をモチーフに、「舞」の彫刻)
千駄木
東京・千駄木の団子坂は、潮見坂・千
駄木坂・七面坂の別名があります。
「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が
望見できたためと伝えられています。
(団子坂上)
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が
並び、明治40年頃が最盛期だったそう
です。
団子坂上には森鴎外(1862-
1922年)が、30才から晩年まで
過ごした「観潮楼」跡があります。
(森鴎外記念館)
森鴎外記念館が2012年に開館しま
した。現在は特別展「鴎外と慶応3年
生まれの文人たち」を開催中です。
1867年(慶応3年)は、明治を代表
する文人たちがそろって誕生しました。
夏目漱石・正岡子規・幸田露伴・尾崎紅
葉などです。森鴎外は彼らより5才年上
ですが、彼らと共に日本の近代文学史に
足跡を遺しました。
(鴎外像)
鴎外は石見国津和野出身。森家は代々
津和野藩の典医をつとめていました。
東京大学医学部を卒業すると、軍医とし
て陸軍に入ります。4年間ドイツに留学
し、衛生学や衛生制度の調査研究を行い
、その一方で文学作品を読み、芸術に親
しみました。
1907年(明治40年)には陸軍軍医
総監(中将相当)に昇進します。
当時、脚気は結核と共に二大国民病とい
われ、戦死者も多く、鴎外は臨時脚気病
調査会を創設し、脚気研究の土台をつく
りました。
1911年には鈴木梅太郎がオリザニン
(ビタミンB1)を発見し、脚気治療へ
の画期的な道を開きました。
鴎外は観潮楼で多くの小説・翻訳・評論
を執筆し、文人達のサロンにもなりまし
た。
観潮楼歌会は、与謝野鉄幹「新詩社」系
と正岡子規「根岸派」との歌壇内対立を
見かねて、鴎外が1907年から191
0年まで定例的に開きました。
伊藤左千夫、北原白秋、石川啄木、斉藤
茂吉等延べ22名が集いました。
「学問の自由研究と芸術の自由発展とを
妨げる国は栄えるはずがない。」
鴎外の言葉です。
現在は日本中にある「藪そば」の元祖は
団子坂に江戸時代開業したそうです。
団子坂の蔦屋の連雀町店を明治13年に
譲りうけた堀田七兵衛が、屋号を「藪そ
ば」として営業を始めました。
今でも団子坂界隈には数多くの蕎麦屋が
あります。
団子坂上にある「巴屋」に入りました。
江戸時代から続く老舗の暖簾分けで、こ
の地では昭和5年からだそうです。
(夏目漱石旧居跡)
観潮楼から藪下通りを5分程歩くと
「夏目漱石旧居跡」があります。
漱石は英国留学から帰国後、1903年
(明治36年)駒込千駄木町(現在の文
京区向丘)に居を構えました。1906
年末まで住みました。
「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊っち
ゃん」等を発表し、人気作家としての地
位を固めていきました。
旧居跡の題字は川端康成が書きました。