もりのぼたもち

釣り、健康ランニングとお城巡りを楽しむアラ還おじさんです。
何事にもドンマイ!の気持ちであちこち出かけています。

御朱印巡り 難関突破と恋の宮 ~ 金崎宮 福井県敦賀市 2019.8.10

2019年08月13日 | 御朱印巡り

8/10 気比神宮を参拝後にお詣りしました。

金崎宮です。

駐車場からちょっとした坂道と石段を上がります。

途中、赤レンガ倉庫が見えます。

こちらは、何度もお参りに来ております。

私はどちらかというと、金ケ崎城の方に関心があります。

信長、秀吉、一豊、朝倉、浅井、お市など、ビックネームばかり。

それよりもまずは参拝です。

厳かな雰囲気。

こんなキャラクターがお出迎え。

ということで、こちらも「恋の宮」。

またまたTさんに良きご縁がありますように・・・。

それでは、由緒です。

HPからです。

延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられた が、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王・恒良親王を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。
新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏 治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、 杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義 顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。
恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。
明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を 金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を 執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。
しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。
昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。
尊良親王(たかながしんのう)※後醍醐天皇一の宮   恒良親王(つねながしんのう)※後醍醐天皇皇太子
「縁結び・恋愛成就」 「難関突破」 「開運招福」 「金運招福」
 

本殿です。

こんなおみくじも。

お守り。

特に私の関心が高いのがこちら。

金運。

ただ、私の財布やバッグにはあちこちの金運お守りが入っていて、こりゃ怒られそうですわ。

と、こちらではお詣りのみ。

それでは、御朱印を頂戴します。

 

コメント
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