matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

下町ウオーキングで忘年会ー両国~新橋

2017-12-28 11:08:14 | 東京散歩



  (清洲橋とスカイツリー)

 今年も忘年会数回ありましたが、
以下は大学時代の仲間たちとの忘年
会です。

 両国~新橋

 JR両国駅に12時集合。計画では、
北斎記念館ー吉良邸跡ー回向院ー芭蕉
記念館ー(清澄公園)-永代橋ー(鉄
砲洲稲荷神社ー(聖路加病院トイスラ
ー記念館)-(築地本願寺)-新橋
というコースで全長約9キロ歩いて
17時に新橋到着となっていました。

結局寄り道しすぎて( )内は未達と
なりました。


  (両国駅)

両国の街は、江戸時代には屈指の繁華街
でした。



北斎記念館で時間をとりすぎて、吉良邸
跡に着いた時点ですでにかなりオーバー
してました。



都合よく義士祭期間中で、屋台が出てい
ます。



「ちゃんこなべ」一杯500円です。
甘酒は無料で飲めました。


  (吉良邸跡)

1701年(元禄14年)刃傷事件の
数ヶ月後、幕府は呉服町門内にあった
吉良家の屋敷を召し上げ、代わりに本
所二ツ目に屋敷を与えました。

もともとの吉良家の屋敷は、東西七十
三間、南北三十五間、面積2550坪
(約8400平方メートル)という広
大なものでした。

隠居後の吉良邸跡は本所松坂町公園と
なり、なまこ壁など屋敷の一部が残っ
ています。ただし、当時の八十六分の
一の大きさにすぎないそうです。


  (回向院)

1657年(明暦3年)の明暦大火(俗
に振袖火事)は、犠牲者10万人以上で
した。

4代将軍家綱は、本所両国に「無縁塚」
を築き、念仏堂を建立しました。
「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられま
した。

その後安政大地震、関東大震災、東京大
空襲など天災地変・人災による被災者、
遭難者、刑死者、諸動物などありとあら
ゆる生命が埋葬供養されています。

江戸~明治時代の間、境内は勧進相撲の
開催場所とされ、相撲と縁が深い寺院で
す。

次に芭蕉記念館に入りました。
史跡展望庭園の芭蕉像の下で記念写真を
とりました。

清洲橋から永代橋まで隅田テラスを歩き
ました。

永代橋を渡り茅場町駅に着いたところで
時間オーバー。地下鉄に乗りました。



打ち上げは新橋亭でコース料理。
ビールもワインもおいしかった。
ただ、病気と怪我の話題が以前より多く
なってきました。


皆様、今年1年ありがとうございまし
た。どうぞ良いお年をお迎えください。

晩秋の京都その4-長楽寺

2017-12-23 11:02:17 | 京都散歩




 京都

 円山公園のさらに奥、東山三十六峰の
一つ長楽寺山の麓に長楽寺があります。

かつての境内地は円山公園の大部分や
大谷祖廟(東大谷)の境内地を含む広大
なものだったそうです。


  (山門)

805年、桓武天皇の命により、最澄が
延暦寺の別院として創建したと伝えられ
ています。

平清盛の娘である建礼門院が出家したこ
とから、「平家物語」ゆかりの寺として
知られています。


  (鐘楼)

高倉天皇と建礼門院との間に生まれた
安徳天皇は、3歳で即位しましたが、
1185年壇ノ浦の合戦で祖母に抱か
れて入水、わずか8年の生涯でした。

建礼門院は入水するも助けられ、当寺
に入り剃髪しました。


  (建礼門院尊像)

室町時代の初期、時宗の僧国阿がこの寺
に入り、時宗の寺に改められます。

明治39年、時宗の総本山格であった
七条道場金光寺がこの寺に統合され今
に至ってます。


  (本堂)

古来より「洛中随一絶景の霊地」として
文に詩に歌に、詠われました。

「今昔物語」、西行法師(当寺に入て修
行)の「山家集」、「平家物語」などの
有名な古典に記されています。


  (拝観所)

晩秋のころ、最も美しいのは室町時代の
画家相阿弥が作庭したといわれる園池。

銀閣寺の庭を手掛ける際に、相阿弥が試
作したとも伝えられ、「試みの庭」と呼
ばれます。


  (園池)

江戸時代の有名な文人、頼山陽は「京の
四季」で、しぐれの紅葉を詠いました。

「時雨をいとうから傘の
 濡れてもみじの長楽寺」

晩秋の京都その3-八坂神社~大谷祖廟

2017-12-16 11:16:57 | 京都散歩




 京都

 河原町から四条大橋を渡り、四条通の
東のつき当たりが、八坂神社です。

7月の祇園祭で知られる、古くからある
神社ですが、創建については諸説ありま
す。

一説には876年、南都の僧円如が建立
。堂に薬師千手等の像を奉安、天神(祇
園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したこ
とに始まるそうです。



当初は興福寺や延暦寺の支配を受ける神
仏習合の寺とみなされていました。

藤原氏の崇敬あつく、天皇・上皇の行幸
もたびたびありました。
又、平清盛、源頼朝、足利将軍家など
武家の崇敬もあつく、その地位を高め
ました。

1384年、足利義満は祇園社を比叡山
から独立させ、以後祇園祭は京の町衆に
より行われるようになりました。



境内東側には円山公園が広がっています

公園南側には大谷祖廟があります。



大谷祖廟は、東本願寺の飛地境内で、
親鸞の墓所です。

起源は親鸞聖人入滅後10年の1272
年、墳墓を改め、廟堂を建てて聖人の御
影像を安置したことによります。


  (表唐門)

