華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

そうなのだ、「悲観することはない」

2007-04-02 23:55:32 | 現政権を忌避する/政治家・政党

  

 一昨日、「沖縄戦集団自決は軍の強制ではなかった!?」という記事を書いた。高校教科書の検定で集団自決の記述にマッタがかけられ、削られたり修正された――というニュースに関する簡単なメモである。この問題については多くのブロガーが書いておられ、私がさらに付け加えて言うことは何もないのだが、そのエントリに対してなめぴょんさんがいいコメントを下さったので今夜はそれを紹介しておこうと思う。

【自分で考えようとする心を持ってればこんなわかりやすすぎる小細工にはだまされない。(略)集団自決そのものが教科書からなくなったわけじゃない。「集団自決に追い込まれた人々もいた」。この記述だけでも「何が人々を追いつめたのか」はじゅうぶん想像できるはずです。世の中、クラスの中の「空気」がどれだけ重く行動を縛るものか思い知っている者ならなおさら。必要以上に悲観することはないのだと思います。世の中バカなようでそんなにバカじゃない。】

 上記はコメントのほんの一部。詳しくは3月31日のエントリのコメント欄を見ていただければよいのだが、ともかくこのコメントで私は少し元気が出た。ありがとう、なめぴょんさん。

 そうなのだ……いくら権力側が姑息に規制しても、そこから見えてくるものがある。私達はそれを大切にして、伝えていきたいと思う。

 そして「これを言っちゃダメ、こんな表現はダメ」と言われても、私達はその締め付けをかいくぐって物事を、思想を伝えていくことは出来る。突然思い出したが、以前、「言葉への規制は言葉で破る」という記事を書いたことがあった(書いたはずだよな、と思って探したら、何ともう1年も前の話でありました)。内容をかいつまんで言うと、「憲法違反のアメリカ追従イラク派兵に反対し、即時撤退を求めます」という意見広告を新聞に出そうとしたところ、広告での審査で憲法違反という表現がひっかかった。それで「憲法を踏みにじるアメリカ追従の……」という表現に変えて、掲載したという。

 同エントリの最後の部分を、引用・再掲しておく。

【言論の統制・封殺にはまだまだ穴があるということだ。人によっては楽天的すぎると思われるかも知れないが、幸いにもまだ、国家総動員法の下、精神総動員運動が展開された頃の状況にまでは至っていない(規制する側も、やや人目を気にしているところが窺える)。だからまだ、網目をくぐったり逆手にとったりする余地は充分にある。アレは駄目、コレは駄目と規制されれば、「なら、これはどうよ?」と突きつけていくことができる。言葉には理論の裏打ちが欠かせないが、それを根っこの部分で支えるのは感性(この字を書くたびに、ほんとに恥ずかしい……のだけれども)だと私は思っている。そして感性は、無限に言葉を創造していくことができる。「戦前」を感じさせる世の中になってきたが、しかしまだ間に合う。ガンジガラメになってしまう前に、私は1つでも多く「抵抗の言葉」を探し、共有していきたいと思う。】

 私の現在の思いは、これに尽きる。……負けるものか。

◇◇◇◇◇

 都知事選で、浅野候補を支持しています。都民の一人として、これはある意味であやういほどのギリギリの選択。自分の中では、現都政にピリオドを打つのが最大の課題だと思うからです。

 ただ、だからといって、「吉田さんは出馬を取り止め、浅野さんに統一すべき」などとは毛頭思わない。んな、アホな。吉田さんの方が先に出馬表明したのだから降りろなんて失礼だとか、そういう話では無論ない。吉田候補に出馬取り止めを迫るのは、思想信条の封殺である(もっとも、逆も同じ)。

 現都政にピリオドを打ちたいと思う都民は多いが、その思いは個々の体験や生活感覚や仕事上の息苦しさや思想信条その他によって、相当グラデーションがある。あって当然であり、そのグラデーションと(それを容認するかどうかは別として)出来る限り真摯に向き合いたい。たとえ歩く道は違っても、いつの日にか、共に夢見た地平に達することができると私は信じる。いや、信じたいと思う。それを信じなければ、私はすべてを失った者のように荒野に立ち尽くすほかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする