matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

鎌倉梅巡りー浄妙寺、荏柄天神社

2017-02-23 11:18:51 | 鎌倉散歩



(荏柄天神社)

 鎌倉

 2月中旬、鎌倉は梅の季節を迎えて
いました。

1.浄妙寺

浄妙寺は金沢街道沿いにあります。
「岐れ道」を過ぎて、滑川沿いに
しばらく歩きます。



鎌倉五山第5位の寺格をもつ、臨済宗
建長寺派の古刹です。

1188年、源頼朝の伊豆挙兵以来の
重臣・足利義兼が創建しました。



開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)。
行勇は頼朝や政子が深く帰依した高僧
です。

足利義満が五山の制を定めた1386年
頃には、広大な寺地を有し、七堂伽藍が
完備し塔頭23院を数えました。





火災などのため漸次衰退し、現在は総門
・本堂・客殿等で伽藍を形成しています


(喜泉庵)

天正年間(1573-1591年)に
建立された茶室喜泉庵を復興したもの
です。

枯山水庭園があります。


2.荏柄天神社

古くは荏柄山天満宮とも称し、日本三
天神の一つに数えられて来ました。



頼朝が大蔵(現在の雪の下三丁目付近)
に幕府を開くと、その鬼門を守護する
神社として崇められました。

受験シーズンは合格祈願に訪れる人で
賑わいます。

境内の梅は鎌倉に春を告げる花として
住民に愛されています。


3.源頼朝の墓

天神社から八幡宮方面へ少し歩くと、
源頼朝の墓があります。

源頼朝は1199年、53才で亡くなる
と、この地にあった大倉法華堂に葬られ
ました。

法華堂は後に廃絶しましたが、丘の上
一帯がその跡です。



現在建っている塔は、江戸時代に島津氏
によって整えられたといわれています。


小田原城の梅

2017-02-16 11:07:30 | 日本100名城




 小田原

 冒頭の一枚は、河津桜と小田原城復興
天守です。

小田原城は、15世紀中頃に大森氏が
築いた城を前身としています。

1495年、伊豆国を支配していた伊勢
平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森氏か
ら奪い、以後戦国大名北条氏の5代にわ
たる居城として、南関東における政治的
中心地となりました。

上杉謙信や武田信玄の侵攻をも防ぎまし
たが、1590年、豊臣秀吉軍は天下統
一の仕上げとして数十万の大軍で小田原
城を総攻撃しました。(小田原合戦)


(銅門)

銅門(あかがねもん)は二の丸の正面に
あたり、大扉は銅版・銅鋲で美しく装飾
されています。

北条氏滅亡後は、徳川家康の家臣、大久
保氏次いで稲葉氏が城主となります。

1633年の大地震により、城も城下も
壊滅しますが、その後の大規模改修によ
り、現在見られるような近世城郭に生ま
れ変わりました。



現在の城址公園は、本丸・二の丸一帯に
相当します。

公園のあちこちには、梅の花がまるで往
時の夢を懐かしむかのように咲いていま
す。





天守閣は江戸時代に造られた模型・引図
を基に、1960年に鉄筋コンクリート
造で復興されました。



最上階まで登ると、展望デッキから相模
湾・伊豆半島・箱根などが見渡せます。

秀吉が小田原征伐の際にひそかに築城し
た石垣山一夜城跡が、眼の前に見えます。

北条氏は三ヶ月の籠城戦の末、ついに降
伏しました。

4代氏政は切腹、5代氏直は高野山に蟄
居した後、病いの為30才で亡くなりま
す。


天守閣を出て少し歩くと報徳二宮神社が
あります。

神社境内にも梅の花があちこち咲いてい
ました。



二宮尊徳(1787-1856年)は、
江戸時代後期の農政家・思想家。

小田原藩など多くの諸家諸領の復興に
尽くしました。

「経済なき道徳は戯言であり

 道徳なき経済は犯罪である」

今の時代にも通じる訓言ですね。

鶴岡八幡宮の冬ぼたん

2017-02-09 10:53:15 | 鎌倉散歩




鎌倉

 鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれ
鎌倉の中心をほぼ南北に貫いています。

京の朱雀大路を模して、源頼朝が築きま
した。


(二の鳥居)

