毎度よくわからないタイトルで。
今回は本人すらわかりません(笑)
ただねー、ここ数年(というか心筋症で入院して以来)哲学的?な思考を繰り返してきたわけですが。
最近ちょっと囚われすぎているかな、と思い始めたのであります。
もちろん、そういった思考や学びをする過程で本当にたくさんのコトに気づいたし、人間としても少しは成長できたのかな、と思うことも多々あります。
そのおかげで苦しみから解放されることもありましたしね。
なので、それはそれで有意義だったと思うのですが。
一方で、社会復帰して一年以上経った今、もっと現実をまっすぐありのままに見つめる時期が来たのかな、なんて思ったのです。
そういう段階なのかもしれませんねー。
正直なところ、これまで現実をしっかりありのまま見つめてきたか、と問われれば、ノーです。
そんな心のパワーがないというか、どうでもいいというか、そんな勇気がないというか…、また壊れてしまいそうで(苦笑)。
…って、無意識に思っていたようです。
それが、少し気合が戻ってきたような感じ。
過去の現実、今の現実をしっかり見据える時期が来ている感覚がします。
見据えるといっても“闘う”わけでは無いんですが、苦しかったことを思い出すのはやっぱりパワーがいるからね。
で、話が前後しちゃいましたけど、なんでそんなコトをしなければならないのか。
ここ数年間というのは、哲学的(というより認知療法的?)に過去を見ることで、苦しみのウラで得たものばかりを常に意識するように生きてきたんですね。
放っておいたらココロは勝手に苦しんでくれます(?)ので、思考としてはプラス面ばかり意識するようにしていた、とでも言えばよいのでしょうか。
もちろんこれまではそれで良かったんだと思います。
過去の苦しみと真正面に向き合えるほどのパワーが無かったわけですから。
ただ、結果的にはココロの中の苦しみを、ただ見ないようにしてきただけとも言えるわけですよね。
ということは、いつまで経ってもこの苦しみは消えない、ってコトだと思うんです。
ですから、少しパワーが戻ってきたこれから、少しずつ苦しみを見つめていってみよう、それで「苦しみ君」の行き場を探してやろう、そうすれば哲学的思考に頼らずとも生きていけるようになるかな、と。
で、なんでそうなりたいかというと、哲学的思考でココロの安定を保つのって、それはそれで結構エネルギーを食うんですよね。最近気づきましたけど。
なので、ココロの安定を保つために通常必要以上のエネルギーを使いたくない。
というか、そんなエネルギーがあるならば、今どう生きるか、ということに使いたい、というコトです。
そういう段階に入りつつあるような気がする(はっきりしろよ、苦笑)、最近のびっきぃなのでした。
で、タイトルの「てにをは」の話。
びっきぃのココロの師匠の一人(多すぎて困ってます、笑)の中村天風師は、講演録などをみると、「人生を生きる」ではなく「人生に生きる」という言い方をされています。
おそらく何か意図があってそういう言い方をされているのだろうと勝手に思っていたのですが、最近なんとなく“に”の意味が判ってきつつあるような気がする、のは気のせいだろうか?(だからはっきりしろって)という状態です。
どちらにしても、言葉で表現できるものではありませんねー。だから?はっきりできません(逃げ)。
今回は本人すらわかりません(笑)
ただねー、ここ数年(というか心筋症で入院して以来)哲学的?な思考を繰り返してきたわけですが。
最近ちょっと囚われすぎているかな、と思い始めたのであります。
もちろん、そういった思考や学びをする過程で本当にたくさんのコトに気づいたし、人間としても少しは成長できたのかな、と思うことも多々あります。
そのおかげで苦しみから解放されることもありましたしね。
なので、それはそれで有意義だったと思うのですが。
一方で、社会復帰して一年以上経った今、もっと現実をまっすぐありのままに見つめる時期が来たのかな、なんて思ったのです。
そういう段階なのかもしれませんねー。
正直なところ、これまで現実をしっかりありのまま見つめてきたか、と問われれば、ノーです。
そんな心のパワーがないというか、どうでもいいというか、そんな勇気がないというか…、また壊れてしまいそうで(苦笑)。
…って、無意識に思っていたようです。
それが、少し気合が戻ってきたような感じ。
過去の現実、今の現実をしっかり見据える時期が来ている感覚がします。
見据えるといっても“闘う”わけでは無いんですが、苦しかったことを思い出すのはやっぱりパワーがいるからね。
で、話が前後しちゃいましたけど、なんでそんなコトをしなければならないのか。
ここ数年間というのは、哲学的(というより認知療法的?)に過去を見ることで、苦しみのウラで得たものばかりを常に意識するように生きてきたんですね。
放っておいたらココロは勝手に苦しんでくれます(?)ので、思考としてはプラス面ばかり意識するようにしていた、とでも言えばよいのでしょうか。
もちろんこれまではそれで良かったんだと思います。
過去の苦しみと真正面に向き合えるほどのパワーが無かったわけですから。
ただ、結果的にはココロの中の苦しみを、ただ見ないようにしてきただけとも言えるわけですよね。
ということは、いつまで経ってもこの苦しみは消えない、ってコトだと思うんです。
ですから、少しパワーが戻ってきたこれから、少しずつ苦しみを見つめていってみよう、それで「苦しみ君」の行き場を探してやろう、そうすれば哲学的思考に頼らずとも生きていけるようになるかな、と。
で、なんでそうなりたいかというと、哲学的思考でココロの安定を保つのって、それはそれで結構エネルギーを食うんですよね。最近気づきましたけど。
なので、ココロの安定を保つために通常必要以上のエネルギーを使いたくない。
というか、そんなエネルギーがあるならば、今どう生きるか、ということに使いたい、というコトです。
そういう段階に入りつつあるような気がする(はっきりしろよ、苦笑)、最近のびっきぃなのでした。
で、タイトルの「てにをは」の話。
びっきぃのココロの師匠の一人(多すぎて困ってます、笑)の中村天風師は、講演録などをみると、「人生を生きる」ではなく「人生に生きる」という言い方をされています。
おそらく何か意図があってそういう言い方をされているのだろうと勝手に思っていたのですが、最近なんとなく“に”の意味が判ってきつつあるような気がする、のは気のせいだろうか?(だからはっきりしろって)という状態です。
どちらにしても、言葉で表現できるものではありませんねー。だから?はっきりできません(逃げ)。
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