「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

延長国会は何だったのか 政局は自民党総裁選挙

2018-07-21 05:29:50 | 2012・1・1
昨日、国会は与党提案の”カジノ”法案を可決して事実上閉会した。32日間も延長して審議しながら、国民の印象としては相も変わらぬ”モリカケ”関連問題に終始した感じだ。そして、最後にあまり、一般庶民には無関係な”カジノ”法案を強引に可決した。野党が安倍内閣不信任を提出したのも理解できる。これで政局は9月の自民党総裁選挙に移る。

安倍総理は自身の総裁選挙出馬について,"セミしぐれ”を聞きながら決断すると昨日の記者会見で述べていたが、会見を聞く限り、出馬は間違いない。今年は異常の暑さ、総理が”セミしぐれ”を聞けない事態が起きるかどうか分からないが。しかし、総理が出馬すれば、当選も間違いないだろう。政治の安定には僕も三選を願っている。

総理は昨日の会見で”モリカケ”問題で行政の信頼がかけていたと詫び、慎重な上にも慎重でことに当たりたいと述べた。これは行政の問題だけではないと思う。先日、僕はネット上で自民党が暑気払いなのであろうか、”赤坂自民亭”という模擬酒場を開き、安倍総裁出席の下で、閣僚がはしゃいでいる写真を見た。総裁選挙を意識しての飲み会だったのだろうか。

安倍総理には、良い悪いは別にして”モリカケ”問題で見られるネポテイズム(縁故主義)の傾向があるようだ。悪いとは言えないが、閣僚や党幹部の人事の面では慎重の上にも慎重にしてほしい。お友達内閣の弊害はすでに体験しているはずである。揚げ足取りの野党も当分お休みである。

老人には無人タクシーは不必要

2018-07-20 05:33:09 | 2012・1・1
2年後の東京五輪を前に無人タクシーの実用実験がベンチャー企業とタクシー会社との間で8月27日から9月8日までの2週間、東京の大手町から六本木までの区間、約5キロで、実際に客を乗せ、料金(1,500円)を取って一日4回行われるとのことだ。不測の事態に備えて”無人”といってもベンチャー会社の専門家と専門のタクシー会社のドライバーが同乗するそうで、今ネットで希望の乗客を募集中である。

このニュースを読んで僕は、1930年代の東京のタクシーを想い出した。そのころ、タクシーは”円タク”と呼ばれ市内15区はどこへ行っても1円であった。英国から輸入の箱型の車体で、乗客は向かいあって座れた。運転席にはドライバーのほかに”助手”が乗っていた。事故が起きた場合に備えてのサービスだったのだろうか。

無人タクシー導入の一因はドライバー不足のようだ。給料が歩合制であったり、深夜勤務もあって若い人に人気がないらしい。それに普通二種免許が必要で誰でもがなれるわけではない。最近、病院通いで近距離特典を利用してタクシーに乗る機会が多くなったが、運転手さんは60代70代の年寄りが多い。しかし、ドライバーがおれば、身障者手帳を持っている僕ラ年寄りには乗降のさい手助けしてくれて助かる。これが無人タクシーになったらどうだろうか。

IT時代は年寄り泣かせである。スマホやPCを持たない老人は生活上困ることばかりだ。タクシーの料金支払いまでAIが対応することになれば、僕ら年寄りは一人でタクシーに乗れない時代がやってくる。、

曽野綾子さんの記憶違いと思いすごし 自戒

2018-07-19 05:16:52 | 2012・1・1
社会との接点が少なくなってきた老人にとって同世代の作家、曽野綾子さん(87)が産経新聞に連載で書いている随筆「透明な歳月の光」は同じ年寄りが今、何を考え何を感じているのか,参考になり興味深い。しかし、自戒を込めて思うのは、歳をとると、記憶には誤りや思いすごしが出てくることだ。曽野さんの7月18日付け産経新聞所載の「透明な歳月の光」”主食だけを摂取してきた時代”を読んで僕はそう感じた。

曽野さんも僕も戦争中から戦後にかけて、主食のお米が配給制で、成人の割り当てが一日2合3勺(330グラム)だったことを覚えている。曽野さんは、この随筆の中で”13歳の女の子の私にも、(成人と)同じ量(2合3勺)が与えれた”と記憶している書いているが、実際は当時8歳から20歳までの子供は成人より4勺多い2合7勺配給されていた。

