オカリナと水泳日記、あ、うつ病と拡張型心筋症なども

病気は「ついで」かい!というようなタイトルですが(苦笑)。
古い記事はうつ病との闘いの記録?や花作りがメインです。

また一年経ったのね。

2013年08月19日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
一年以上ぶりの更新ですねー。(ヘンな日本語)

とりあえずまだ生きてますよん。しぶといのだ。

先月、特定疾患医療受給者証の更新手続に合わせて、年一回の検査をやってきました。心臓エコーとか。

各数値とも問題なしですが、心臓を真ん中で左右に分けている筋肉が若干厚くなってるらしい。
といっても、まあ様子をみてましょ、程度のようです。

しかしまあ、線維化してダラ~ンとなったり厚くなったり...
いやいや、動いてくれるだけありがたい。それも薬物のみで。

に、しても!

この暑さはどーにかならんの...ならんよなぁ。

薬の副作用?で、疲れやすいのはもともとなんですが、暑いとそれが顕著に出る感じがします。

今は内勤なので助かってますが...

まあ病気のコトは置いといて、暑い中出撃していく営業担当の同僚たちに頭が下がる毎日です。

障害者総合支援法成立。

2012年06月21日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)

・・・昨日成立したとのニュースをみました。

 

悪名高い(?)、障害者自立支援法の改正です。

改正に過ぎないのに名前を変えるのは何ゆえ? とイヤラシイ突っこみをしたくなりますがそれはおいといて。

 

その改正点がびっきぃに関係があるから書いているのであります。

 

それは、「難病(特定疾患)患者」も法律の対象にする。ということ。

となると、今の「特定疾患医療受給者証」の扱いはどうなるのかな?

将来は、この改正法の枠内での医療補助、ということに変わるのでしょうか?

 

と、素朴なギモンを感じたので書いてみた次第。

このブログを読んでくれている特定疾患の方にご連絡と言いますか、「この法律に関係するようになりましたよー。」ということであります。

 

それ以上はこの法律について論評できる立場ではありませんので書きません。

 

それはともかく、特定疾患のみなさま。

もうすぐ「特定疾患医療受給者証」の更新書類が届きますよ~。

(神戸市は6月22日に一斉発送とのこと。事情あって区役所に確認しました)。

 

締め切りは9月ですよ~。

忘れたら大変ですよ~。

・・・大変だったんだから。。。 って去年も書いた気が(苦笑)。


最近の様子

2011年11月18日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)

ご無沙汰しております。

2ヶ月半ぶりの投稿ですねー。

 

で、何してたかと言いますと。

 

…「もんもん」としてました(爆)。

あいかわらず、まったく。

 

で、今どーなのと言いますと。

 

いやあ、何だかようやく、ホントにようやくアタマん中の霧が晴れた感じ。

生きる気合が入ってきた感じでもありますねー。

 

ほんとメンタルの復活は波があるなあ。

つーか健康でも波はあるんでしょうけど。。。

それにびっきぃの場合、今は「うつ病」というよりも、その後遺症?というような状況なんですね。

仕事が出来るまでは回復しているんですが、その他もろもろの出来事も合わさって「もう何もかもヤダ」状態で、生きてるコト自体が苦しいという、いわば思考の異常とでも言えばよいのでしょうか。

 

で。

 

ここ1年ほどは、凹んでは回復の繰り返し。

ただし毎回、凹む前よりも一段よくなるというか、一皮むけるというかそういう回復を繰り返してきました。

 

で、今回。

 

また凹みから回復して一段上がった感じなのですが、どうも昔の元気なころの感覚に手が届いた、という状態、のよーな。

あ、この感覚だよ。生きてるって感覚(何だそりゃ)です。

 

ま、もちろんこのまま安定して…なんて思っちゃいません。

まーた何かで凹んでは、今度はアタマぐらいまで登って、また凹んでは腰ぐらいまで…となるんでしょうけど。

 

とりあえず、昔の水準?が見えてきた、思い出してきた、という状況です。


定期検査。

2011年09月01日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
7月の診察時に、一年ごとの検査を行いました。
血液検査、レントゲン、心電図、および心臓エコー検査です。

んで、今月の診察で測定に時間の掛かる血中BNPという値の結果を教えてもらいました。

その他の検査結果は検査日に異常なしと聞いておりました。
で、今回のBNPという心室に負担が掛かると出てくる物質の量も全く問題なし。おそらくフツーのヒトより数値は良いみたい(笑)。

つーか、「お薬、毎日忘れずに飲んでいるようですね。」という医師の指摘どおりです。
何はともあれ良うございました。はい。

ただ、つまんなかったのは今回の心臓エコー検査。
いつもモニターに映る自分の心臓の反射影を見て、面白がって(いや、神秘を感じて?)いるのですが(笑)。

今回、技師曰く「ハイ、壁の方を向いて横になってください。」
「へ? んじゃモニター見えないじゃん…」

まあ技師さんの手首の動きというか角度を考えたらその向きの方がやりやすい、んでしょうねえ。

でもツマランかった(コドモだ…笑)。

というわけで、特定疾患医療受給者証の更新用診断書を作ってもらい、手続きしてまいりました。

昨年も書きましたが、更新手続きの締切は9月末ですよー。受給者の皆様、お気をつけ下さいませ。

続 あるがままに。

2011年08月26日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
…続くのかよ(笑)。

という自己ツッコミはおいといて、真面目なお話です。

「あるがまま」の意味がわかったというよりは、「今の自分のあるがまま」が、ようやくココロに受け入れられた、という感じでもあります。
具体的には心筋症であることが根本。

