テヘラン訪問中の安倍晋三総理が昨夕、イランのロゥハニ大統領と会談、核開発をめぐる米国との対立による中東地域の衝突、緊張会話について話しあった。総理は今日13日も同国の最高指導者、ハメイ二師とも会談し帰国する。現地からの報道は安倍総理の米イラン両国の仲介役として期待する声が大きいが、果たして成果はどうだろうか。
安倍総理のイラン訪問は、わが国の現役総理としては1978年(昭和53年)の福田赳夫氏以来41年ぶり。79年のホメイニ.イスラム革命の後では初めてのことだという。安倍総理にとっては83年に、父親の晋太郎氏が外相時代に訪問しているが、これとて36年前のことだ。イランについては、パーレビ王朝時代しか知らない僕にとっては意外だった。
パーレビ王朝時代は日本との関係は親密だった。1958年、東京で開かれたアジア大会にはパーレビ国王(シャー)が来日しているし、60年には、皇太后夫妻が、皇太子時代にテヘランを訪れ、歓迎を受けている。体制は違ったが、両国の関係は今より深かった。
ロゥハニ大統領が安倍総理との会談後の記者会見で、総理のイラン訪問が,両国関係の新しい節目になることを期待するといっていた。イランはわが国の三番目の石油輸入国で、ペルシャの昔から関係が深い。ロゥハニ大統領がいみじくも言っていたが、今回の中東での緊張は米国の仕掛けた経済戦争の一面がある。安倍総理の仲介外交は期待するが、トランプの代貸し、三下であっては困る。
公的年金だけでは2000万の赤字だとする、金融庁審議会の報告書について麻生太郎金融担当相は”世間に著しい不安や誤解を呼ぶ。政府の政策のスタンスと異なる”として報告書を受け取りを事実上拒否した。参院選を前に野党から強い反発が出ており、これでは、第二の”消えた年金問題"にもなりかねない,とする麻生大臣の政治判断なのだろう。しかし、問題は最終的に解決されたのであろうか。
審議会の報告書は総務省の家計調査を基に、年金受給の現況について数字的に明らかにしたものと僕は思うのだが、麻生大臣は”(年金)受給者の中には貯金を切り崩している者もいるが、息子と一緒に暮らしている者もいて平均値を出すことはできない”と述べ、政府の政策スタンスについても”公的年金は老後のをある程度賄うものだ”と述べている。これでは、世間一般の公的年金への期待とはまるで違う。
十年一昔というが、2009年6月の今頃は政局は”麻生あろし”の風が吹きまくっていた。「アニメの殿堂」をめぐる与党内の対立や、野党民主党の人気で麻生内閣の支持率は10%台を低迷していた。そのころ書いた小ブログは麻生総理と鳩山由紀夫民主党代表との党首会談は、麻生総理がダウン寸前、タオルが投げこまれてもよい状態だと評している。
麻生大臣は失言癖がある。俗っぽい言葉でいえば、お育ちがよいためか庶民感覚から遠い。報告書の”赤字“という表現がまずかったという問題ではない。公的年金だけで老後が送れないのは厳然たる事実である。問題は百歳時代の到来を前にして、どうしたらよいかの問題である。幸い”安倍おろし”の風はないが、再び麻生大臣の退陣を求める風が強まり、安倍内閣の命取りにならないよう大臣は発言に配慮してもらいたい。
戦争末期の昭和19年11月、東京都旧荏原区(品川区)戸越にあった保育園園児53人が埼玉県蓮田市(現在)へ集団疎開、その生活を描いた映画「あの日のオルガン」が話題になっている。昨日、僕は東京の保育園史を研究している友人の先達で戸越町の浄土宗の古刹、行慶寺を訪れた。行慶寺は直接、映画には関係ないが、集団疎開した当時の保育園の近くにあり、現在ルンビニ幼稚園を経営されている。何か当時の参考になる資料がないかと前住職にお尋ねした、前住職は19年生まれ、お寺は20年5月の空襲で焼失していた。
しかし、前住職の小俣昌雄さん(75)から地元の郷土史研究会「とごゑの会」が中心となって、この秋地元で「あの日のオルガン」を特別上映して往時を偲ぶ会を催す計画があることを話された。
戸越は江戸時代までは”とこえ”と呼ばれ、行慶寺は”とごえ”村の戸越八幡として江戸名所図鑑にもその名前がでてくる。残念ながら空襲で全焼てしまい、昔の面影はないが、昔から子育地蔵と言われた石仏、地蔵尊が寺の正門の前にあり、ルンビニ幼稚園野園児たちから身じかな“ののさん”と親しまれているそうだ。歳月の経過と共に”戦争”が風化してきている。その意味で映画「あの日のオルガン」は、あの時代を後世に伝える、よすがとして貴重なものだ。