曽野さんのあら捜しになるが、”細かい事情をはっきり覚えていないがと断り書きはあるが、戦後の東京では”私の家のように戦前からの古家が空襲で焼け残った場合も、その面積によって、家のない家族を受け入れる義務があったと覚えている”と書かれている。しかし、これは義務であって曽野さんの思いごしだ。僕の家も空襲で焼け残ったが、”面積に応じて”他人に家を貸すことはなかったし、義務感もなかった。

年寄りは昔のことはよく覚えているというが、確かに物忘れが激しくなっても子供時代の記憶は鮮明だ。とくに戦中戦後のあの未曾有の時代を生きてきた世代にとっては格別だ。しかし、加齢によるボケには勝てない。自戒としよう。

ボランティア活動 強制就労世代

2018-07-18 05:32:53 | 2012・1・1
7月14日から16日までの3連休に西日本豪雨被災地に全国各地から4万人ものボランティアが入り活躍した。ボランティアとは、元々の意味は”自分の意思により参加したした志願兵”(wikipedia)のことで、古くは十字軍時代までさかのぼってあったという。わが国で一般的に、このカタカナ言葉を耳にするようになったもは1995年1月の阪神淡路大震災後ではなかっただろうか。

僕はボランティア活動はしたことはないが、戦争末期と戦争直後、疎開の建物撤去や空襲の焼け跡整理に学校ぐるみ動員された。”自分の意思”によるものではないからボランティアではない。広島原爆の際には当時中学1年だった広島1中(現在の観音高校)の生徒と職員352人が爆心地近くで疎開の建物撤去中被災地で亡くなっている。若者は徴兵されて戦地へ行き、13,4歳の僕ら少年まで動員された。

1923年の関東大震災の資料を見ると、当時の写真には東京湾に停泊中の米国海軍が芝浦にテント村を建てて被災者を支援する写真や汽車の屋根の上まで乗って東京脱出する被災者の写真はあったが、ボランテイアの活躍らしき写真はなかった。いわゆる朝鮮人暴動で治安が悪く、ボランティアどころではなかったのだろう。

2011年3月のの東日本大震災では延べ100万人を超すボランティアが活動したという。自然災害がそうあっては困るが、定着してきた。外国にも同じような活動はあるのだろうか。強制就労を体験した世代だけに、ボランティア精神を大切にしたいものだ。

「海の日」はハッピー.マンデイに固定すべきだ

2018-07-17 05:45:41 | 2012・1・1
昨日は7月の第3月曜日、「海の日」の国民の祝日であった。といっても、心から〝海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を祈願した”(祝日法)日本人はあまりいないのではないか。3日続きの連休を利用して「海」だけでなく「山」にも遊びに出かけた者が多いに違いない。わが家でも孫の一人が海外旅行から帰国した。

この「海の日」を2020年の東京五輪パラリンピックの年に限り、開会式前日の23日に移行するらしい。理由は交通渋滞の緩和のようだが、今一つ僕には説得力がない。そして、さらに分からないのは、この反対者に対して、妥協案として「海の日」を昔通り7月20日に固定しようというものだ。「海の日」が7月20日に決まったのは、それなりの理由があってのこと。それを押し切って第3月曜日に変更したのは、国民にとってさらなるメリットがあると国会が判断したからだ。

戦前、東京の小学校の通信簿の学校暦には、夏期休業自7月21日至8月31日。冬期自12月25日至1月7日、学期末3月26日至31日、靖国神社例祭4月30日、11月23日、鎮守祭10月3日と記述してあった。祝日もすべて固定しており、四大節、元旦(1月1日)、紀元節(2月11日)天長節(4月29日)明治節(11月3日)には学校で式がり、祝日を祝った。

調べてみたら、戦前の祝日は皇室の行事が多く、年間10日あった。四大節のほかは、庶民にとっては、たんなる休日にすぎなかったが、子供にとtっては紅白の餅を貰える日として想い出深い。今、日本の祝日は合計13日あるが、国民的な行事はいくつあるだろうか。とくにハッピー.マンデイ法が導入されて以来、なんの祝日か分からなくなってきた。しかし、一度、国会で決まったものだ。安易にご都合主義で変えるべきではない。




老人の無沙汰と「かもめーる」(暑中見舞い)

