思いつくままの雑文です。
どーも楽しいことがない。つーか楽しめない。
釣りにしても、最近はなんだか義務感?で行っているような(苦笑)。というか何もせずボーっとしていられないから出かける必要があって、ならば一日つぶせる釣りになっている、というところでしょうか。
とはいえそれなりに楽しい(気持ちいい)から一日海辺に居られるんだろうけどね。
オカリナも楽しんでいた、というより、当時毎日公園へ通うという生活リズム作りのための手段だったようです。
こちらも、オカリナそのものを楽しんでいたというより、「上達すること」が楽しかった?ように思うなあ。
どうも、何をするにも「~のため」という理由付けを必要とする心のクセがあるようです。
逆にいうと目的のない(ただ楽しむだけの)行動ができない、ということでしょうか。
ところで拡張型心筋症のこと。
予後がかなり良いとはいえ、いつ再発して死ぬかもしれない病気であることは事実。
そもそもの原因が判らないんだから、どんなときに再発するかも判らないわけで。
死ぬこと自体に怖さはないが、何か生きる気合が入らない。逆に生きる気力が萎える時がある。生きることが馬鹿馬鹿しく思えてしまう時がある。うーむ。
ということは、「死」に対する本当の覚悟はまだ出来ていない、ってことなのかなあ。
一方で、人生は生きることそのものに意味がある、生きる過程、経験をしていくことに意味があるとも思っています。
その意味で、自分の心の認知の歪みにしろ、それによるうつ病にしろ、難病にしろ、それらが原因となった様々な苦しみにしろ、すべてかけがえの無い経験をしている、と思ってはいます。
で、メンタルのこと。
うつ症状(脳の異常)はほぼ回復した状態です(薬のサポートは必要だが)。
一方自分のスキーマの歪みの内容が判ってきた感覚です。しかも強い歪みのようですね。
表面的には、自己否定感、取り越し苦労の不安・焦り、根拠のない悲しみ、といったものがまだまだ振り切れない。
ま、原因が判ったからといってすぐ対応できるものでもないけどね。病気に限らず何でも。
喪失感のこと。
以前に比べればずいぶんマシにはなっている。むしろ忘れたころにふと思い出す程度。
家族(家庭)、家(住宅)、健康、スポーツ(競技)、それとまあ収入もか…
いまさら、世俗的な成功(お金持ちになるとか出世するとか)に対しては全く関心がなくなりましたが。
まあ現実問題として、もうちょっとお金は欲しいけどね(笑)。
「感情」について。
例えば「苦しみ」。
「苦しみ」は「苦しむ」から「苦しい」んだ。と思っています。
「苦しむ」ことと「苦しみを感じる」ということは違う。
それは以前、「悲しみ」を素直に「そうか、俺は悲しいんだね」とそのまま認めることで、ものすごく「安心感」を得られた経験からそう思うのです。
「悲しんでも仕方が無い」と心を抑えつけると、さらに悲しく、そして苦しくなってたことに気づきました。
自分の感情を、自分が認めてあげること。これがまず私のような認知の歪みの傾向を持った人間に必要なことなんだろうと思う。
もっとも、うつ病の極期にそんなことはできないけどね。するべきでもないだろうし。
ただ、上手く自分の「感情」を認めることができると、自分に対する「意味の無い不安」や「意味の無い焦り」が消えていく経験はありました。
さらに自分に対する絶対的な自信のようなものも感じました。それは他人と比較しての優劣ではなく、ただありのままこの世に存在していてもいいんだ、というようなもの。「自信」という言葉とはちょっとニュアンスが違うかな、と思います。
これが心に根付けばもっと楽に生きられる、そして経験からもっと多くのことを学ぶことができる、と思う。
何にせよ、もうそろそろ「少しは」穏やかに毎日を暮らせるような心の在り様をマスターしたいものです。って「本当に」毎日穏やかだったらそれはお釈迦様かイエス様たちのような悟りを拓いた人たちだよ(苦笑)。なので「少しは」です。
近づいている実感はあるんだけどね。。。(笑)
どーも楽しいことがない。つーか楽しめない。