先日、老妻が参加した目黒区老人会の芸能大会で「お山の杉の子」の童謡が歌われ見事入賞した。この歌は僕も歌ったことがり、僕は戦時中の造林奨励の歌と記憶していたが、調べてみると、昭和19年発表の戦争遺児を励ます歌で、元歌の六番は「さあ負けるな杉の木に 勇士の遺児なら、なお強い 頑張って頑張って 今に立派な兵隊さん 忠義孝行ひとすじに お日様出る国 神の国」であったが、戦後時代に会わぬと歌われなくなった。
2008年文化庁から「日本の歌百選」の一つに選ばれた「汽車ポッポ」も、もともとは「兵隊さんと汽車」(昭和13年 富原薫作詞)で、御殿場出身の富原さんが富士の裾野の演習所へ行く兵隊さんを乗せた列車を歌ったものだったというが、戦後「汽車ポッポ」とタイトルごと歌詞も変更された。
「お山の杉の子」と同じ昭和19年11月「比島決戦の歌」というレコードが発売されている。歌詞のリフレンを紹介すると「出てこいミニッツ、マッカ―サー 出てくりゃ地獄へ逆落とし」であった。比島決戦は、米国軍の再上陸で悲惨な結果に終わった。大変な時代だったが、童謡のメロデイはそれを思わせない。元歌の歌詞も、時代を反映するものとして、歌わないまでも記録として残したいものだ。
現行の公的年金制度は果たして政府が言うような持続可能なものではないのだろうか。金融庁が発表した金融審議会の報告書を見て首を傾げたく思った。人生百歳時代だというが、95歳まで生きるのには年金だけではなく、2000万円不足だというのだ。僕ら夫婦は95歳まで生きるにはあと数年ある。余生の生活は大丈夫なのかと疑いたくなる。
そんな疑いを抱かせる中で、昨日、日本年金機構から夫婦あてに「国民年金.厚生年金.年金確定通知書」が届いた。令和になって初めての通知書だ。僕は平成4年、60歳からすでに28年間、厚生年金を頂戴しているが、令和の時代でもひき続き、頂けると感謝しながらも、金融審議会の報告が頭にあり確定額を改めて確認した。変動はなかったが,かって”消えた年金”騒ぎもあり、疑い深くなっている。
金融審議会の報告書によると、男性65歳、女性60歳の公的年金受給者が95歳まで生きると年金のほかに月に5万円以上が不足となり総額は2000万円に及ぶという。これでは、現行の制度は持続可能といっても意味がない。野党が批判するのももっともだ。麻生太郎金融担当相は、この批判に対して”老後を楽しむために必要なのだ”と弁明しているが、2000万円なければ、老後は楽しめないというのか。麻生大臣は恵まれた境遇にあるためか、庶民感覚がなく失言が多すぎる。金融庁の計算は多分、計算上は正しいのかもしれない。だから、消費税率をアップするのではないか。誤解を呼ぶ報告書は困る。
関東地方が梅雨入りした昨日、家の近くのホールで、目黒区合同の老人会の発表会があり、老妻がお仲間12人と一緒に参加した。毎年、僕も”応援”に駆けつけていたのだが、今年は雨で残念ながら欠席した。以下は、帰宅した老妻から話。老妻たちは毎週1回、20人ほどが集まって童謡を歌っている。70歳代から90歳までだが、男性はゼロ。最初は数人いたが、やめてしまったそうだ。
老妻は昭和8年生まれだが12人の中では高齢になってきた。発表会では川田正子さんが戦後の21年に歌ってヒットした「みかんの花咲く丘」を披露した。童謡というと、老妻の年齢では戦前国民学校(小学校)で習った小学校唱歌が多いのだが、最近の老人会は70歳代が多くなり、後半でも「二宮金次郎」のような歌は習ったことがなく、郷愁がなくなってきたようだ。
孫も皆成長して、幼児と接触する機会がなくなってきたが、最近の幼児たちはどんな歌を歌っているのか。昔のような子供だけの童謡があるのだろうか。二宮金次郎、児島高徳、広瀬中佐など僕らが学校で習った唱歌は軍歌と共に”お蔵入り”されてしまうのであろうあるのだろうか。それより、百年先、童謡という言葉があるだろうか。
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戦争中、長崎県端島炭鉱、通称軍艦島で半島(朝鮮)人に対し大掛かりな差別暴行事件があり”地獄島”と呼ばれていたという話が韓国から発信され、世界中に流布されている。軍艦島はユネスコの文化遺産にも指定されており、かって栄えていた頃の炭鉱の姿が保存されている文化遺産である。韓国は”徴用工”裁判に絡ませて、第二の慰安婦問題にしようというのであろうか。