2018-07-16 05:01:03 | 2012・1・1
昨日玄関先の郵便箱に知り合いの弁護士から早々と「かもめーる」(暑中見舞い)が入っていた。最近、めっきり減ってきた郵便物、しかも暑中見舞いとは珍しい。通り一遍の挨拶だが有難く気持ちを頂戴した。「かもめーる」は戦後の昭和25年、郵政省(当時)が、年賀郵便にならって夏の風物詩”カモメ“と”メール”を結びつけて懸賞葉書として発売したが、今一つ人気がでない。

先日、小ブログで紹介した母校、攻玉社野球部(7月11日)が東京東大会3回戦でで第1シードの関東第一に0対1で惜敗した。産経新聞都内版トップの記事の見出しは”虎の子1点守る関東一辛勝”だった。僕らは老体を気遣い応援に駆けつけなかったが残念だった。でも、母校の活躍を機会に、ふだん無沙汰がちの旧友とメールや電話で話ができたのはありがたかった。

80歳も後半になると、社会とのお付き合いが狭くなり、年一度の年賀状だけの仲の友人が増えてきた。他県に住む母校野球部の活躍は、旧友たちに情報を知らせ、久方ぶりに相手の声を聞くチャンスなのだがお互いに耳が遠くなってきた。せめてスマホやPCでもと思っても、ほとんどが所持していない。こうしてお互いの話題が共有出来ないのは残念だ。

思い付きで申し訳ないが、暑中見舞いを兼ねて、全国の元気なお年寄り、例えば介護保険料を現役並みに支払いながら、そのサービスを受けていない元気な年寄りに「かもめーる」を無料で頂戴できる制度などどうだろうか。年末になって頂く「喪中挨拶」で初めて故人の他界を知るのは、あまりにも寂しい。

米一粒食べられなかった最悪の昭和21年7月の東京

2018-07-15 05:15:25 | 2012・1・1
東京は今、新暦によるお盆の最中である。といっても、昔のような”迎え日””送り火”盆提灯”といった習慣をする家はは減り、檀家へ棚教で訪れる僧侶の姿もあまり見られない。お盆に先祖の墓を詣でる良習さえ減ってきているらしい。東京の住民といっても、最近は地方からの転入者が多く、故郷の習慣に従って8月の旧暦のお盆をする家庭が増えてきたのも一因らしい。わが家でも中元の挨拶をかねて浅草のお寺へお墓参りに出かけたが、家庭でのお盆の行事は一切しなくなった。

僕の遠くなった昔の記憶によれば、東京の夏は7月21日から始まる学校の夏休みからで、その前は”夏”ではなかった。お盆の頃、30℃を超す日はなく、今年のような暑さの記憶はなかったが、亡父の昭和21年7月の日記によると、13日(土)34.8℃、14日(日)35.2℃=新記録とあまりった。当時はエアコンなどなく、扇風機さえある家は少なかった。日射病はあったが、熱中症という言葉はなかった。

酷暑の中一般庶民の生活はどうだったのか。参考までに亡父の7月日記「後遺」の一部を紹介してみる。「7月の食糧危機もアメリカの厚意による小麦粉や缶詰でどうやら切り抜け得た。実際、この月、我々が口にした三度三度の食事はアメリカのお救い米で、内地のものは一粒もない。もし、アメリカから何もくれなかったなら、私たちはことごとく餓死をまぬかれなかった、と考えると、慄然たるものがる」

横浜新港ターミナル近くに昭和天皇のおきさきだった香淳皇后のお歌を刻んだ碑がある。「あたたかき外つ国人の心づくしゆめな忘れぞ時は経ぬとも」
まだ子供であったが、大変な時代を経験してきた。

”NHKは朝日より質が悪い”

2018-07-14 04:58:30 | 2012・1・1
" NHKは朝日より質(たち)が悪い”という雑誌の広告見出しが目に入った。内容を読まないで恐縮だが、僕は2001年1月、雪の中を「女性国際法廷」にからむNHKの特番”戦争を裁く”上映に反対、仲間とともに抗議した。最近はあまり、こういった番組はなくなったと思っていたが、13日早朝4時からの「深夜便」は首をかしげたく思った、。途中から聞いたので、全体はわからないが、戦前の女性運動家、平塚雷鳥(らいてふ」)の関係者がポンティアナク事件について語っていた。