少し前思ったように、受け入れられたつもりだったけれど全然そうではなかったことに気づき、ようやく病気と正面から向かい合うことができてきて、受け入れられたような感じがしていたけれど、それはアタマ(思考)のレベルだったのかな。

今回はココロに収まってきたという感覚。

なので、これまでは何かあるとすぐ心筋症であること(それもネガティブ面ばかり)に感情がリンクして「もうどうでもええわ、うんざり」というようなネガティブな気分がおこり、それを認知の切り替えで処理してきたわけですが。

だが、今はネガティブな気分があまり起こらなくなってきている。

そもそもを考えると、ここ10年程の間に、ネガティブなスキーマ(中核信念=認知の傾向の根本)が形成されてしまっていたようです。それに気づいているようでいなかった。
ま、それは仕方が無いわ。いろいろあったし。

今は、その内側から新しいスキーマが現れて、脱皮しつつあるような感覚。

だから、「元に戻った」というだけでなく「別のものになった」感じもします。

ただ、まだ脱皮中。ときどき古いスキーマが顔を出し、憂鬱になることはあります。
でもそれは仕方が無い。こういう変化に時間が掛かることは数え切れない程経験してよく判ってるから。
とにかく、その気分に振り回されないこと。一方抑圧はしないこと。

正面から見つめていれば自然に収まっていく。収まらん時はとっとと寝る(笑)。瞑想をする。まあ、そういう時は瞑想に入りにくいだろーけどね。形だけでもやってみる。

10年近くかけて、沈みきったトコロからようやく浮上したら、まったく別の世界だったという感覚を感じています。

というかその世界(観)は自分のココロが創り上げているんだよね。

とにかく焦らないこと。ココロの変化は急に起こるけど、根付くには時間が掛かるからね(私の場合ですが)。

あるがままに。

2011年08月23日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
お久しぶりです。
お盆の頃にかけて、ドン底状態にありました。間違いなく復帰以来最悪。
何もかも嫌、というかうんざり。完全にココロが“折れた”ような感じでした。

が。

お盆があけるなり、なんだか好調だよ。(いや、お盆は関係ないんでしょーけど。)
んで、その状態が続いています。さらに安定してきています。

で、これはちょっと分析?しておこうと思いましたので書いてみます。

***

「あるがまま」ってのがようやく判ってきました…よーな気が。どっちだ(笑)。

というのは、ここ何年間もずっとココロに留めていたことなんです。
「あるがまま」とか「ありのまま」とか。

そもそもは中村天風師の本(講演録)でこの言葉(あるがままに生きる)を見た時、言葉の意味はまったくわからないのに妙に安心感を感じたコトなんです。
(過去記事みてみたら‘06年の12月以来、足掛け4年か。笑)

で「あるがまま」って何?って漠然と、でもず~っとココロにあったんです。

それが何となく理解できて来た。ココロに根付いてきた。それにつれて毎日がラクになってきた、という状態です。

んで、「“あるがまま”って何?」なんですが。

びっきぃの文章力では説明できません(苦笑)。

ただ復職支援センターで認知療法を学ぶ中で、自分なりに思っていた(いる)ことは、
「出来事は出来事に過ぎない。それの善悪を評価したり、なんらかの感情を生んでいるのは自分に他ならない。」って。
ついでに、「出来事に反応するのではなく、できるだけ客観的に観察して、そこから何を学べるかが勝負?でしょ。」って。

この「客観的な観察」が一番感覚的に近いかなあ。それがココロに根付いてきたと。

出来事(人生に起こるありとあらゆること)に対して一切の評価をせず、こころの“反応”で生まれた感情が静まるのを待って(抑圧ではない→重要)、ただ見る。

だから、「あるがまま」。

…あかん。やっぱり説明できんわ(苦笑)。

ただ補足しますと、それがココロに根付いて来たきっかけは「ブッダの哲学(いわゆる初期仏教)」に手を出した(笑)ことでした。

一切皆苦、諸行無常を大前提として、いかにすれば幸せを感じる生き方ができるか、という思想。ってそんな簡単にまとめられるものではありませんが(苦笑)。

で、蛇のお話(怒りなどのネガティブ感情)やら中道、無我の概念やらに触れているうちに、以前から思っていた「出来事は出来事に過ぎない。」がココロの中にしっくりと来た感じなのです。ってブッダの教え自体は難しくてわかりませんが(苦笑)。まあ今はいいや。

とにかく「出来事は出来事に過ぎない」が、ようやく信念化してきた、という感じなのかなぁ。

あと、ここしばらく瞑想を真剣にやっています。いわゆるヨーガ系の瞑想です。
真剣に「何も考えない」状態にトリップ(笑)します。
具体的には、呼吸に意識を集中することで他のことを考えないようにする、という感じでしょうか。

ココロや体に振り回されない「ありのままの自分」を作り出すというか。
天風師が「真我」っておっしゃっている状況だと思うんですが。ブッダの言う「無我」もこれなのかなぁ???

