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matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

悠久の古都、西安その1-兵馬俑

2016-10-28 10:47:35 | 世界の都市(アジア)




 「世界の都市(アジア)」シリーズは
北京に続いて西安です。

 (撮影は2010年8月です。)

 西安その1

 古都西安はかつて長安と呼ばれ、
紀元前11世紀から10世紀初頭まで、
2000年にわたって多くの王朝が
都を置きました。

唐代には世界最大の都市に成長し、
日本でも平城京や平安京は長安に
倣ったと考えられます。

現在の西安は中国西北部の政治経済の
中心地、観光都市で人口は約620万人。




今から約2200年前に「最初の皇帝」
を名乗り、中国大陸に統一王朝を打ち
立てた秦の始皇帝。

その陵墓のほど近くに埋められた
「兵馬俑」。

1974年、井戸を掘っていた農民に
より偶然発見され、20世紀考古学の
最大の発見のひとつといわれます。



兵馬俑は、全体でひとつの軍団を写した
ものです。将軍、歩兵、騎兵など、
さまざまな役割の将兵が表されて
います。

兵士の身長は平均178センチメートル
で、顔立ちはそれぞれ異なります。

そのリアルさと大きさには圧倒されま
した。

7000の兵士俑、100の戦車、
400の陶馬などからなります。



競合する国々を滅ぼし、それまで国に
よって異なっていた度量衡、貨幣など
を統一し、始皇帝は新たな支配体制を
確立しました。



始皇帝はなぜ兵馬俑や銅車馬を陵墓の
周囲に埋めさせたのでしょうか。

死後も皇帝として永遠に世界を支配
したいという野望を抱いていたとの
説もあります。

そのスケールの大きさは桁はずれです。




 (続く)



松山の旅その3-一草庵と山頭火

2016-10-22 11:11:15 | 旅行




 松山その3

 「一草庵」は種田山頭火(1882-
1940年)の終焉の場所です。

道後温泉にほど近く御幸寺山の懐に抱か
れるように、今も閑静なたたずまいを見
せています。



山頭火は明治15年、山口県現在の防府
市に生まれます。

10歳の時、母が自殺。

明治35年上京して早稲田大学に入学し
ます(この年、正岡子規が子規庵で亡く
なります)。
しかし神経衰弱のため2年で中退。

大正5年萩原井泉水の俳句誌「層雲」の
選者となるも、家業の酒造場が破産、
一家離散と弟の自殺と苦難が重なり
ます。



大正15年、行乞(ぎょうこつ、食べ物
の施しを受ける行)行脚の旅を始め
ます。

以来、西日本を中心に九州から東北まで
巡りながら、数々の作品を残しました。



「鐵鉢(てっぱつ)の中へも霰
(あられ)」

昭和7年1月福岡県遠賀郡芦屋町で
詠んだ句。

「今日はだいぶ寒かった。一昨六日
が小寒の入、寒くなければ嘘だが、
雪と波しぶきとをまともにうけて
歩くのは行脚らしすぎる」
(行乞記)



