TBいただいたエントリを中心に、時々覗かせてもらうブログの記事をまとめて読んだ。時には自分は少し考え方が違うと思うものもあるが、いずれにせよモノを考えていく手掛かりを得られる記事ばかり。知識だけでなく視点を含めて新しいことを教わる場合も多々で、なるほどなぁ、といつも感心しながら読む。他者が考えていることを聞く(読む)のは、ほんとうにおもしろい(※)。
※訪れて下さった方へ。TBエントリの中で未読のものがあれば、ぜひご一読を。私はコメントは基本的に削除しない方針だし、TBもあまり削除しない(ただし、あまりに場違いなものや、読んで私自身が全然おもしろくなかったものなどは削除する。むろんおもしろさの基準は私が同意できるかどうかではない。意見が違っても、考えさせられたものは残す)。もっともきちんと読めない日も多いので(だいたい、PC立ち上げてもやるのはメールチェックだけ、という日も少なくない)、何だこりゃ的なTBを何日も放りっぱなしにしていた、などということもよくあるのだが……そのあたりはまぁ御容赦のほど。
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今夜は「反戦老年委員会」ましまさんの『集団的自衛権の幻想』というエントリを紹介して、簡単な感想などをメモしておく。本当は紹介したいものはたくさんある。自分の記事書いてるより、おもしろいエントリをできるだけ多く紹介したほうが役立つぐらいなのだけれど。
同エントリは、【そもそも「集団的自衛権」という言葉ができたのは、「国連憲章」をつくった時である。どういう意味かということは、後に述べることにして、この権利が本来の意味で行使されたことは、私の記憶する限り一度もない。いま問題なのは、本来の意味からはずれて、たとえば、日米同盟を相互防衛条約化するための虚飾の道具に使われようとしていることである。】という書き出しで始まる。
そして【戦争とは、ほとんどすべての場合「自衛のためやむをえず」開始されるものだ。】と続き、国連憲章では「あらゆる武力行使は違法、という大原則が打立てられ、自衛でさえ武力行使を認めていないことを明快に述べる。
【その上で、国連による集団的安全保障措置がとられるまでの間、緊急措置として個別の自衛権を行使するのはやむをえない、という例外規定が各国間の調整の中で生まれてきた。そこへ「集団的自衛権」という概念を持ち込んだのがアメリカである。】
もともとは中南米諸国が侵略に備えて共同で防衛しようという発想で生まれた概念だったものを、アメリカはとんでもない「拡大解釈」をおこなった。
【世界で飛び抜けた軍事力を持つ最強国と、戦力不保持をうたった憲法を持つ日本というアンバランスな2国間の組み合わせが、果たして「集団」と言えるだろうか】と、ましまさんは苦い口調(という感じ)で語る。そうです、集団ではありませんね。
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圧倒的な武力を背景にした大国のごり押しさえ、「自衛」と解釈する倒錯した世界。たとえは悪いが、マンションの一室に事務所を構えたヤクザ組織が、「住民が団結してしまうと追い出されるから」と言って、そうなる前に先手を取って住民を脅し、放っておくと面倒になりそうな住民を追い出す――それもヤクザの側からしてみれば、立派な自衛だろう。内部告発しようとしている社員に圧力をかけるのも、会社の側からすれば自衛なのだろう。強者の自衛、というのもあるのだ。
その「強者の自衛」(何と矛盾した言葉!)への参加を日本は強制されている。いや、日本の為政者達は、それに喜んで参加しようとしている。強きを助け、弱きをくじくなんて最もみっともないことのはずなのだが……。