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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

コタ.インドネシア(36)サマリンダ イルカ 古代王国

2020-08-25 06:13:44 | 2012・1・1

東カリマンタンの大河の一つ、マハカム川の河口から60㌔ほどの人口70万人の港町である。川には白いイルカが飛び交い町の各地にイルカの像が建ちシンボルだ。先の戦争末期、昭和20年6月、バリックパパンに逆上陸した連合軍は100㌔ほど奥地のサマリンダへ敗走する日本軍との間で激しい戦闘となった。バリックパパンからサマリンダまでの密林の中の道は”死のサマリンダ街道”と当時呼ばれたが、幸いサマリンダ市内には戦火は及ばなかった。

サマリンダの50㌔ほどマハカム上流に4-5世紀、この地に栄えたクタイ王国の都、テンガロンの遺跡がある。今ではサマリンダから観光船に乘って名物のロブスターを楽しめるが、戦争末期には遺跡周辺も戦場となり、マハカム川の流域のジャングルの地に戦後、戦友会が建てた慰霊碑が忘れられたように残されている。(参照)カリマンタンの慰霊碑については「大東亜戦争とインドネシア」(朱鳥社2002年加藤裕)

 

 

 


心配な東京の病院でのクラスタ―

2020-08-24 07:05:23 | 2012・1・1

講読紙の朝刊(24日付首都圏版)のコロナ.ウィルス感染の扱いをみたら社会面に「都内の感染者212人、重症者39人」と三段見出しであった。ピーク時を過ぎたという政府判断を受けてなのか、僕には少し扱いが小さく思えるのだが。

記事は東京での新規感染者数が4日続けて200台と書いているが、東京ではすでに300台、400台を記録してる。それより僕が注目、心配したのは足立区のコロナ.ウィルス感染治療指定病院で高齢入院者6人と職員1一人合計7人がクラスタ―発生していいるることだ。この病院では7月にも別の感染経路で入院した患者がPCR検査で一度は陰性と判断されながら再検査で陽性と診断されている。

僕には不思議に思えるのは、このクラスタ―の発表が東京都とは別に足立区でもされていることだ。PCR検査の方法をめぐって各区ごとに違いがあるみたいだが、医療態勢連携は大丈夫なのだろか。


コタコタ.インドネシア(35)バリック.パパン 慰霊碑

2020-08-23 05:37:04 | 2012・1・1

ボルネオ島東岸の東カリマンタン州の首都である。名前のバリック(balik)は背後、パパン(papan)は材木という意。もとは原住民ブギス族の小さな漁港であった。1892年に石油の精製が始まり、今では石油、鉱物資源、材木などの輸出港として人口70万の大都会である。

石油をめぐる先の戦争では昭和17年(1942年)1月,開戦と同時に日本軍によって占領されたが、20年6月戦況の悪化とともにオーストラリア軍を主体とする連合軍が逆上陸、戦力の違いから日本軍は内陸部のサマリンンダへ向けて敗退、1万人近くの犠牲者が出ている。サマリンダへの敗退路は”死の街道”と呼ばれ、街道筋には戦後遺族たちが建てた慰霊碑が数多く建っている。

空港近くのマンガㇽ海岸は戦後、連合軍BC級裁判での処刑地であり、復員までの間の収容所があった場所だ。「南方方面戦没者慰霊碑」が建っている。

 


発症ピーク時すぎたというが

2020-08-22 07:45:21 | 2012・1・1

昨日開かれた政府のコロナ.ウィルス対策分科会で感染状況について全屋的にみるとピークに達したと分析いた。しかし、素人の僕にはそんな印象はないし、この時期あえて公表する意味があるのだろうか.。分科会によると、今回の感染の波のピーク時は7月27日から30日であったという.。

個人的な話で恐縮だが、ピーク時の28、29日、僕は国立病院でMRI検査をし、リハビリで介護施設にも通園しているが、ピーク時であった気はしなかった。西村康稔経済再生相は“第二波”という定義はないといっていたが、それなのにピーク時というのも変な話だ。