二の鳥居からは段葛(だんかずら)と
呼ばれる歩道で、頼朝が妻・政子の安産
祈願のために造営させたそうです。



鶴岡八幡宮は、1063年に源頼義が
京都の石清水八幡宮を勧請して創建し
た鶴岡若宮を前身とします。

1180年に、平家打倒の兵を挙げ鎌倉
に入った頼朝が現在地に遷しました。

社殿を中心にして幕府の中枢となる施設
を整備しました。

鎌倉幕府衰退後は僧坊の数も減少します
が、江戸時代に入ると、江戸幕府の庇護
で大規模化が進みました。



北条政子が掘らせたと伝わる源平池の
源氏池の島に旗上弁天社があります。

周囲には源氏の二引きの白旗が多く
見られます。



弁財天は鎌倉江の島七福神の一つです。


源氏池の畔にぼたん庭園があります。
約100品種1000株の「牡丹」が
植えられています。



真冬に藁囲いの中で、ぼたんが可憐に
咲いてます。



太湖石(湖石)とは、中国江蘇省の太湖
という湖の底から掘り出された天然の
名石です。

中国の名のある庭園には、必ず湖石の
石組がみられるそうです。

わが国でも古来より「牡丹には太湖石」
を描いてきたようです。

1984年に中国駐日大使のはからいで
寄贈され、実物を見ることができるよう
になりました。









新春の京都(2017)その3ー智積院と養源院

2017-02-03 11:33:53 | 京都散歩




 京都その3

 朝、京阪七条駅を降りると、ゆるい坂
の七条通りが東大路通りまで続いていま
す。


(三十三間堂)

左手に京都国立博物館、右手には三十三
間堂。

通学中の女学生たちの長い列が、通りの
両側を埋めています。

三十三間堂の東向かいに養源院がありま
す。


(養源院山門)

1594(文禄3)年、豊臣秀吉の側室
・淀殿(母は織田信長の妹・市)が父・
浅井長政、祖父浅井久政(小谷城で自刃
)の供養のために秀吉に願って創建しま
した。

1616(元和2)年には、2代将軍徳
川秀忠の正室・崇源院(江、淀殿の妹)
によって、淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔わ
れました。

一時火災により焼失しますが、崇源院の
願いにより再興され、以後徳川氏の菩提
所ともなりました。


東大路通りと七条通りのT字路に面して
智積院が建っています。



智積院の境内には梅が開花していました。

智積院は真言宗智山派の総本山です。

智山派の大本山としては、成田山新勝寺
、川崎大師、高尾山薬王院があります。


(明王院)

明王院は智積院の護摩道場、祈祷所で
不動堂とも呼ばれています。

智積院は、もともと紀州根来山大伝法院
(根来寺)の塔頭でした。

根来寺は最盛期には坊舎2700、住侶
6000、所領70万石という大勢力で
した。

対立した豊臣秀吉は、1585年全山を
焼き払いました。
住職玄宥は高野山に逃れました。



関ヶ原の戦いの翌年1601年に、徳川
家康の保護でようやく智積院は東山に復
興しました。

1615年に豊臣氏が滅ぶと、豊臣家ゆ
かりの禅寺・祥雲寺の寺地も与えられ、
規模を拡大し、寺号を「根来寺」としま
した。


(名勝庭園)

智積院庭園は、利休好みの庭と伝えられ
山は「廬山」を、池は「長江」をモデル
にしているそうです。


(講堂襖絵)



長谷川等伯一派によって描かれた祥雲
禅寺の障壁画が、智積院に現存し、収
蔵庫で鑑賞できます。

「桜図」は長谷川久蔵25歳の作です。

急逝した翌年、父等伯が哀惜の情をこめ
て「楓図」を描きました。

他に「松に秋草図」「雪松図」等が展示
されています。

いずれも国宝障壁画を代表する見応えの
ある作品です。残念ながら撮影はできま
せん。