本願寺の東西分派後の1670年、現在
地に祖廟として造営されました。

東山区には別に、五条通と東大路通が交
差するあたりに建っている大谷本廟があ
ります。こちらは西本願寺の親鸞の廟所
で、西大谷とも呼ばれています。


  (太鼓堂)

親鸞(1173-1262年)は、法然
を師と仰いで、独自の寺院を持つことは
せず、各地に簡素な念仏道場を設けて教
化する形をとりました。

1201年、29才の時に東山吉水(東
山区円山町)の法然の草庵を訪ね(法然
は69才)、入門を決意します。

1207年の建永の法難では、越後国国
府(新潟県上越市)に配流となります。

流罪により生涯にわたり、非僧非俗の立
場を貫きました。

1262年、行年90(満89才)で入
滅すると、遺骨は鳥部野北辺の「大谷」
に納められました。


  (本堂)

本堂には、本尊である阿弥陀如来立像が
安置されています。


  (北門)

北門から出ると、長楽寺に通じる参道
です。

 (次回は長楽寺を訪ねます。)

晩秋の京都その2-法然院

2017-12-09 11:04:27 | 京都散歩




 京都

 銀閣寺を出て、南禅寺や永観堂のある
南方へ10分程歩くと法然院です。

周辺は住宅街ですが、何となく山中の趣
があります。


  (山門)

京都唯一の茅葺の山門(茅門)を入ると
両側に白い盛り砂があります。


  (白砂壇ーびゃくさだん)

水を表わす砂壇の間を通ることは、心身
を清めて浄域に入ることを意味している
そうです。


鎌倉時代の初め、浄土宗を創始した法然
は、弟子の安楽や住蓮とともに、草庵を
結んで念仏三昧の修行を行いました。

その時の草庵が、法然院の始まりとされ
ています。


  (経蔵)

1206年、後鳥羽上皇が熊野詣でに行
き、都を留守にした際、女官の松虫と鈴
虫が安楽と住蓮を慕って出家してしまい
ました。

激怒した後鳥羽上皇は、安楽と住蓮を死
罪、法然を流罪としました。(建永の法
難)

その後、草庵は久しく荒廃することとな
りました。

法然は四国土佐に遠流となりましたが、
恩赦により四国から摂津に戻り、
1211年には東山吉水に戻りました。

すでに病状が悪化しており、翌年入寂
しました。



江戸時代初期の1680年、知恩院第
38世萬無和尚が、法然上人ゆかりの
地に念仏道場を建立することを発願し
、法然院が建てられました。


  (多宝塔)

法然院の閑寂さは多くの文人や学者に
愛され、境内には谷崎潤一郎、九鬼周
造、河上肇、稲垣足穂などの墓があり
ます。

谷崎潤一郎の墓石には「寂」の文字が
刻まれています。

九鬼周造の墓の側面には、ゲーテ「旅
人の夜の歌」の一節が刻まれているそ
うです。

「見はるかす山々の頂 
 梢には風も動かす鳥も鳴かす
 まてしはしやかて汝も休らはん」


  (聞思得修信)

銀閣寺とは異なり、紅葉の時期でも、
人の姿はそれほど多くありません。

晩秋の京都その1-銀閣寺

2017-12-02 11:13:40 | 京都散歩




 11月下旬、再び京都を訪ねました。
紅葉の見ごろを迎え、観光客で溢れて
いました。

 京都

 銀閣寺は通称で、正しくは東山慈照寺
だそうです。
臨済宗相国寺の境外塔頭。

銀閣寺の発祥は、室町幕府八代将軍足利
義政の建立した山荘東山殿です。



足利義政(1436-1490年)は、
父義教が暗殺され、兄も早世した為、
8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた
1449年に正式に第8代将軍となりま
す。

当初は政治にも積極的で、勘合貿易を復
活させ幕府財政を安定化させます。しか
し次第に貿易の実権は細川家や大内家に
握られ、将軍家は経済的にも衰退してい
きました。

幕政を有力守護大名に委ねて、猿楽・酒
宴に溺れていきます。庶民は飢饉や災害
に苦しみ、1461年の寛正の大飢饉で
は、一説には賀茂川の流れが餓死者の
死骸のために止まるほどだったといわ
れます。



1467年(応仁元年)に応仁の乱が起
こると、天皇と将軍は同居し、義政と妻
の富子は度々法皇や天皇と宴会を開いた
そうです。

義政は政治を疎んでもっぱら数寄の道を
探求した文化人といわれます。

数寄者とは、好んだもののためには、人
生を狂わしても構わないという心の持ち
主です。

自らの美意識による世界の現出を試み、
それは簡素枯淡の趣をもち、義満の北山
文化に対して、東山文化とよばれます。

1473年、西軍の山名宗全、東軍の細
川勝元の両名が死んだことを契機に、将
軍職を譲って隠居します。

1482年に東山山荘の造営を始め、翌
年移り住みます。


  (東求堂)

東求堂は1486年義政の持仏堂として
建立されました。初期書院造りの建物で
す。

東求堂の名は「六祖壇経」の一節「東方
の人、念仏して西方に生ずるを求む」に
よります。


  (観音殿)

観音殿(銀閣)は1489年の上棟。

金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣
と呼ばれるようになったのは、江戸時代
以降のことだそうです。

1490年、義政は東山殿の完成をみる
ことなく亡くなりました。享年55。


  (大内石)

東求堂前の池に大きな石があります。
大内石です。

北山殿を造った義満は、金閣の造営に
あたって細川・赤松らの守護大名に協
力を要請、大内義弘は「武士たるもの
の仕事ではない」と拒否しました。

その2世代の後、銀閣の作庭に際して
大内政弘は協力しました。大内石はそ
のエピソードを伝えているそうです。