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matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

西本願寺から「国宝」展へ

2017-11-25 11:01:20 | 京都散歩



  (高瀬川)

 京都

 (撮影は10月末です。)

 京都の秋旅2日目は快晴でした。

朝ホテルを出て、大宮通を数分歩くと
西本願寺です。


  (太鼓楼)

堀川通に面して立つ「太鼓楼」は、
江戸中期に建てられた2層の楼閣。

1865年(慶応元年)新撰組は隊士の
増加で西本願寺境内に移り、北集会所と
太鼓楼に駐屯しました。


  (阿弥陀堂門)

阿弥陀堂門から境内に入ると、早朝です
が外国人観光客の姿がちらほら。

西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山。

1272年、宗祖親鸞の遺骨を東山の
大谷から吉水の北に改葬、大谷廟堂を
建て、親鸞の影像を安置したのが本願寺
の起源です。

その後、山科から石山に移った本願寺は
天下統一をめざす織田信長と11年にお
よぶ対立をします。(石山戦争)

1591年、豊臣秀吉から六条堀川の地
を与えられ、現在に至っています。

一方1602年には、徳川家康が教団の
内部対立を利用して、七条烏丸に本願寺
を別立し東本願寺としました。


  (阿弥陀堂)

南無阿弥陀仏の「南無」は「おまかせす
る」「帰依する」の意味だそうです。

「多少の修業善行による成仏を願うので
なく、阿弥陀如来の本願を信じて念仏し
て浄土に往生する。貧富・門閥・性別・
人間的器量のいかんをとわず、ただ念仏
によって救われる」と親鸞は説きました



堀川通から七条通に出て、朝のウオーキ
ングです。

高瀬川と鴨川を渡ると、東山七条の手前
に京都国立博物館があります。


  (京都国立博物館)

重厚なバロック様式の建物の前には、開
門前からすでに長蛇の列です。
開門後も開場まで30分待ちました。

昭和51年以来41年ぶりの「国宝」展
です。

この日は第Ⅲ期の初日でした。



日本肖像画の最高峰ともいわれる、伝源
頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像の神
護寺三像が見られました。



最小の国宝「金印」は間近で見るために
20分ぐらい列に並びました。
やっとたどり着いても、小さすぎてよく
見えません。

人が多すぎて、とてもゆっくり鑑賞とは
いきませんが、特に印象に残ったのは、
やはり長谷川久蔵「桜図」と彼の死後制
作されたといわれる、父等伯の「松林図
屏風」です。

桜に託した躍動的な生命の輝きと、かた
や夢か幻かはるか霞む静寂の世界とが
緊張感をもって対峙しています。

嵐山・嵯峨野散策その2-落柿舎~二尊院

2017-11-18 11:12:23 | 京都散歩




 京都

 落柿舎は元禄の俳人向井去来の遺跡
です。

去来は蕉門十哲の一人に数えられ、師
芭蕉の俳論を今日に伝えた人物として
知られています。

「おくのほそ道」を京都寺町の井筒屋
から刊行したのも去来です。



芭蕉は1689年(元禄2年)以来三度
来庵し、「嵯峨日記」を誌しています。

現在の落柿舎は、1770年に再建した
ものです。



敷地内には多数の句碑・歌碑がありま
す。去来・芭蕉・虚子・昭憲皇太后等
です。

落柿舎の北、去来墓への道の傍にある
西行井戸は、西行法師の出家当時の
草庵の址との伝承があります。


  (二尊院総門)

二尊院は「百人一首」で名高い小倉山の
麓にあります。

平安時代初期、嵯峨天皇の勅願により、
慈覚大師が開山したと伝えられていま
す。

その後荒廃しますが、鎌倉時代初期に
法然の高弟らにより、再興されました。

本尊は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を
祀っており、二尊院の名の由来です。

古来より四宗兼学(天台・真言・律・
浄土)の道場として栄え、明治以降天台
宗に属しています。



総門を入り、紅葉の馬場を歩くと西行庵
跡の碑がありました。

二尊院門前近くにも庵を結んだとされて
います。
  
「我がものと 秋の梢を思うかな
 小倉の里に家居せしよ里」



高浜虚子の句碑です。

「散紅葉 ここも掃きゐる 二尊院」


  (本堂)

本堂は京都御所の紫宸殿を模して
います。

本堂裏の小高い山が小倉山で、百人一首
に「小倉山 峯のもみじ葉 心あらば
今一度の 御幸またなん」(藤原忠平)
と詠まれています。

小倉山の山中には藤原定家が百人一首を
選定した「時雨亭」があったとされてい
ます。



境内には有名人のお墓がいろいろありま
す。


  (法然上人廟)