そんなこんなで、気が付けば「認知の切り替え」が楽に、さらにはあまり頼らなくて済むようになってきている気がします。

心理学的にも説明は付きそうなんですけどね。信念(中核信念=スキーマ)の傾向が、認知の歪みの根本なわけですから、信念が「積極化(絶対的積極化)」すれば、ココロの反応である自動思考も積極化していくわけです。

あ、「絶対的積極」と「相対的積極」の概念は中村天風師の教えです。
興味のある方は自分で調べてね。書き出したらきりがないし、マチガイを書きかねない(苦笑)。

み~んな「ありのまま」。出来事も人も「ありのまま」。

ということで、ありのままにまとまりなく。。。(笑)

大きな「気づき」がありました。

2011年06月17日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
心筋症(特発性拡張型(うっ血型)心筋症)と、メンタルというか最近の精神状態の関係についてのことであります。

そもそもはここ1~2週間の話。
また例の「なんもかもヤダ。もうどうでもええ」&「なんか判らんがココロが苦しくて仕方が無いぞ?」状態が続いておりました。

でも「うつ症状」的ではない。脳はちゃんと働いてる。うつ的な憂鬱「感」ってわけでもない(原因も無くただ憂鬱っていう状態ではない、ってこと)。

なんだこりゃあ? でした。

で、火曜日のこと。
もうこのわけのわからん苦しさに耐えられんと思い、久しぶりに「セルフトーク」発動。

何それ?と言われそうですが、びっきぃが時々使う「ココロの整理法」のこと。
思いつくままに気持ちを書き出して、それに「客観的な別の自分」が質問や突っ込みを入れていく、という手法です。
「セルフカウンセリング」でもいいんですけどね。

で、自分としてはかなり大きなコトに気がついたわけです。

第一に、心筋症であるコトはもうココロの整理もついている、と思い込んでいたけれど、全然そうではなかった、ということ。

第二に、それに気づいて、初めて「真正面から」心筋症と対峙できた、ということ。

第三に、「真正面から」向かい合ってみると、これまで無意識に「心筋症であること」を非常に重く感じてしまっていた、感じすぎていた、ということに気づいたこと。

第四に、そしてそれが、日々の生活の中での精神状態に悪い影響を与えていたことに気づいたこと。
具体的には、何かあるとつい「もうどうでもええわ」という気持ちに陥ってしまうとか、何しても楽しくない、無駄、と思ってしまうとか。

そして第五に、「重さ」から自分を解放でき始めて、生きる意欲が回復しだした(ように感じる)こと。

…と、箇条書きするとなんか軽いなあ(苦笑)。

なのでちょいと補足しますね。ってきっと(いつものように)補足の方が長文になるんだろうけど…(苦笑)

ずっと自分では「(心筋症に対しては)ココロの整理はついた」と思っていました。
ですがそれは、単にいつの間にか「死の恐怖」を感じなくなってしまっていただけだった、ということに気づきました。むしろただ生死の感覚が麻痺しているだけのような気もしています。

そう思うことで、病気と真正面から向かい合うことが、初めてできました。
そこで気づいたことはたくさんありましたが、一番マズいと感じたのは、「長生きどころか定年までも生きちゃいねえだろ」なんて思い込んでしまっていた(半無意識レベル)こと。

そしてそのために、「あらゆることに対して、自分で制限をかけてしまっていた」こと。
究極的には「未来を思うこと」に制限をかけてしまっていた、「意味ねえ」と思い込んでいた、ということ。

で、自己ツッコミ。
 - 「いや、制限は“運動”だけでしょ。」
 - んで、「未来を思うこと」に制限をかけてしまって、それで?


(以下「セルフトーク」の抜粋のコピー。ちなみに色文字がもう一人の自分(笑))

「今」がつまらなくなった、気がする。
何をしても意味が無いような気持ちになる。だから「もうどうでもいい」って。
でも現実としてそんなワケにはいかない。食わなならんし。

というか、社会復帰して一年半経って落ち着いてきた中で、現実社会は「もうどうでもいい」では済まない、っていうあたりまえのコトを思い出して来た、とでも言った方がイイのかな。だから最近になって苦しくなってきたのかな。

死が怖くない(とりあえず)だけに、逆に生を大事にしなくなっている?
で、生きるモチベーションが下がってる?
で、何してもツマラナイ?

よく、「生きること、そのものを楽しめるように…」なんて哲学?を聞くけどねえ。
「ありのまま」の哲学か。そこに行き着くのかね。

 - ゴールは、探すことはともかく「見つける」必要はないんだよ。
  人生のステージごとに変化するものなんだし。
  それに「ありのまま」は生きていく「手段」でしょ。「目的」じゃない。


そう、「生きる目的」なんて誰も知らない。目的があるのかすら証明されていない。
俺は、何か目的がある、と信じているけど。

 - ホントか?本気で信じているか? (大きくて強い調子の声でした。)

う。…あれ???
ひょっとして…、
…本気じゃないから「もうどうでもいい」ってなっちゃうのか?。。。
…本気じゃないから、生を大事にしなくなってしまうのか?。。。
だから生きるモチベーションが下がって…っていうさっきのロジックに陥るのかな。

「生きる目的」がある、って本気で信じること。そうすれば一生懸命生きることができる。
できる範囲で目一杯働いて、学んで、遊んで、それを楽しみ興味を抱くこと。そうすれば毎日を充実させることができる。
その為には、最期の一瞬まで行動すること。というか、「いつ死のうが知ったことじゃねえ」と割り切って、「今」行動し続けること。かな。

これまでいろいろと学んで考えてきた哲学的なコトと、心筋症で生きて行くという現実のコトが、ようやくつながり始めた、という感じなのかなあ。
で、今日はそれに気づくタイミングだったんだろうね。「全ての物事には時がある」と。

とりあえずは今回の「気づき」を大切にして、新しく考えるのはお休みして、「行動すること」に重点をおいてみましょうか。

 - うん。良いんじゃない?
  何より、そもそも「どんなことでも楽しめる、興味を持てる」ってのが
  お前さんの特技だったんだからね。
  あの気持ちを思い出せれば大丈夫だろ。


うん。それに真正面から向き合ってみたら、「心筋症である」ってこともそんなに重いものじゃなくなってきた。
「しょうがねぇ。一緒に生きていくかぁ。ま、よろしく頼むわ。」という感じかなあ。