ポンティアナク事件とは、戦争末期インドネシアの西カリマンタン(ボルネオ島)の州都、ポンティアナで起きた海軍特警(憲兵)による住民虐殺である。僕は2000年、この事件取材のため、虐殺現場とされるモンドールへ行き献花したが、慰霊碑には”アラーの僕(しもべ)である合計21,637名の男女が埋葬されている”と現地知事の揮毫文が書かれてあった。僕は事件について当時現地にいて、戦後和蘭軍によって逮捕されたMさん(100歳)をはじめ犠牲者の遺族、オランダの戦争資料館まで取材した。この結果、虐殺は事実だが、一方では戦後のBC級裁判で鎌田司令官(中将)以下15人が処刑されており、虐殺人数についてはオランダ側も否定している。

ラジオ深夜便の女性も現地取材をされているようだが、通訳を通じての短期間の取材である。それより、平塚雷鳥博物館(上田市菅平)の紹介番組なのに何故、ポンティアナク虐殺にふれるのか。NHKの取材になにか特別の意図がなければよいのだが。深夜や早朝のラジオ番組の中には教育番組という名の偏向”番組が確かにある。

人口減と日本の将来 地方の衰退

2018-07-13 05:04:02 | 2012・1・1
総務省の今年1月1日現在の住民基本台帳に基づく人口動態によれば、日本人の人口は昨年より37万人余減り、1億2000万人であった。9年連続の減少で、出生者数は過去最低で、2年間続いて100万人を割った。富国強兵、“産めよふやせよ”の時代に育った僕らの世代にとっては驚きである。

僕らが子供だった戦争中は、どこの家でも兄弟姉妹が5人、6人いるのは珍しくなかった。これは明治維新後の国の政策だと思っていたが、ものの本によると、そうではなく昭和14年に厚生省が発表した「結婚十訓」によるものらしい。確かに政府は明治時代から移民政策をとり、満州国への進出を国策としてきた。移民政策は”産めよふやせよ”とは矛盾しており、やはり”産めよ増やせよ”は増兵目的だった。

敗戦直後の新聞広告に”1姫2太郎3C(サンシー.ゼりー”という受胎調節用薬品ゼリーが多載され話題になった。ゴロがよかったのか、子供だった僕も口にしたものだ。団塊の世代が生れた頃の話である。当時は産児制限の活動家サンガー夫人の名前も話題になった。戦後の占領時下時代GHQ(マッカサー司令部)は産児制限政策をとっていた。

安倍内閣の人口政策は出生率1.8の維持だから、人口減を意味している。問題は、人口動態を見ると、東京,大阪、名古屋三大経済都市圏は将来とも人口増が期待できるが、41道県での人口減である。政府は地方創生計画を進めているが、大丈夫だろうか。駅前商店街のシャッター閉鎖、減反による田畑の喪失など心配である。地方創生ではなく、再生である。

西日本豪雨 老人犠牲者 日本の悲劇

2018-07-12 05:57:57 | 2012・1・1
テレビの画面で独り住まい90老(男性)が濁流にのまれて死亡していた部屋が写し出された。老人は自室に濁流が浸水するのを防ぐため入り口に家具類を積み上げていた。それが痛ましい限りだ。西水害豪雨の被害は5日もたっても被害は拡大続けている。しかも行方不明者の数が増え老人が多い。
安倍総理が被災地を視察しているが、野党側からは政府の対策の遅れを指摘するものも出てきた。しかし、問題はそんなものだろうか。

新聞に犠牲者の名前が出ていたが、65歳以上の老人が多い。なかでも被災後数日たって発見された土砂崩れの被害者は圧倒的に多い。これは超高齢化時代の日本の縮図である。高齢者だけの家庭や独り住まいの老人が多く、こういった自然災害に対応できないのである。

猛暑が続く東京だが、昨日、国立病院へ年に1回のCT検査へ出かけた。2回目の大腸手術後、3年目に入った事後チェックである。なんとか独りでも通院出来ると思っているのだが、腰の悪い老妻が同行してくれた。病院内は、僕ら夫婦と同じ老人ばかり,しかも相方を車イスに乗せ、曲がった腰で押している夫婦が多い。

幸い、今回の豪雨被害では、老人介護施設での被害はなかった。しかし、これは逆なことを言えば、在宅介護やその予備軍ともいえる老人が多いことである。介護1、身障者4の僕である。日常生活には支障はないが、自然災害が起きた場合、どうだろうか。地元の包括センターには、高齢者登録してあるが、救援機能があるのか、作動するのか。初動対策の遅れ以前の問題である。