ルーマニア語では、Sibiu (シビウ)、ドイツ語では Hermannstadt (ヘルマンシュタット)と呼ばれる
ルーマニアで3番目に大きな町であり、歴史的に重要な町であった。 この町では1910年以前には、ドイツ
人がマジョリティを持っていたため、ドイツ語の方が一般的だったことだろう。
1910年の調べでは、町の全人口33,500人に対して、ドイツ人が 16,800人で約半分を占めていた。
(ハンガリー人は 7,250人、ルーマニア人は 8,800人であった)
2002年になると、全人口は 155,000人と約5倍に膨れ上がり、逆にハンガリー人は 3,000人、ドイツ人
は 2,500人と減ってしまった。
1192年、ハンガリー王ゲーザⅡ世の植民地時代に、町は Cipin という名で、東ドイツ地方のザクセン人
によって設立された。 15~16世紀に造った堅固な防御壁と40あまりの砦によって、オスマン・トルコ軍の
襲撃から町を死守した。 結局、町は陥落することはなかったが、1556年の戦火によって壊滅状態となった。
すぐに復興を遂げ、16世紀には、ここはトランシルバニアのカルヴィン派の総本山となった。
その後、タタール人からの襲撃による町の破壊(1658年)やオスマン・トルコ、オーストリア帝国(ハプスブルグ)
との確執があったが、17世紀にはルーマニア正教会が許可されるや、ルーマニア人がどんどん増える一方、
ドイツ人、ハンガリー人は祖国へ移住して激減していった。 1849~1865年にはトランシルバニア公国の
首都になった時代もあった。 その後は第1次世界大戦後のトリアノン条約で、ルーマニア王国に取り込まれた。
2007年には欧州文化首都に選ばれたほどの歴史の町である。
大広場のブルケンタール邸(左)と市役所(右) 大広場の夜を彩る噴水
「嘘つき橋」(1859年建造)
橋の上で嘘をつくと、橋が壊れるという言い伝えは有名。 「嘘つき橋」の上から下町を眺める。
時計塔(13~14世紀建立) 人の目のような屋根の窓がユニーク(多く見かける)
<百八十七番札所; Nagyszeben evangélikus (ナジセベン ルター派)大聖堂>
教会は、最初12世紀末にザクセン人によって修道院が創立された。 引き続き13世紀にかけて
ロマネスク様式の3層内陣、バジリカタイプの教会が建立された。
14世紀半ばに、古い教会を壊して、ゴシック様式で再建すると共に、西側に塔を増築した。
1424年には、修道院を閉鎖。 1448~1460年に第2期工事として、西側ホールを増築、
1471~1520年に第3期工事として、塔を高くし(70m)、四隅に子供の塔を配した大聖堂(司教座を
置く)となった。
1445年に、内陣の北側に、Rozsnyi János がカルヴィン派を象徴する壁画を描く。(必見)
1885年にカルヴィン派からルター派の大聖堂に改築され、現在に至る。
南からの大聖堂 ゴシック特有のトレーサリー(細長い)窓が美しい。
西門 南門(ゴシック様式)
西側からの教会外観
東側(祭壇側) 内陣北側の壁画(カタログより)
今回で、トランシルバニア (Erdély) のカロタ地方にあるハンガリー人が使っていた教会を巡る旅
を終了します。 この旅の最後は、ハンガリー教会の総本山 Brassó (ブラショー)を含めたセイケ地方
をと思っているが、いつになることやら。 そこには、まだまだ数えきれないほどの美しい「いにしえ」を
残した古刹(教会)が存在する筈である。 しかし、ハンガリー国の一部であった時代から、もう1世紀の
歳月が流れようとしている。 どこまでハンガリーが残っているのか興味深いところであるが、日本が抱える
「北方領土」「尖閣諸島」「竹島」問題よりも複雑さはないように思えるのは自分だけだろうか。