 - そうか。

まあね。また何かの弾みで凹むコトもあるかもしれんけど。
なるようになるだろ。


以上抜粋終わり。…って長いわ!(苦笑)。

…ということで「行動する」意欲が戻ってきました。
さーて、早速何しようかな♪ とりあえずは同僚と飲みに…。

 - そーゆー意味じゃねーだろ(怒)。
 - それに大量に薬飲んでいるんだから酒は控えろ。


ヤダ。つーか無理。絶対無理。アンタもイヤでしょ?。

 - うっ。ま、まあ適度にするのよ。。。

「愛を感じる」ことと「心ひとつの置き所」。

2011年05月20日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
…「心ひとつの置き所」なーんて言いますと。

「なんだ、“うつ”ってやっぱり気のモンなんやん。」と誤解されると困るんですが。
そういう一般論ではありません。いつも通りびっきぃ自身の個人的な状態のコトです。

脳の情報処理器官としての機能異常が、うつ“症状”のひとつ、というようなコトを以前にも書きました。
そいう機能異常がある時点では、「心の置き所」どころか、「心自体を見失っているような状態」なんですね(びっきぃの感じでは、ですが)。

それが回復してくるにつれて、現在のびっきぃの状態はというと。
「脳の情報処理器官としての機能」は、ほとんど病前の状態に戻っている。薬はまだ必要だけれど。

一方で、「心(というか感情?)」はというと、まだ不安定。
どーしても「無気力感とその元になっている喪失感や不安感、悲しみ」といったものが、何かきっかけがあれば戻ってきてしまう。
そーすると、「情報処理器官である脳」の「思考」までネガティブになってしまい、さらに心(感情)が不安定になっていく。という悪循環。

で、それをどうにかしましょう、というのが「認知療法」なわけですね。
出来事→自動思考(無意識の心の反応)→ネガティブな感情、という流れの中で、「自動思考」を「無意識の心の反応」に任せずに、コントロールしようじゃないの、という考え方です。

そして「無意識の心の反応」を「自動思考」と言うように、コントロールしてネガティブな感情が発生しない(もしくは和らげる)「意識的な思考」を「適応思考」と言います。

んで、本題(あいかわらず前置き長いって)。

現在、びっきぃの「適応思考」の根っこになっているのは「すべてのものは愛(と呼ばれる神秘的なエネルギー)でできている」であり、「この世であれ、あの世であれ、“生命は永遠”だ」という信念(信仰?)であります。信仰って言っても宗教性は全く無くむしろ哲学に近いのかもしれないですが。

この信念は、ここ数年(長くみれば10年)いろんな本を読み、考え、経験し、たどり着いた、今現在の信念です。

で、この「信念」と「適応思考」がどうつながるのか、というと、この「信念」には最近大流行りのいわゆる「引き寄せの法則」が含まれているからなんです。

あ、お若い方に敢えて申しますと、「引き寄せの法則」という言葉はともかく概念自体は遥か昔から人間社会に存在しています。
最近では「神との対話」シリーズや、少し古いとナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」、といったような書籍が山ほどありますし、紀元前の古文書からも同様の概念が見つかっているほどなのです。

つまり「引き寄せ」の究極的な対象は、「いかに幸せに生きるか」という非常につかみどころの無い哲学的なテーマだと思うんです。

んで、です。
ここで、びっきぃが最近陥っていた問題点。

「いかに幸せに生きるか」という「大きすぎる」テーマを意識することは良いとしても、それによって「現実の世俗的な願望」というものをあまりにも軽んじていたな、と気づいたのであります。

いわば「死ぬときに満足できるか」ばかり考えて、「今日、気分良く過ごすこと」を考えていなかった、というような。
…そーいえばイエス様もお釈迦様も「明日を思い煩うな」って言ってたな。。。

まあとにかく。
「今日、気分良く過ごす」ためには「世俗的な願望」を少なからず満たす必要があると、さらに思いました。

ではびっきぃが「今日、気分良く過ごす」ための「世俗的な願望」ってなに?というと。

やっぱり、人に認められたい、愛されたい。そして人を認め、愛したい、役に立つことをしたい。というコトのようです。

突き詰めれば、「自分は存在していてもいいんだ。」という自我を支える、具体的な証拠(?)が欲しい、と。
確かにごく最近になって、「ありのままの自分を自分で認める」ことの意味が判り、できるようにはなってきています。でも残念ながらまだ強固な信念にまでなっていない。

まだまだ「周囲からの承認」という「支え」が必要な段階なんだな、と。

という中で出会ったのが「ザ・パワー」という最近出た本。「ザ・シークレット」の著者の新刊です。
その中の一文に「具体的な証拠」を見つけました。

今は手元にその本が無いので引用という形は取れませんので、びっきぃの解釈を含めて説明しますと、

全てのものは愛(というエネルギー)によって創られたものである。目の前のコンピュータも、通勤に使う電車もそのモーターも電気もコンクリートも、あらゆるものは、「こういうものがあれば人々の役に立つ」という「愛」が背景にあって創造されたものだ、ということ。

もちろん、例えばライト兄弟が人類のために飛行機を創ったのか、と言えば「?」でしょう。彼らはただ「空を飛びたい」と思っていただけかもしれません。
でもその発明が今ビジネスという形をとって世界中に欠かせないものになっている、ということは、どこかに「愛というエネルギー」が働いていると思うんです。

つまり、利用者の便益になっているということは、そこに「愛」が存在する、ということです。
で、今の社会はそのお礼に金銭を払うシステムになっている、ということで。

そう思うと、「愛」によって創造されたものから便益を受けている、ということは「愛されている」ことに他ならない、と。

何も「他人」に認められなくても毎日あらゆる「愛というエネルギー」が結晶化した物事に囲まれて生きている(生かされている)じゃないか、と感じだしたのであります。

その気づきが、びっきぃにとっては「具体的な証拠」になってきました。

そして、その「愛」を感じるように意識するだけで、ネガティブな自動思考から簡単に開放されるように感じ始めました。

この「愛を感じるように意識する」ということが、中村天風師の言う「心ひとつの置き所」なのかな、と思うこのごろなのであります。

復帰後1~2年のワナ?

