華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

犠牲にされる側

2006-01-18 00:34:14 | 格差社会/分断・対立の連鎖
少し前のニュースになるが、今月10日、ブッシュ大統領がイラク問題に関する演説の中で「2006年はより厳しい戦いと、さらなる犠牲が予想される」と述べ、「勝利に向けた一層の前進が見られるだろう」とも付け加えたそうである。ブッシュ大統領の「戦争中毒」ぶりは前々からよく知られているところ。今さら何を聞いても驚かないが、「犠牲」という言葉が出てくるたびにやはり神経のどこかに痛みが走る。

――あなたが一人で力み返って、自分一人が犠牲になるというなら、それはかまいませんよ。勝手にして下さい(むろん、他の誰にも迷惑のかからないやり方で、犠牲とやらになって欲しいものですが)。しかし、「犠牲になる」のはあなたではない。――

「貴い犠牲」とか「○○を実現するためには犠牲がつきもの」などと平然と言うのは、常に犠牲を強いる側である。犠牲にされる側は、「何でこんな目に……」と髪をかきむしりながら殺されてゆく。もちろん、貴い犠牲なるものを信じさせる方向への巧みな誘導が存在するわけで、それを信じて死んでいく人々もいるのだが……。しかし、繰り返して言う。犠牲を讃えるのは(犠牲を賛美し始めるのは)いつも命令する側、人を駒のように動かす側、自分は傷つかずにいられる側の人間である。

犠牲、などいう言葉は聞きたくない。人が、人の生活が、人の生きている場所が、何ものかの生け贄になることなどあってはならない。



コメント (5)
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