1227年の嘉禄(かろく)の法難の際
に、大谷の法然の墓地が破壊されると、
法然上人の遺骸を二尊院まで移送しまし
た。
(嘉禄の法難は伝統仏教と政治権力から
の弾圧です。)

嵐山・嵯峨野散策その1-法輪寺~天龍寺

2017-11-11 11:03:18 | 京都散歩




 10月末、京都を訪ねました。
紅葉にはまだ早い時期でしたが、古刹を
巡りながら、徐々に深まる秋を感じまし
た。

 京都

1日目は嵐山・嵯峨野を歩きました。
阪急嵐山駅から歩いて10分程、嵐山の
中腹に法輪寺があります。

713年(和銅6年)、元明天皇の勅願
により行基菩薩が創建したのがはじまり
といわれます。

本尊は虚空蔵菩薩です。

「枕草子」や「今昔物語」にも描かれて
います。

幕末の禁門の変により、お堂の大半が焼
失しましたが、その後再建され、現在に
至っています。


  (電電宮)

山門をくぐり、石段を上がって行くと、
電気・電波を守護する鎮守の社「電電
宮」がおまつりされています。

さらに石段を登ると、正面に本堂です。


  (本堂)

「十三まいり」は、古来より数え年十三
歳に成長した男女が、成人の儀礼として
法輪寺に参拝しました。

十三歳の厄難を払い、智恵を授けてもら
えるよう、虚空蔵菩薩に祈願します。

江戸時代中頃から京都のみならず近畿一
円からのお参りが一般に広がりました。


  (渡月橋)

渡月橋は、法輪寺の道昌が川を修築した
折に架けたのが始まりとされ、江戸時代
までは法輪寺橋と呼ばれていたそうです



  (天龍寺法堂)

天龍寺は臨済宗天龍寺派大本山。京都五
山一位。

1339年、吉野で亡くなった後醍醐天
皇の菩提のために、足利尊氏が夢窓疎石
を開山として創建しました。

夢窓疎石は堂塔建立の資金調達のため、
「天龍寺船」による元との貿易を進言し
、1343年にほぼ七堂伽藍が整いまし
た。

現在の規模をはるかにしのぐ広大な境内
には、塔頭・子院150ヵ寺が甍を連ね
ました。

しかしたび重なる兵火で堂宇を焼失。今
のこる伽藍はほとんどが近代の再建です



  (曹源池庭園)

大方丈前に広がる曹源池は夢窓疎石の作
庭。嵐山・亀山を借景にした回遊式庭園
です。

王朝文化の優美さと武家文化の荒々しさ
を巧みに融合しています。


  (大方丈)

「・・・位の高きも宝の多きも用にたつ
ことなく、あしたには紅の顔ありてほこ
ると雖も夕には白き骨となる。浮世のよ
ろづの心にまかせぬを、いよいよ仏の道
に入りたると思ひとりて、御法を信ずる
を道心おこすと申し候」

夢窓疎石の「二十三問答」の冒頭です。


鎌倉文学館の秋バラ

2017-11-04 11:21:58 | 鎌倉散歩




 
 鎌倉

10月下旬、鎌倉文学館を訪ねました。
江ノ電「由比ヶ浜駅」から徒歩7分。

相模湾を一望する高台にある建物は、
旧加賀藩前田家第16代当主・前田利為
の別邸として、1936年(昭和11年
)に建てられました。

当時の鎌倉の別荘を代表する建物の一つ
です。



戦後は、デンマーク公使や佐藤栄作元首
相が別荘として使用しました。元首相は
鎌倉文士とも親交し、小林秀雄、永井龍
男、川端康成らが訪れて共に食事をした
こともあったそうです。

三島由紀夫の小説「春の雪」に登場する
別荘のモデルにもなりました。
三島は長谷の川端家をたびたび訪問しま
した。



その後、鎌倉市が譲り受け、1985年
(昭和60年)に鎌倉文学館として開館
しました。



源実朝の歌碑がありました。

(大海の磯の岩肌を響かせて打ち寄せる
波が、割れて砕けて散ることだ)

実朝は1218年、武士として初めての
右大臣に上りますが、翌年右大臣拝賀式
で暗殺されます。満26歳でした。



通りの反対側に、子規の歌碑です。

正岡子規は実朝を敬愛し、
「あの人をして今十年も活かして置いた
ならどんなに名歌を残したかも知れ
不甲候」と

「歌よみに与ふる書」に書いています。



建物は西洋の木造建築ハーフティンバー
様式とスパニッシュ様式を基調とし、内
部には、1930年代に流行したと思わ
れるアールデコの様式が隋所に見られる
そうです。

庭園の南側に600平方メートルのバラ
園があり、約200種250株を楽しめ
ます。

秋は11月中旬頃までが見頃です。


  (希望)

少し下を向いていました。


  (ニューアベマリア)


  (新星)