2011年05月09日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
メンタルの関係で最近気づいたコトです。

「良くなった」と思い込んでいて実はそれほどでもないことが結構あること。
一方で、自覚していないところで良くなっていることも結構あること、と言いますか、「自分にはこんな能力が有ったんだった。」と思い出すようなことも結構あること。

つまり、意欲や気分…と言ったような大繰りなことではなく、その中の細かいコトごとに、自分で思っている状態と実際の状態にギャップが存在していることがわかりました。

そして、復帰後1~2年くらいでそのギャップがかなり大きくなって来るってこと。

…って自分のコトを一般論的に書いているのには根拠?がありまして。
友人の主治医がそう言っていた(とその友人が言っていた)からであります。

「復帰後一年ごろというのは、自分にも“出来る(回復した)”という自信がでて来て、つい必要以上に頑張ったり、元気に振舞ったりしてしまうものだけど、実際は自覚しているレベルまでは回復(特に仕事の能力)していないもの。注意の必要な時期のひとつですよ。」というようなお話でした。

当時の私は復職直前で「そんなもんなんだなー。気をつけよ。」と思っていたのですが。
いやあ、忘れてました(苦笑)。

で、なぜ思い出したかと言うと、ちょっとここのところ「妙な(意味の無い)不安感」を感じることが多く不安定気味だったんですね。
もちろん仕事には支障の無いレベルでの話で、「何なんやろな?」程度にしか思っていなかったんです。

そこでふと先の友人(の主治医)の話を思い出して、「そう考えれば…」と納得?したのであります。

具体的には
やっとまともに仕事がこなせるようになって嬉しい(いや、本当に嬉しいコトなんですよ)もので、ハイになってしまう。
で、前述の通り必要以上(現在の実能力以上)に頑張ったり、元気に振舞ったりしてしまう。
さらには、仕事の内容によっては思っている以上にこなせたりしてさらに自信を持ってしまう。

いやね。自信を取り戻すこと自体は非常によいことだとは思います。

問題は、その自信(自分の能力に対する自覚)と実際の(現在の)実能力との間には、仕事や生活上の細かい部分ごとに“差”があるってことなんです。

確かに病気前の能力まで回復している“部分”もあります。場合によっては病気を経験したことで、過去以上の能力が身に付いたとさえ思えることもあります。

一方で、まだ過去の半分くらいしか能力が戻っていない“部分”もたくさん有るんですね。

そこに気づくことができました。

ちょっと例を挙げて補足すると、例えば野球選手。
バッティング能力は戻っているけど守備はまだまだ。そのバッティングもインコースの球を引っ張るのは良いけれど、アウトサイドの球をミートしてライト前へ流す能力はダメ。守備もゴロの処理はマシだがフライの処理は全くダメ。

…というように、細かい“部分”ごとに能力の回復程度が違う、というコトです。

んで。
その状態で何が問題かと言いますと。
「一番調子の良い(力が戻ってきている)“能力の部分”を見て、“全ての能力”が同様に回復してきている、と錯覚してしまう、というコト。

もしくは、最も調子の良い(回復している)部分を基準にしてしまい、「なぜ他のことはだめなんだ。」と凹んでしまうコト。

それによって疲労を溜めてしまったり、憂鬱になったりしてしまうコト。
逆に、思っているよりも能力が発揮できてしまって調子に乗ってしまうコト。

できることはできる。まだ十分ではないことは十分ではない。一方、予想外にできることもある。
という、そのままの現実を「観察」し続けることが大切なんでしょうね。

その時には自分の願望(もう全て良くなっているはず)を一旦横において、できるだけ客観的に見ること。

…ってそれが難しいんですが(苦笑)

とにかく、「できた」「できない」「めっちゃできた(笑)」が、まだまだ混在しているんだ、ということを自覚しておこうと思います。一喜一憂することなく、ね。

それと同様の状況にあるみなさま。
復帰1~2年後は注意時期だそうですよ~。

なんとなく苦しいこと。というか普段考えていること。というか考えてしまっていること。

2011年03月02日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
思いつくままの雑文です。

どーも楽しいことがない。つーか楽しめない
釣りにしても、最近はなんだか義務感?で行っているような(苦笑)。というか何もせずボーっとしていられないから出かける必要があって、ならば一日つぶせる釣りになっている、というところでしょうか。
とはいえそれなりに楽しい(気持ちいい)から一日海辺に居られるんだろうけどね。

オカリナも楽しんでいた、というより、当時毎日公園へ通うという生活リズム作りのための手段だったようです。
こちらも、オカリナそのものを楽しんでいたというより、「上達すること」が楽しかった?ように思うなあ。

どうも、何をするにも「~のため」という理由付けを必要とする心のクセがあるようです。
逆にいうと目的のない(ただ楽しむだけの)行動ができない、
ということでしょうか。

ところで拡張型心筋症のこと。
予後がかなり良いとはいえ、いつ再発して死ぬかもしれない病気であることは事実。
そもそもの原因が判らないんだから、どんなときに再発するかも判らないわけで。