ピーク時が過ぎたといって大丈夫なのだろうか。昨日も東京でで258人、大阪で166人、愛知で90人と大都市中心に新規感染者増加している。お隣の韓国でも鎮静化していたのが、ここへきてぶりかえしてきたという。状況分析はよいが、国民的発言はやはり、慎重であらまほしきかなである。


コロナ対策会議が文科会で担当大臣が経済担当相なのか

2020-08-21 13:22:21 | 2012・1・1

政府のコロナ.ウィルスウィルス対策に関する”分科会”会議が21日開かれえい、西村康稔経済再生大臣からワクチンの接種順位について意見が交換されたとテレビが放送していた。前から思っているのだが、コロナ対策会議が何故、国家関心事なのに文科会なのか。コロナた策が主題なのに経済再生大臣の呼称で呼ばれるのか。

同じことが東京都でもいる。実質的にはコロナ対策なのにモニター会議と呼び現状分析だとしている。日本語の表現もおかしい。都では感染評価を4段階に分け、今は最高レベルの拡大しているだが、一段階下は拡大しつつあるである。同じよでわからない。 

分科会前の専門家会議当時の議事録がノリ弁のように黒くぬりつぶされて民放テレビが公開していた。ぬりつぶすのも、これを公開するのも意味あるのか。

 

 

  


コタコタ.インドネシア(34)バンジャルマシン ボルネオのベニス

2020-08-21 09:35:35 | 2012・1・1

南カリマンタン(ボルネオ島)の中心都市である。バルト河の河口から22㌔遡上した港町だ。町の中はバルト河の支流が運河のように流れボルネオのベニスである。町の四分の一は沼地だが、各地に水辺にそって水上マーケットがあり、市民の台所であり観光の名所となっている。

わが国との関係は古くすでに19世紀末には日本のの商社が蘭印政府から土地を借りゴム園を経営している。先の戦争中は海軍民生部が置かれカリマンタン全域の軍政を統括していたが、最大の汚点と言われるハガ事件が起きている。抑留中だったハガっ蘭印総督が反日暴動を企てたとして逮捕された。これがきっかけで、ポンチアナの大虐殺を引きおこしている。

近くを流れるリアム.カナン川に建設されたダム、水力発電所は日本のODA、政府開発援助の先駆けともいわれ地元の住民に喜ばれている

 

 

 

 

 

 

 


コロナ.ウィルス定義はなくとも”第二波”ではないのか

2020-08-20 06:19:25 | 2012・1・1

日本感染症学会の学術講演会で額田一博理事長が冒頭演説でコロナ.ウィルス感染について”今はまさに第二波のまっ只中にいる”との見解を述べた。これに対して西村康稔経済再生相が記者会見で”定義があるわけではない”語った。西村大臣は同じ会見で、現状が大きな波と言っており、あえて大臣が”第二波”の定義に触れる必要があるのだろうか。

昨日も東京で186人の新規感染者が出た。今月初めの300人―400人台に比べれば減少しているが、緊急事態宣言閉鎖時と比べるとはるかに高い。テレビの画面の棒グラフをみれば一目瞭然、僕のような素人がみても、感染の新しい波”第二波が今押し寄せてきているのはわかる。

ゲスの推察かもしれないが、政府は”第二波”という言葉を使いたくないようだ。緊急事態宣言は地域をめぐってドタドタがみられたし発令から終結までの時期あれでよかったのか。プリンセス.ダイヤモンド号当時の武漢ウィルスとは誰がみても違うように見える。大阪の新規感染者数が東京を越えた。感染者の年齢も層も異なるみたいだ。

政府に悪口をついたついでに学者先生にも。コロナ.ウィルス”第二波ま最中の今、学術講演会を開催する時期なのだろか。


人生万歳 91歳女性の新聞ちぎり絵

2020-08-19 06:01:17 | 2012・1・1

このところの連日の猛暑、それでなくともコロナ.ウィルスでいい加減心身共に参っている。冷房の効いた部屋に閉じこもりこまめに水を飲みながらテレビをみるという無為の生活だ。それを心配してか、昨日同じ屋根の下に住む娘が「90歳セツの新聞ちぎり絵」という本を貸してくれた。