釣りにしても、最近はなんだか義務感?で行っているような(苦笑)。というか何もせずボーっとしていられないから出かける必要があって、ならば一日つぶせる釣りになっている、というところでしょうか。
とはいえそれなりに楽しい(気持ちいい)から一日海辺に居られるんだろうけどね。
オカリナも楽しんでいた、というより、当時毎日公園へ通うという生活リズム作りのための手段だったようです。
こちらも、オカリナそのものを楽しんでいたというより、「上達すること」が楽しかった?ように思うなあ。
どうも、何をするにも「~のため」という理由付けを必要とする心のクセがあるようです。
逆にいうと目的のない(ただ楽しむだけの)行動ができない、ということでしょうか。
ところで拡張型心筋症のこと。
予後がかなり良いとはいえ、いつ再発して死ぬかもしれない病気であることは事実。
そもそもの原因が判らないんだから、どんなときに再発するかも判らないわけで。
死ぬこと自体に怖さはないが、何か生きる気合が入らない。逆に生きる気力が萎える時がある。生きることが馬鹿馬鹿しく思えてしまう時がある。うーむ。
ということは、「死」に対する本当の覚悟はまだ出来ていない、ってことなのかなあ。
一方で、人生は生きることそのものに意味がある、生きる過程、経験をしていくことに意味があるとも思っています。
その意味で、自分の心の認知の歪みにしろ、それによるうつ病にしろ、難病にしろ、それらが原因となった様々な苦しみにしろ、すべてかけがえの無い経験をしている、と思ってはいます。
で、メンタルのこと。
うつ症状(脳の異常)はほぼ回復した状態です(薬のサポートは必要だが)。
一方自分のスキーマの歪みの内容が判ってきた感覚です。しかも強い歪みのようですね。
表面的には、自己否定感、取り越し苦労の不安・焦り、根拠のない悲しみ、といったものがまだまだ振り切れない。
ま、原因が判ったからといってすぐ対応できるものでもないけどね。病気に限らず何でも。
喪失感のこと。
以前に比べればずいぶんマシにはなっている。むしろ忘れたころにふと思い出す程度。
家族(家庭)、家(住宅)、健康、スポーツ(競技)、それとまあ収入もか…
いまさら、世俗的な成功(お金持ちになるとか出世するとか)に対しては全く関心がなくなりましたが。
まあ現実問題として、もうちょっとお金は欲しいけどね(笑)。
「感情」について。
例えば「苦しみ」。
「苦しみ」は「苦しむ」から「苦しい」んだ。と思っています。
「苦しむ」ことと「苦しみを感じる」ということは違う。
それは以前、「悲しみ」を素直に「そうか、俺は悲しいんだね」とそのまま認めることで、ものすごく「安心感」を得られた経験からそう思うのです。
「悲しんでも仕方が無い」と心を抑えつけると、さらに悲しく、そして苦しくなってたことに気づきました。
自分の感情を、自分が認めてあげること。これがまず私のような認知の歪みの傾向を持った人間に必要なことなんだろうと思う。
もっとも、うつ病の極期にそんなことはできないけどね。するべきでもないだろうし。
ただ、上手く自分の「感情」を認めることができると、自分に対する「意味の無い不安」や「意味の無い焦り」が消えていく経験はありました。
さらに自分に対する絶対的な自信のようなものも感じました。それは他人と比較しての優劣ではなく、ただありのままこの世に存在していてもいいんだ、というようなもの。「自信」という言葉とはちょっとニュアンスが違うかな、と思います。
これが心に根付けばもっと楽に生きられる、そして経験からもっと多くのことを学ぶことができる、と思う。
何にせよ、もうそろそろ「少しは」穏やかに毎日を暮らせるような心の在り様をマスターしたいものです。って「本当に」毎日穏やかだったらそれはお釈迦様かイエス様たちのような悟りを拓いた人たちだよ(苦笑)。なので「少しは」です。
近づいている実感はあるんだけどね。。。(笑)
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