死ぬこと自体に怖さはないが、何か生きる気合が入らない。逆に生きる気力が萎える時がある。生きることが馬鹿馬鹿しく思えてしまう時がある。うーむ。
ということは、「死」に対する本当の覚悟はまだ出来ていない、ってことなのかなあ。

一方で、人生は生きることそのものに意味がある、生きる過程、経験をしていくことに意味があるとも思っています。
その意味で、自分の心の認知の歪みにしろ、それによるうつ病にしろ、難病にしろ、それらが原因となった様々な苦しみにしろ、すべてかけがえの無い経験をしている、と思ってはいます。


で、メンタルのこと。
うつ症状(脳の異常)はほぼ回復した状態です(薬のサポートは必要だが)。
一方自分のスキーマの歪みの内容が判ってきた感覚です。しかも強い歪みのようですね。
表面的には、自己否定感、取り越し苦労の不安・焦り、根拠のない悲しみ、といったものがまだまだ振り切れない。
ま、原因が判ったからといってすぐ対応できるものでもないけどね。病気に限らず何でも。

喪失感のこと。
以前に比べればずいぶんマシにはなっている。むしろ忘れたころにふと思い出す程度。
家族(家庭)、家(住宅)、健康、スポーツ(競技)、それとまあ収入もか…
いまさら、世俗的な成功(お金持ちになるとか出世するとか)に対しては全く関心がなくなりましたが。
まあ現実問題として、もうちょっとお金は欲しいけどね(笑)。

「感情」について。
例えば「苦しみ」。
「苦しみ」は「苦しむ」から「苦しい」んだ。と思っています。
「苦しむ」ことと「苦しみを感じる」ということは違う。

それは以前、「悲しみ」を素直に「そうか、俺は悲しいんだね」とそのまま認めることで、ものすごく「安心感」を得られた経験からそう思うのです。
「悲しんでも仕方が無い」と心を抑えつけると、さらに悲しく、そして苦しくなってたことに気づきました。

自分の感情を、自分が認めてあげること。これがまず私のような認知の歪みの傾向を持った人間に必要なことなんだろうと思う。
もっとも、うつ病の極期にそんなことはできないけどね。するべきでもないだろうし。

ただ、上手く自分の「感情」を認めることができると、自分に対する「意味の無い不安」や「意味の無い焦り」が消えていく経験はありました。
さらに自分に対する絶対的な自信のようなものも感じました。それは他人と比較しての優劣ではなく、ただありのままこの世に存在していてもいいんだ、というようなもの。「自信」という言葉とはちょっとニュアンスが違うかな、と思います。

これが心に根付けばもっと楽に生きられる、そして経験からもっと多くのことを学ぶことができる、と思う。

何にせよ、もうそろそろ「少しは」穏やかに毎日を暮らせるような心の在り様をマスターしたいものです。って「本当に」毎日穏やかだったらそれはお釈迦様かイエス様たちのような悟りを拓いた人たちだよ(苦笑)。なので「少しは」です。

近づいている実感はあるんだけどね。。。(笑)

そーいえば、逆パターンもあったんだった。

2011年01月25日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)

なんの逆?

「他人の評価に依存せず、自分で自分を安心させ自信を持たせる」ということの「意味」がようやく理解できて、実践できつつある、ということを前々記事に書きましたが。

それはそれで非常に大切、というか我が人生において、ものすごく大きなターニングポイントになるだろうとすら思われるコトなのですが。

んで。

そんな状態を約一ヶ月続けて来て、心に根付き始めたかなぁ、と思っていた昨日、ハタと気づいた(思い出した)のであります。

それが「逆パターン」。

つまり、「他人からのマイナス評価に対する、過度の敏感さ」がまだまだ残っているな、と気づいたのです。

まさに表裏一体のお話。早く気づいてよかった(笑)。

自分が「過度の敏感さ」を持っていることと、その原因は以前から判っていました。
「マイナス評価」というのは、あくまでも自分の「行動」や「考え方」に対する評価であり、批判・批評なわけです。
でもそれを、自分の人格(尊厳と言ってもいい?)を否定されているように受け取ってしまう、という心のクセが原因です。

こういったコトも素直にありのまま受け容れ、反省すべきコトは反省する。但し、あくまでも「行動・考え方」に対する批判であり、自分の尊厳を責められているわけではないということを心に根付かせる必要があります。

結局のトコロ、そういう風に何でもかんでも「自分の深いトコロ」まで責められている、と思うことで(責めているのは他でもない自分自身なんですが)、どんどんココロが苦しくなっていったわけでして。

まあ、これの対策?は「練習」でしょうね。
マイナス評価・批判を受けた時に、「何に批判を受けたのか」を冷静に把握する練習です。
「どの行動のコトなのか」「どんな考え方のコトなのか」ですね。
そして、自分の尊厳を否定するような攻撃?を受けることはほとんど無い(少なくとも今の社会生活の中では)、という大前提をしっかりとココロに植えつける、と。

また、「自分に対する自信」は「自分の存在・尊厳」に関わるものであり、他人からのマイナス評価・批判は「自分の行動・考え方」に関わるもの。

そういう全く違う尺度を混乱させてしまわないように、というコトでもあります。

メンタル状態、良い感じ続いています(まぁ一応)。

2011年01月18日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
あ、みなさま明けてましたのでおめでとうございました。
…って去年も書いたな(苦笑)。

ま、それはそれとして。

最近、ずいぶんと「かつての自分」が戻ってきたように思います。
一言で言えば、以前の記事の通り「生きる気力」ってコトですね。
これが出てきてから、かつての「気合」だの「明るさ」だのといったものが少しずつ戻ってきています。

