matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

早春の鎌倉へー荏柄天神社、瑞泉寺

2016-02-26 16:22:05 | 日記





 鎌倉

 2月中旬のよく晴れた日、鎌倉
を歩きました。

荏柄天神社は、太宰府天満宮、北野
天満宮と並び、日本三天神の一つに
数えられてきました。



源頼朝が大蔵に幕府を開くと、
その鬼門を守護する神社として
崇められました。

創建は1104年。
祭神は菅原道真公ですが、
昨日2月25日が忌日です。



境内では、梅の花が咲き始めています。


鎌倉宮の脇を山に向かって登ると、
瑞泉寺があります。

創建は1327年。
夢窓疎石を開山とした、臨済宗円覚寺派
の禅寺です。



本堂裏の庭園は、岩盤を削って造られた
禅宗様庭園で、書院庭園の起源と
なりました。

荒廃していたのを後に発掘復元
したものです。



瑞泉寺は、鎌倉時代には五山文学の
拠点として栄え、文学・学問
とゆかりの深い寺です。





境内には、高浜虚子、久保田万太郎、
大宅壮一、吉田松陰などの碑
があります。



山崎方代(1914-1985年)の
歌碑です。

「手の中に 豆腐を のせて

 いそいそと いつもの角を

 曲りて帰る」

山崎方代は戦争で、右目の視力を失い
傷痍軍人として、わずかな年金で
暮らします。

各地を放浪し、晩年は鎌倉で
過ごします。

次第に短歌の世界で知名度が高くなり、
鎌倉の名物男になっていったそうです。

「めずらしく晴れたる冬の朝なり

 手広の富士においとまもうす」

最後に入院する時の歌です。 

姫路城大天守へ

2016-02-21 09:56:07 | 旅行





 姫路

 青い空に白く壮麗な天守が、悠然と
たたずんでいます。

1月下旬、姫路城大天守へ昇りました。



姫路城は大天守と小天守3基を連結させ
た連立式の天守で、日本国内最大の現存
天守です。

桃山後期から江戸初期当時の建築の技を
現代に伝える、代表的な城郭といわれて
います。

本格的な天守の第1号とされるのは、
織田信長の安土城。
関ヶ原の戦い(1600年)前後に
築城の最盛期を迎えます。



大天守は1609年、初代姫路藩主の
池田輝政が築きました。
それまで秀吉が築いた小ぶりな天守は
取り壊されました。

輝政は一族で100万石近い大領を
得て、西国将軍とも称されました。

まだ残る大阪城の秀頼と西国諸大名
のけん制、監視が重要な任務でした。



姫路城は、別名「不戦の城」とも
いわれています。

幕末に新政府軍に包囲されますが、
豪商北風荘右衛門貞忠が、15万両
に及ぶ私財を新政府軍に献上して、
戦火を逃れました。



第二次世界大戦では、名古屋城、
岡山城、広島城などが空襲で
次々焼失していきました。

姫路城の天守は、焼夷弾が直撃
しましたが、不発弾で焼失は
免れました。

築城されてから一度も大規模な戦火
にさらされることなく、この美しい
城が現存していることは、
ほとんど奇跡といえるでしょう。








小樽冬物語その3

2016-02-15 10:32:41 | 旅行




 小樽

 小樽は北海道開拓の最重要港として位
置づけられました。

明治13年には函館ー小樽間の定期航路
が開設され、20年頃になると、北前船
にかわって西洋型帆船や汽船が入港する
ようになります。

明治32年、国際貿易港となって横浜・
神戸につぐ貿易港となります。

航路はヨーロッパにまで拡大し、海運各
社は競って小樽に進出します。



その後、第一次世界大戦(大正3-7年)
の時を頂点として、大正から昭和にかけ
て、小樽の港と街の活況と繁栄が続きま
す。

昭和12年には、世界一周航路も小樽に
回航するようになります。



小樽運河が完成したのは、大正12年で
す。


経済的繁栄を背景に、文学・美術などの
文化面においても才能豊かな青年たちが
集いました。

伊藤整は、大正14年に小樽高等商業学
校を卒業後、詩人として出発します。
翌15年に第1詩集「雪明りの路」を自
費出版します。



大野百合子は、大正15年小樽裁縫女学
院を創立するかたわら、同人誌に詩を発
表するようになります。

昭和13年、夫とともに満州に渡ります
が、同年、新京の病院にて病没します。
30歳の若さでした。



遺稿詩集「雪はただ白く降りて」から

雪は

あつき おもいあれど

底ふかく つつめる

静かなる こころなり

山々の峰に 日の如き 風に吹かれ

いつか そのこころを はぐくめり

よしや 地上に

おもうこと かなわじと