「一洵君に

 おちついて死ねそうな草枯るる」

昭和14年12月5日、高橋一洵が
奔走して見つけてこの草庵に入り
ます。

「すべての点に於て、私の分には
過ぎたる棲家である、私は感泣して、
すなほにつつましく私の寝床をここに
こしらへた」



一草庵は松山市の城北、閑静な寺町の
一隅で、御幸寺が納屋として使ってい
た建物を改造したものです。



山頭火は一草庵で、絶食と飲酒をくり
返しつつ、自らを見つめ続け、最も
落ち着き、最も充実した生活を送り、
珠玉の句を吐き続けます。

昭和15年10月11日、脳溢血の
ため永眠。
望みどおりの「コロリ往生」でした。


山頭火は生涯で8万句以上の句を詠ん
だといわれています。

1970年代前半には17ヶ所だった
句碑は、2006年時点で500ヶ所
を超えているそうです。

俳句愛好家だけでなく、広く多くの
日本人に愛されています。
「昭和の芭蕉」ともいわれます。


松山の旅その2-湯築城跡と道後温泉

2016-10-15 11:11:56 | 旅行




 松山その2

 湯築城跡は松山市の中心部にあり、
道後温泉すぐ近くで、現在は道後公園
となっています。

発掘調査は昭和63年に開始されまし
た。

中世の城郭である湯築城は、近世の城郭
が持つ石垣や天守が無く、地形を利用し
て作られた平山城です。



平安時代末期から戦国期(12世紀末~
16世紀末)までの約400年間、伊予
を支配したのが河野一族でした。

源平合戦の壇ノ浦の戦いで、河野通信が
源氏の武将として功績をあげ、鎌倉幕府
の有力御家人となり、伊予国の統率権を
得ました。

鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、
河野通信の孫にあたります。



南北朝期の通盛の時(1335年前後)
に河野郷から湯築城(ゆづきじょう)へ
本拠を移します。

以後約250年間にわたり、河野氏の
居城となりました。

1585年豊臣秀吉の四国征伐により、
小早川隆景に湯築城を明け渡し、河野氏
は滅亡します。



丘の上にある展望台からは、はるか
松山城が見渡せます。


「道後公園」駅から伊予鉄道の路面電車
で一駅乗ると「道後温泉」駅です。



駅舎の前に小さな蒸気機関車が停まって
います。

坊ちゃんが東京から赴任してきたその日
乗った列車です。

「・・・停車場はすぐ知れた。切符も
訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ
箱の様な汽車だ。・・・」

伊予鉄道は現存する地方鉄道の中で最も
古い歴史を持つ鉄道会社です。



道後温泉本館は街のシンボル的存在の
共同浴場です。(愛称は坊ちゃん湯)

共同浴場番付で、東の横綱が湯田中温泉
大湯で、西の横綱がこの本館です。

1894(明治27)年、神の湯本館
が建立されます。

夏目漱石が松山中学の英語教師として
赴任したのは、翌1895年。

「坊ちゃん」の中で温泉は立派なもの
だと絶賛し、実際頻繁に通ったそう
です。




正岡子規像があります。

子規像の手前の句碑は、子規の友人
柳原極堂の

「春風や ふね伊予に寄りて

 道後の湯」



今もつづく俳誌「ホトトギス」は
1897(明治30)年、極堂が
創刊しました。

漱石が小説「吾輩は猫である」、
「坊ちゃん」を発表したことでも
知られます。

極堂は終生子規の顕彰に努めました。

  (続く)

松山の旅その1-松山城

2016-10-08 10:29:43 | 旅行



(大天守からの眺望)

 松山

 JR松山駅前に、正岡子規の句碑が
あります。



「春や昔 十五万石の 城下町」

この句は1895(明治28)年に、
子規が日清戦争の従軍記者として戦地
に赴く直前の句です。

「春や昔」は司馬遼太郎の「坂の上の
雲」の第一章の章名として用いられて
います。


松山城本丸は市街のほぼ中央、標高
132メートルの山頂にあります。

1602(慶長7)年、加藤嘉明が
関ヶ原の戦いでの戦功により、築城
に着手。

翌年、嘉明はこの地を「松山」と呼ぶ
ことにして、松山という地名が誕生。


(石垣)

石垣は松山城を特徴づける建造物の
一つで、「登り石垣」は全国でも
最大規模を誇ります。


(一ノ門)

高麗門で本壇の入口になるので、
この名があります。


 江戸時代から現存している天守閣は
わずか12城しかありません。

北から弘前城、松本城、丸岡城、
犬山城、彦根城、姫路城、松山城(備
中国)、松江城、丸亀城、松山城(伊
予国)、宇和島城、高知城です。

西国に多く残っています。


(大天守最上階)

創建当時は五重天守でしたが、1854
(安政元)年落成の現存天守は三重三階
で、三代目になります。

日本における最後の天守建築(桃山文化
様式)です。



城内にも子規の句碑があります。



「松山や 秋より高き 天守閣」

子規が1891(明治24)年に発表
した句です。

  (続く)


南足柄の酔芙蓉

2016-10-01 10:14:55 | 日記




 南足柄

 南足柄市の千津島ふくざわ公園脇に
酔芙蓉農道があります。

約1キロの農道に700株の酔芙蓉と
100株の芙蓉が植えられています。



9月中旬から見頃になりますが、訪れた
のは9月末。
そろそろ終わりの時期でした。

酔芙蓉は芙蓉の変種ですが、朝のうちは
純白、午後には淡い紅色、夕方から夜に
かけては紅色になります。

翌朝は花もしぼみ、次の花のつぼみが
膨らみ始めるそうです。



酒を飲むと顔色がだんだん赤みを帯びる
のに似ていることから、この名がついた
そうです。



訪れた時間は午後3時前後。

芙蓉は一重咲きが基本ですが、酔芙蓉
は八重咲きとのことです。



酔芙蓉は群生しているところは少なく、
千本以上あるところは珍しいようです。

花言葉は繊細な美、しとやかな恋人。



のどかな稲刈りの風景とも良くあう、
優しい表情の花です。

彼岸花も見頃でした。