matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

ヨーロッパとアジアの架け橋、イスタンブールその2

2017-06-29 10:01:37 | 世界の都市(アジア)




 イスタンブールその2

 イスタンブールは、ローマ・ビザンツ
帝国・オスマン帝国の都がおかれ、ざっ
と1700年もの歴史があります。

西暦330年、ローマ帝国のコンスタン
ティヌス大帝は都をローマからビザン
ティオンに移し、ここを新ローマと名づ
け、帝国の東半分の首都としました。



360年にはアヤソフィアのもととなる
教会が完成。

その後数度消失するも、6世紀にビザン
ツ様式の大聖堂となり、ギリシア正教の
大本山としてあがめられてきました。

コンスタンティノープルは、最盛期には
長安やバクダードと並ぶ世界最大級の都
市でした。

キリスト教の中心地、シルクロードの終
着駅として繁栄しました。



15世紀になるとビザンツ帝国は陥落
し、オスマン朝が支配し、再び繁栄を
取り戻します。

アヤソフィアはイスラム寺院に姿を変
えました。

ビザンツ文化を象徴するモザイク画も
塗りつぶされました。



アヤソフィアは、さまざまな宗教に利用
されながらも、トルコの長い歴史を体現
してきた建築物です。



トプカプ宮殿、グランドバザールなども
見学しました。

グランドバザールは15世紀に建設され
たふたつの市場が中心となっている、
中東最大の屋内市場です。

店の数4400軒。熱気につつまれ、道
に迷ったら、同じ所にはまず戻れない、
広大な迷路のようでした。

国も宗教も、住む人も移ろい続ける根無
し草のような都市・・・・。

しかし、しみるような深い青の海と、地
層のように多様な文化の厚みを感じさせ
る、謎めいた美しい都市です。

ヨーロッパとアジアの架け橋、イスタンブールその1

2017-06-22 11:30:20 | 世界の都市(アジア)




 6月になると、海外旅の思い出がいくつ
か蘇ります。

1976年6月(41年前)、私達は
羽田からアンカレッジ経由でロンドン
まで飛びました。

初めての海外旅行です。

ロンドンの街は緑がとても豊かで、
遠くから来た旅人に深いやすらぎを
与えてくれました。

パリはうって変わり、あわただしく
ファッショナブルで、光に満ちた、
よそゆきの街といった印象でした。

1989年(28年前)といえば、
天安門事件やベルリンの壁崩壊といった
歴史的出来事が相次いだ年ですが、6月
私はあるプロジェクトの一員として、
モスクワへ飛びました。

朝、ホテルの部屋の窓を開けると、川の
向こう岸にある深い森の中から、少年
少女たちの澄んだ歌声が聞こえてきま
した。

そして5年前の2012年6月、ツアー
でトルコを周遊しました。

トルコの面積は日本の約2倍。
西半分2800kmをバスで回りまし
た。

イスタンブールートロイーアイワルクー
イズミールーエフェソスーパムッカレー
コンヤーカッパドキアーアンカラー
イスタンブールという行程です。

今回は旅の最後、イスタンブールを回想
してみました。


 イスタンブールその1

 イスタンブールは長さ約30kmの
ボスポラス海峡で、ヨーロッパとアジア
に分かれます。



川のような海峡は黒海へ抜け、ロシアや
中央アジアに通じ、マルマラ海からは
エーゲ海をへて地中海に出ます。

世界中の文化が海峡に流れこみます。



この街で生まれ育ったオルハン・パムク
は自伝的随想「イスタンブール」でこう
記します。

「潮流の強い海峡を力強く進む旅人は、
ひどく混んでいる町の汚れや煙や騒音の
真ん中にいるとき、海の力が自分に移っ
たことを、そしてこの人ごみや歴史や
建物などの中で、なお一人で、自由に
立つことができるのを感じる」


ブルーモスク、正式名はスルタン・アフ
メット・ジャーミィ。



トルコを代表するイスラーム寺院、旧市
街の観光の中心となっています。



1616年にスルタンアフメット1世に
よって建造されました。

オスマン朝建築の傑作のひとつといわれ
ます。



内壁を飾る、2万枚以上のイズニック
タイルは青を主体としてさまざまな文様
を組み合わせています。

 (続く)

花菖蒲とダッタン蕎麦

2017-06-15 11:04:37 | 東京散歩




 表参道

 表参道駅から表参道ヒルズに歩くと、
すぐ手前に新潟館ネスパスがあります。

6月上旬、イベントでダッタン手打ち
そば祭りを開催していました。



新発田市にある「山岳手打ちそば一寿」
のダッタンそばを食べました。



新潟県生まれのダッタンそば「北陸4
号」は、ポリフェノール「ルチン」の
量が、通常のそばの約100倍とのこ
と。

喉ごしと歯ざわりが良く、新感覚の蕎麦
です。


昼食後は明治神宮までゆっくり歩きまし
た。

明治神宮御苑は広さ83000㎡、武蔵
野の里山の面影をとどめています。

江戸時代初めは熊本藩主加藤家下屋敷の
庭園、その後彦根藩主井伊家にうつり、
明治維新後は皇室の御料地となりまし
た。


 (隔雲亭)