そして、何より大切なのは「自信」を持てるようになってきたこと。
実はこれは以前とは全く違うモノです。表面的には同じようですけど。

かつての自分が持ってた自信というのは、他人の評価に依存したもの。
仕事にしろ人間性にしろ、他人が認めてくれることで、自分の自信(というか“自分自身=自我?”)を支えていました。

そして、それしか自分を支える方法を知りませんでした。

今は違います。もちろん他人に良い評価をしてもらえれば当然嬉しいものですし、自信にはなりますけど、それは二次的なもの。

あくまで、「自分で自分を認める」んだ、ということの“意味”や“心の持ち様”がようやく判ってきました。
というのは、「自分を認めましょう」って、メンタル系の本には必ずと言っていいくらい書かれていますけど、その方法どころか“意味”がわかんないんですよね。他人の評価に依存して長年?生きて来て、結果疲れきってしまったびっきぃのような人間には。

つーか、「他人の評価に依存して生きている」ってコトすら自覚してない(できない)ものだし。

それがようやく判ってきました。というか「悟って来た」と言った方がイイのかもね。
物心ついてから四十年弱自分を縛り付けていた考え方、つまり自分にとっては当たり前の生き方(でも、ものすごくしんどい生き方)から、解放されてきた感じです。

直接的なきっかけは、12月ごろからの「感情を素直に感じる」ということができるようになったコト。

以前は出来なかったんですよ。
2つの病気以前はそんなこと考えたこともなく(無意識)、病気以後は、例えば「悲しみを素直に感じたりなんかすると、さらに泥沼に陥ってしまう。」という(意識的)状態で、ずっと抑圧していた、と。

まあ、病後に、意識的に感情を抑えてたのは止むを得ない状況ではありました。
「あの時期」に「感情を素直に感じる」なんてことやってたら、本当に泥沼に陥って、自暴自棄に陥ってしまって(いや、結構堕ちたか…苦笑)、取り返しのつかないことをしてたかもしれない。

なのでタイミングなんでしょうね。
自分にとって良い時期に「感じる」ことができるようになった。逆に言うと「感じる」コトが出来るようになったから、良い時期になっている、とも言えるかも。

んで、何が「良かった」かというと、「自分で自分を安心させる」コトができるようになったということ。

これは驚きでした。
例えば、「そっか、俺は悲しいんだね。辛いんだね。」と思う(心から「認める」)ことで、心の根っこ?の部分が安心し始めたんです。心の表面はやっぱり悲しいんですけど。

でも場合によっては、「悲しんでいる自分を客観的に観察している自分」を感じたりなんかして(訳わかんないコト言ってるね。苦笑)

てなことを繰り返していると、自然に「しっかしお前(自分のコト)、今日までよく頑張ったなあ。というか頑張ってるなあ。」という気持ちになったのであります。
で、以前の記事どおり、休日前夜布団の中でひたすら自分を褒め続けてみたわけであります(笑)。

そうすると。
「安心感」がバージョンアップして「自信(というか生きる気力)」になってきたわけです。

それからですねー。昔のように冗談言ったり、職場でも自分らしく働けるようになってきたのが。
気分良く(悪くなく)過ごせる時間が倍増しました。

そんな感じで約3週間経ったというトコロ。
まだまだ不安定(誰にでもある“波”ではなくて、フラフラしている、ってこと)ではありますが、一応3週間維持できてる、無理せずに、ってことがすごく嬉しい。

しばらくこの調子を維持していようと思います。
そうすれば、またそのうち一段上がる時期が自然にやって来るでしょう。

感情に苦しむ。感じる。感情を感じる。

2010年12月15日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
えー、多少酔っぱですが(久しぶり)。

最近わかったコト。

やっぱり自分の感情をありのまま受け容れていない、ってコト。

例えば「悲しみ」。
悲しみをそのまま感じるのではなく、「悲しむべきじゃない」とココロを無意識に抑えつけていたこと。

だから「悲しい」ではなくて「苦しい」になってたコト。

「悲しい」を素直に悲しいと感じるコトで、自分のココロが安心するコト。

感情を抑えつけることで自分を苦しめていたコト。

素直に感じるコトで、悲しまずに悲しむコトすらできるってコト。。。

人間のココロって不思議なモノです。

てゆーか、それは「適応思考」とちゃうやん。

2010年12月08日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
前記事への自己ツッコミです。読み返してちょっと考えて思いました。

> んで何が問題かというと。
> この「(びっきぃ流)プチ認知療法」に慣れてきてしまうと、嫌な気分になり「そう」という段階で「適応思考」を探して、本来の自然な感情を抑え付けてしまう場合がある、ということ。

いや、あのね。
そもそも感情を抑えつけなくてすむ考え方のことを「適応思考」と言うのであって。

…ま、いいや。これからこれから。

それよりも、「感情をありのままに感じる」ことをまず意識しないとね。ワタシの場合。
そんなフツーのことが出来ない(知らない)ままこの歳、というかココロが壊れるまで生きてきたわけでして。

感情を感じる、というのは自分を大切にすること。
自分を大切にするというのは、表面的なことではなく、自分の存在とか尊厳?とかいう本質的なものを「無条件に自分が認められる」ようになること。

ずーっと、周りの評価だけで自分が出来上がってた状態だったからね(あ、まだ進行形でもあるか、苦笑)。
で、評価されるためにあらゆることに完全を期したい、でもそんなの無理だから、とにかく批判されないよう限界まで頑張る。
というか、ワタシみたいなタイプの人間は、ココロに「限界」があるなんて考えもしなかったわけだし。
「大したことじゃない、もっと頑張れるはず。」
んで、「よくやったな」って自分を褒めるどころか、「まだまだやな、もっともっと上手いことやれたで」とハッパをかける。