なげく人 あらばとて

雪は ただ白く降りて

静かなり

小樽冬物語その2

2016-02-09 11:05:38 | 旅行




 小樽

 色内通りを中心とする色内地区は、明
治中期から昭和初期にかけて、続々と銀
行が進出し、小樽経済の中枢部となり、
「北のウォール街」とよばれました。

日本銀行旧小樽支店



日本銀行の小樽への進出は、明治26年
ですが、日露戦争(明治37-38年)
後の樺太の領有は、小樽の商圏を拡大し
小樽支店の業務の繁忙に拍車をかけまし
た。

この建物の設計は工部大学校卒業生の辰
野金吾らで、当時としては破格の約40
万円の建築費をそそぎこみ、明治45年
に完成しました。

荘重なルネッサンス様式の石造建築物で
す。


旧三菱銀行小樽支店





三菱財閥の基礎は、明治時代の海運界に
君臨した岩崎弥太郎一代において築かれ
ました。

三菱銀行が創立されたのは明治28年。

大正11年に銀行の小樽への進出にあた
って新築されたのが、鉄筋コンクリート
造り4階、地下1階建てのこの建物です。

1階正面の6本半円柱はギリシャ・ロー
マ建築様式です。


旧三井銀行小樽支店





三井家が北海道に関係するようになった
のは明治2年、海陸特産物売り捌きを依
頼され、開拓使からも金穀出納方を命ぜ
られたことに始まります。

現在に残る小樽支店の建物は、大正15
年起工、昭和2年竣工です。

大正12年の関東大震災後に耐震構造の
指針となった最先端の構造(鉄骨鉄筋コ
ンクリート造)が用いられました。


旧北海道拓殖銀行小樽支店





北海道の開拓業務を推進する政府出資の
特別金融機関として明治32年、札幌に
設立され、同34年小樽支店を開きまし
た。

現在に残る小樽支店の建物は、大正12
年の建築です。

ところで、翌大正13年には、小樽高等
商業学校を卒業したばかりの小林多喜二
が、為替係に就職しています。

働きながら作品を発表していましたが、
昭和4年に銀行を解雇され、上京します。

多喜二は秋田の生まれですが、4歳のと
きに小樽に移住しています。

多喜二の母校小樽商科大学のほど近く、
旭展望台への登り口に、文学碑がありま
す。

「冬が近くなるとぼくはそのなつかしい
国のことを考えて深い感動に捉えられて
いる。・・・・赤い断層を処々に見せて
いる階段のようにせり上がっている街を
、ぼくはどんなに愛しているか分からな
い」

獄中から友人に宛てた手紙の一節がきざ
まれています。



敗戦後は、樺太の喪失や諸外国との貿易
の途絶に伴い、小樽の港も街も徐々に衰
退していきます。

昔日の栄華を物語る建物だけが残存して
います。

 (続く)





小樽冬物語その1

2016-02-03 10:00:01 | 旅行




 小樽

 厳寒の小樽です。
 午後になると雪は止みました。



船見坂は、勾配15%を超える小樽屈指
の急な坂です。

港の船を見下ろす眺めは、テレビや映画
でもおなじみです。



船見坂をあがっていくと石狩湾を望む丘
の上に、高野山日光院(真言宗)があり
ます。

日光院は最初、高野山にありました。
小樽の信者たちの「自分たちのお寺がほ
しい」との願いによって、明治24年小
樽の地に移転・再興されました。

大正14年、現本堂が落慶なった時、高
野の地から往時の御本尊(聖観世音菩薩
)が招来されました。


 小樽駅の近くに、小樽日報社跡があり
ます。





21歳の啄木の小樽滞在は、明治40年
9月から翌年1月までのわずか数か月で
した。

「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき

人々の声の荒さよ」

歌集「一握の砂」に収められている歌で
す。

表面的には、マイナスイメージの歌とと
らえがちですが、そうでもないようです。

この当時の小樽の町の、新開地的な男ら
しい活動のさまを歌ったとも解釈されて
います。

小樽人のバイタリティと歌なんて詠まず
に、荒々しく活動する人々の活き活きし
た様子を表現しているようです。


「子を負いて 雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな」

家族を小樽に残して、釧路に向かった
時を回想しての歌です。


 色内大通りに入ると歴史的建造物が残
っています。





旧越中屋ホテルは、昭和6年建築で外国
人宿泊客専用でした。国際貿易港小樽を
象徴する建築のひとつです。

しかし昭和17年には、旧日本陸軍の将
校クラブとなり、戦後は米軍に接収され
ました。

  (続く)