隔雲亭は昭憲皇太后のご休息所として
建てられました。数寄屋造り(茶室風)
の木造家屋です。

南池まで続くなだらかな斜面は芝生で
おおわれ、ツツジが配植されていま
す。


 (南池)

隔雲亭から見下ろす大池は南池(広さ
8300㎡)と称される自然の古池で
す。

スイレンが咲いていました。



南池の小径を進むと、深い森に包まれた
16枚の花菖蒲田が広がっています。

江戸系の原種150種、1500株が植
えられているそうです。

訪ねた時は、四分咲き程度でした。



しばし大都会の喧騒を忘れさせてくれる
、憩いの空間です。

佐賀の旅ー名護屋城

2017-06-08 10:35:42 | 日本100名城




 佐賀に一泊して、翌朝唐津へ向かいま
した。

「唐の津」と書いて唐津。古代「唐(か
ら)」とは朝鮮や中国の呼び名で、唐へ
渡る津(港)というのが地名の由来だそ
うです。

 唐津

 唐津駅からバスに乗りましたが、呼子
で乗り換え、1h程して波戸岬行きのバ
スが来ました。



名護屋城は肥前国松浦郡名護屋にあった
城です。

豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に、国内
拠点として築いた城です。



わずか5ヶ月で築城され、当時の大坂城
に次ぐ規模を誇りました。

全国から戦国大名が集まり、周辺には
陣屋が130以上も建てられ、約20
万人の城下町が出現しました。


 (天守台)

本丸・二の丸・三の丸などを配し、本丸
北西隅に5重7階の天守が築かれまし
た。

1592年(文禄元年)3月に城が完成
すると、西国衆を中心に16万の兵が朝
鮮に出兵しました。

秀吉は在城中、指示を出す一方、茶室で
茶会を楽しんだり、仮装大会を催したり
しました。





天守台からの玄界灘の眺めです。

この日は曇り空ですが、松島の向こうに
壱岐が見えました。
よく晴れていれば対馬も望見できるそう
です。

この地域は大陸への最短海上路線をかか
える港として、古くから交流の門戸にな
っていました。


 (安宅船)

安宅船(あたけぶね)は、当時日本水軍
の最強軍船です。
総矢倉形式の船体に二層の屋形を持ちま
す。

1598年(慶長3年)8月、秀吉が
62年の生涯を終えると、全軍撤収し、
名護屋城は役割を終えました。

関ヶ原の戦いの後、寺沢広高は唐津城
の築城を開始し、名護屋城を解体、遺材
を使用しました。

島原の乱の後には、一揆に利用されない
ように、石垣も要所が破却されました。

秀吉の限りない野望によって生まれた
幻の巨大都市です。

佐賀の旅ー佐賀城その2

2017-06-01 10:38:11 | 日本100名城




 佐賀城は江戸時代初頭に完成し、外様
大名鍋島氏の居城でした。

もともとは、中世以来龍造寺氏が居城と
していた村中城を改修・拡張したもので
す。

1584年(天正12年)龍造寺隆信が
島津・有馬連合軍に敗れ戦死すると、家
臣の鍋島直茂が実権を握ります。

江戸幕府から佐賀藩主として認められる
と、本丸の改修、天守閣の建造に着手し
ました。

しかし城は幾度も火災に見舞われ、
1874年(明治7年)の佐賀の乱で、
建造物の大半が失われました。


 (鯱の門)

わずかに現存する、本丸の表門・鯱の門
です。

佐賀の乱当時の弾痕が生々しく残ってい
ます。



本丸歴史館は、10代藩主鍋島直正が
1838年(天保9年)に再建した本丸
御殿を忠実に復元したものです。

2004年に開館しました。


 (居間・御座の間)

本丸御殿の一番奥にあり天保期の建物と
見られる「御座の間」は、鍋島直正の居
室で現存しています。



佐賀の乱は、江藤新平・島義勇らを
リーダーとして起こった明治政府に
対する大規模反乱です。

征韓論をめぐる明治6年の政変で、中央
を追われた江藤は、板垣退助や副島種臣
らの説得を聞かず佐賀に戻り、薩摩の
西郷など各地の不平士族が後に続くこと
を期待して、まず佐賀で決起しました。



政府の最高幹部・大久保利通が弾圧に
乗り出し、江藤らは鹿児島に入り、西郷
に決起を促しましたが、その意志はなく
やむなく土佐に向かいましたが、捕縛さ
れました。

わずか2日間の裁判で、11名が判決
当日に斬首となりました。

江藤は司法卿として、明治政府の司法・
警察制度の基礎を築いた功がありまし
たが、暗黒裁判で40歳の生涯を閉じ
ました。


 (天守台)

1876年(明治9年)になると、熊本
で「神風連の乱」、福岡で「秋月の乱」
山口で「萩の乱」と続き、翌1877年
には西南戦争が勃発します。