著者の木村セツさんは昭和4生まれ、僕より2年学年が上の方だが、2年前夫君に先立てられ、そのあと長女の勧めで2019年元旦から新聞紙を使ったちぎり絵を始めた。これを孫の方がPCのツイッターで紹介したところ精緻でユーモラスの作品が人気を呼び、フォロー数は3万人以上に上っているという。

まったく絵心がない僕にとってはちぎり絵は別世界だが、木村さんの戦中戦後の過酷な半生を知り驚いた。昭和18年から20年にかけて木村さんは8人兄弟姉妹のうち4人も戦病死、結核で亡くされている。彼女自身も女学生時代、軍需工場へ動員されている。勝つまでは何事もお預けの時代、趣味など許せなかった。今はその点平和な良い時代だ。僕もそうだが、人生ゴールに近ずいたが、好きなことがこうして楽しめる。

「90歳セツの新聞ちぎり絵」(2020年8月3刷 黒山社)


コタコタ.インドネシア(33)ジャカルタ(3)国交開始と最大の賠償

2020-08-18 05:53:26 | 2012・1・1

ジャカルタが今のような超高層ビルが林立する近代国家に発展したのは1959年(昭和29年)わが国との国交が樹立した後である。筆者は66年かけて67年にかけてジャカルタに駐在したが、この時期は国交が結ばれてそれに伴う戦時賠償金の支払いが始まった頃で、賠償金引き当ての建設工事が市内各地でみられた。

筆者が滞在していた旧ホテル.インドネシアも賠償引き当て、インドネシア初のデパート、サリーナもそうであった。取材でよく訪れたスナヤン競技場も64年、スカルノ大統領が国家の威信をかけて開いた新興国スポーツ大会も賠償金引き当てによるものだった。

半世紀以上も昔の話である。まだ高層ビルも少なく高速道路もあかった。日本食を食べさせる店は一軒もなく,チキ二に料亭「菊川」がオープンしたのは67年である。国際空港は中心部に近いクマヨランにあり、クバヨラン.バルも発展以前で、商店街といえばパサール.バルだけ、建設中のモナス(独立記念塔)の周辺でもべチャ(三輪乗り合い自転車)が走っていた。田中角栄総理が反日デモにあったのは74年である(マラリ事件)。MRTが走る現在のジャカルタからは想像つかない。


コタコタ.インドネシア(33)ジャカルタ(2)蝙蝠の街、運河に はためく日章旗

2020-08-17 06:28:33 | 2012・1・1

昭和初年の詩人、金子光晴が著書「マレー蘭印紀行」の中でジャカルタ(当時バタビア)を訪れた際のことを書いているが”街には至る所蝙蝠(こうもり)がいる”と記している。下町の中国人街コタへ行く運河沿いのマンが.ブサールを逍遙した印象である。高層なビルなどなかったが、戦前ジャワに居住していた邦人の記録「じゃがたら閑話」によると、昭和13年-14年には、日本からの雑貨品の輸入を営むトコ.ジャパンをはじめ写真店、理髪店など91もの店があり、日本人学校もあった。

その日蘭経済通商関係も昭和16年,二次にわたっての交渉が決裂、砲火の響きが近づき、ほとんどのバタビアの日本人は本国に引き揚げたが、12月8日、宣戦布告もないのに残っていた日本人は一斉に全員逮捕され、豪州の砂漠地帯の抑留所へ送られた。

 

昭和17年3月10日、バタビアは無血占領された。銃後では灰田勝彦が「バタビアの夜は更けて」を歌ってヒットした。▽ バタビアの夜は更けて(佐伯孝雄作詞 清水保雄作曲) 都バタビア運河に暮れ 燃える夜空の十字星 はるか祖国よ あの日の旗が風に歓呼の声

日本のジャワ占領政策はやさしすぎるとの友軍からの批判もあったが、20年8月15日敗戦、よくよく17日インドネシアは独立した。戦後のバタビア連合軍裁判では263人が有罪、うち62人が処刑されている。3年5か月の日本の軍政は終わった。