そーゆー自分を縛り付けている思考(これはもう中核信念=スキーマだね)から、自分を解放していくことが、これからの目標です。
それはきっと、ゴールの無い目標なんでしょうね。でもそれだから(ってどれだから?)生きていけるのかもね。

…てなことでここ2~3日すごしているんですが、なんか気分が安定している感じ。
自分で自分の感情を、まずはそのまま認めてあげることで、自分自身が安心しているよーな。

なんか、自分の中に2つの存在があるみたい(笑)。
一つは感情を生み出したり体動かしたりする、いわば計算機(演算機?)としての脳。
もう一つは、その計算機を制御している良くわからない実体。現れたり消えたり。

でもこの良くわからない実体が本質的な自分自身のような気がするなあ。

…って、何のハナシだったっけ(苦笑)。
それに、メンタル異常の経験のあるヒトじゃないと、何を言っているのか判らんかもねえ(苦笑)。
「感情を感じる」だの、「自分を大切にする」だの…(苦笑)。

認知療法のワナ?

2010年11月29日 | 徒然雑草(うつ病・拡張型心筋症のこと)
決して一般論ではありません。
あくまで私自身のハナシです。

認知療法って何よ?…というお話はブログの記事で書ける量ではありませんし、私も専門家ではございませんので、詳しくは書きません。
とにかく、出来事をどう感じるかには個人差があるわけで、その差は、「出来事→その人なりの感じ方→感情」という仕組みになっているからだそうです。

この「その人なりの感じ方」を「認知」と言うわけですが、思考パターンとか砕けた言い方もできます。その人の基本的な性格・価値観といったもの(スキーマ=中核信念)に影響を受けています。

んで。
嫌な感情が湧いてきた時など、「何が起こって→どう考えて(自動的に湧いてきた思考)→どんな気持ちになったか」、を分析(紙に書き出す、とか)して、自動的に湧いてきた思考(自動思考と言います)=そのときの認知、とそれによって起こった感情を把握します。

で、他の考え方は無いかな、とブレーンストーミング的に探します。
その結果、「こう考えれば(こう出来事を捉えれば)」嫌な気持ちにならなくてすむ、という「考え方」が見つかれば、自動思考をその思考(適応思考と言います)に置き換えます。

これはそもそもの「認知の傾向が歪んでいる」人の為のものです。
なんでもネガティブに見てしまうとか、取り越し苦労のクセがあるとか、たくさんあります。
その原因もたくさんありますが。
この「認知の歪み」が、うつ病患者など精神疾患の人に多く見られるということで、認知療法は治療に取り入れられたりしています。

んで、私は復職支援センター時代にこの認知療法に取り組み、今ではいちいち紙に書き出さなくても、とりあえず認知の切り替えができるようになりました。
これがときどき出てくる「びっきぃ流プチ認知療法」なんですが…。

いやあ、「慣れ」ってコワイもので。
この「プチ認知療法」にコワイ落とし穴があることに気づきました。
というか「すでに落ちている」コトに気づきました(苦笑)。

あ、繰り返しますがあくまで私個人のハナシですから。認知療法の一般論ではありません。

んで何が問題かというと。
この「プチ認知療法」に慣れてきてしまうと、嫌な気分になり「そう」という段階で「適応思考」を探して、本来の自然な感情を抑え付けてしまう場合がある、ということ。

つまり本来ならば、「嫌な気分」になってから、その理由は?他に考え方は?という段取り(?)を追うことで意味があるわけなんですが、途中を端折ってしまっている、と。

例えば、誰かの話にカチンと来た場合。
(この例の場合、客観的に見てカチンとする必要も無い話なのに、という状況と思ってください。「認知の歪み」を持っているが故にカチンと来てしまっていると。)

本来なら、「何を言うねん。ムカつくわぁ。」と自動的に怒りを感じてから、「まあまあ、奴も○○なのかもしれないよ。他にも…」ってな適応思考を考え出して、怒りを抑えていく(自分を納得させる)、というのがスタイル。
で、そういうことを繰り返すことで、基本的な認知の歪みを直していきましょう、と。

ところが最近のびっきぃ。
カチンと来た瞬間に自動思考を追い払って、適応思考に置き換えてしまっています。
これは認知の歪みが治ったのではなく、適応思考の作り方が上手くなった(?)だけ。
だって、一瞬「カチン」と来ているわけですから。

自動思考による感情(この場合は「怒り」ですね)は一旦しっかり感じて、自分でその感情を受け入れた上で、適応思考を考えなくてはなりません。
なぜなら、「自動的な適応思考(ややこしいな)」では、かつて感情を抑圧していた頃と、本質的に同じだからです。

かつては「怒り」を感じても、それを表現できずただ我慢した。
今は「適応思考」という理屈で抑え付けている。

自分の認知の傾向の結果である「怒り」を、自分で認めず受け入れていない、つまり「抑圧している」ということでは同じだと。

日々の出来事に対する「対応法」としてはそれでいいかもしれないけど、本質的に自分の感じ方を改善しようと思ったら、それではダメですねえ。というか逆効果。
まず、自分で自分を認めるコト(精神疾患の人間にはものすごく深~い意味があります)がすべての始まりですからねー。

というコトに気づいた最近なのでした。
うつ病治療の基本中の基本である、「まず自分を認めること。」に逆行してしまっているぞ、と思ったのであります。

それで最近調子悪かったのかな…。

って、結局仲間内にしかわからん話になってしまったような。まいっか(苦笑)。