産経新聞(6月6日付首都圏版1面トップ)記事によると、軍艦島元島民らが来月2日、ジュネーブの国連欧州本部でシンポジウムを開き、韓国発の虚説に反論する。僕は、この問題の専門家ではないが、20数年前、戦時中の筑豊炭田の和蘭軍捕虜について調べていた時、現地でこの問題を調査している作家の林えいだい氏(故人)の本を読んだことがある。正直言って、当時僕は彼の考え方には反対であったが、最近、軍艦島が問題化し始め、林氏がyiutubeで、自著の「写真特集。端島、軍艦島のその後」で、元島民の証言で、見事に韓国発の話がインチキであることを証言している。
いわゆる慰安婦問題をこれまでこじらせてしまったのは、僕は村山富市内閣当時の「アジア女性基金」の失敗だとみている。援助対象国の歴史を誤解している学者が基金の歴史委員であれば失敗は当然である。軍艦島についても政府はどこまで関与しているのか知らないが、元島民の派遣には賛成だ。しかし、過去の失敗の轍をふまないよ慎重な準備と注意が必要である。
戦争を直接体験した世代の減少から”語り部”がいなくなり伝承者が必要になってきたという。敗戦時、中学3年生だった僕は軍需工場へ勤労動員され、敵機の機銃掃射や空襲下、焼夷弾を消した体験はあるが、実際に敵と対峙した戦争の実体験はない。しかし、僕らが実体験した日常の生活ですら、体験者自身が忘れかけてきた。
74年前の昭和20年(1945年)6月6日の亡父の残した日記帳の記述である。”5月25日(山の手大空襲)以来停電していた電燈がつき、その瞬間、近所一帯から歓声が上がった。気も心も明るくなった。ラジオも聞こえ、心強さを覚ゆ”。戦争末期は極度の電力不足から。僕が動員されていた工場でも日曜日のほか平日に1回「電休日」があり、家庭でも夜間の停電は毎日のようにあったが、12日間も連続して毎夜、真っ暗闇の下で生活していたのは忘れてしまっていた。
山の手大空襲で、当時僕が住んでいた柿の木坂(目黒区)一帯の交通インフラは寸断されたが、父は毎日のように都心(虎ノ門)に通勤していた。電車が通じる区間は利用し、あとはバスで引き継ぎ歩いてであった。その経路が日記に記されているが、毎日のようにコースは日替わりであった。僕も六郷(大田区)の動員先の工場の焼け跡整理に歩いて出かけた。そんな生活の中で、空襲後3日目の27日には新聞が、五社共同で発行されている。都民はやっと最低限の情報を知りえた。
戦時下の物資不足から日記帳のスペースがなく、日常生活の記述が少ないのは残念だが、たった12日間なのに、父は隣家から”貰い湯”を受けている。電気もなく、もちろん都市ガスもなかった。銭湯は湯船に入れない大混雑であった。家湯は最大の贅沢であった。
家に電燈がつき、ラジオが聞こえるようになった2日後、僕は家から離れ、千葉県江戸川運河の拡幅工事に動員された。沖縄がすでに敵の手に落ち、今度は九十九里浜へ敵が上陸してくるという情報が流れていた。それから2か月足らずで敗戦になった。
加齢とともにだんだんと難聴になってきた。自分では、そう思っていないのだが、周囲からテレビの”音が大きすぎる”と注意されることが多くなってきた。長年の生活習慣から早寝早起きのため、夜9時前に就寝することが多く、家族にはそう迷惑はかけていない。しかし、どうしても就寝後ラジオをイヤホーンで聞く機会が多くなってきたが、宵のうちのラジオ(NHK)番組には老人向けのが少ない。
きざっぽく聞こえるかもしれないが、僕は若者向けの「第一」よりは、高校生向けの番組や英語講座の多い「第二」の御世話になることが多い。その中でも毎週欠かさず聴いているのが、月曜夜9:00から9:30分までの「ラジオ.アーカイブ」である。別名”声でつづる昭和人物史”と呼んでいるが、昭和天皇から始まって、。昭和の時代を生きた政治家、学者、作家などの有名人の生前の声をNHKが録音して保存してあるテープお再生し、昭和史のノンフィクション作家、保坂正康氏が解説する。
先週(6月3日)は戦後すぐの時代(21年-26年)夕方6時から15分間、NHKラジオから放送された英会話番組の平川惟一先生であった。“ショ ショ ショジ”のメロデイにのって始まる”Come come everybody"の英会話番組は、あの時代を生きた日本人なら知らない者はいない。番組は先生の晩年に録音された自叙伝的な番組だったが、先生のお人柄も感じられ、当時、文字通り”お茶の間”で聞いた番組が懐かしく思い出された。6月10日に放送される続編を楽しみにしている。