「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           皆既月食とアポロ11号

2011-12-11 07:24:37 | Weblog
昨夜11時過ぎから11年ぶりに皆既月食が見られるというので、朝型人間なのに"何事も好奇心”ーと一眠りした後、老妻に起こされてベランダから夜空を眺めた。月は皆既直前なのだろうか、頭上に小さく観測された。朝刊によると、日本列島はほとんどの地が好天で、すばらしい天体ショーが見られたそうだが、僕はその前に寒くて部屋に戻ってしまった。望遠レンズもつけず撮った写真がこれだが、単なる夜空にすぎないが、観測に参加した証拠までに。

月というと、戦後1950年から60年にかけての米国とソ連(当時)との間のロケット開発競争を思い出す。1957年、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク打ち上げに成功、ついで59年には月探査機ルナー1号発射に成功した。しかし、米国は69年にアポロ11号の人類初の月面着陸に成功した。当時、僕は新聞社の外信部に勤務していて興奮しながら外電の翻訳に当たったものだ。同僚の一人は長男に"宇平”君(宇宙の平和の意)という名前をつけ、もう一人は長女に”ルナ”さんと命名した。その興奮と感激がわかる。

そのアポロ11号の月面着陸は”つくり話"で、地球上のどこかで特撮したのだという説がある。まさかとは思うが、最近もNASA(米航空宇宙局)が、アポロ11号が着陸した"静かな海"周辺への接近を中止させるという報道から、また”つくり話"説が蒸し返されているらしい。そんなことは絶対にないと思うが、米国もロシアも、この40年以上、月へ向かっての有人飛行をしないのは何故なのだろうかー。

戦前、子供だった時、月の”兎の餅つき"模様を見て、色々想像をたくましくしていた頃が懐かしい。天体は神秘的なほうがよいのかもしれない。

             問責されてもボーナス

2011-12-10 07:18:26 | Weblog
昨日9日、国家公務員に冬のボーナス(期末勤勉手当)が支給された。一般行政職の平均支給額は61万7100円で、前年に比べて2万4200円(4・1%)もアップだという。野田総理は532万円、参院で問責決議された一川防衛相、山岡消費者担当相にも382万円が支給されたようだ。中小の民間企業の平均は37万円8000円、3年連続ダウンしているというのにお役人や政治家の先生方は別世界だ。

政府・民主党は今国会で国家公務員の給与を7・8%(ボーナスは一律10%)ダウンする法案を提出する予定になっていたはづだ。ところが一川防衛相、山岡消費者担当相の問責をめぐって国会審議が進展せず、国家公務員の給与改正法案はお流れになり、民主党得意の"口先だけ”の結果になってしまった。

橋元大阪市長は冬のボーナスを受け取らないという。当たり前の話だ。就任して間もない市長が貰ったとしたら逆におかしい。今年夏のボーナスを当時の菅総理は4割返上したという。大震災のあと迷走していた総理としては、これも当然で、6割貰ったのは多すぎるぐらいだ。一川防衛相は在任中は大臣の給与を返上するといっているが、これも当たり前の話である。大臣として不適格だと参院でレッド・カードを突きつけられたのだから、法的には辞任しなくてもよいそうだが、自らやめるのが筋である。

順調な滑り出しのように見えていた野田内閣も、またここへきておかしくなってきたようだ。国民感情からみて、なぜ総理は不適格な二人の大臣を更迭させないのか。二人とも"小沢派”だということは、国民周知のことだ。その"小沢派"が消費税増税反対でうごめいているという報道もある。やはり日本の政治を正常に戻すには、解散総選挙ですっきりすべきである。



            元気な80歳の仲間たち

2011-12-09 07:28:10 | Weblog
昨日「学士会館」で昭和28年に同期入社した仲間たちが集まって恒例の「28会」を開いた。21人に案内を出し14人が出席だから80歳代のこの種の会としてはかなり好い出席率だ。幹事を受け賜って、最初は"飲み放題”のコースを設定したが、仲間内から”もう年寄りだ、そんなに飲まないぞ”と声がでて、当初の会費から一人500円引くことにした。ところがである、飲むほどに皆、昔に返り14人でビール15本、お酒1升、赤ワイン2本、焼酎ボトル1本を軽く平らげ、結局500円を再徴収する羽目。若者顔負けの元気さだ。

僕らが入社した昭和28年は、学制改革により旧制と新制の大学が一緒に卒業した年で、かなりの就職難の時代であった。年齢も旧制卒の大正生まれから、僕のように新制卒の早生まれの昭和6年までばらつきがある。80歳の僕が最も若いのだが、アルコールの量だけでなく、近況報告を聞くと、みな好奇心の強い毎日を送っており、これが元気と若さの源になっているみたいだ。

たまたまNHKラジオ「深夜便」の午前4時台の番組で昨日と今日(12月8,9日)東京未来大学名誉学長の多古輝先生(85)が「気持ちが決める楽老人生」の中で、老いたら人間は"キヨウヨウ”を持つことだ、と話をされていた。”キヨウヨウ”とは教養のことかと思ったら、そうではなくて”今日用”だという。つまり、毎日用事をもって生活する意味のことだという。

たしかに昨日集まった僕らの元気な仲間たちは、話から毎日漫然と生活している者はいないみたいだ。"キヨウヨウ”を持っている連中である。さもなければ若者みたいに昼間から"大酒”は飲めない。

       大東亜戦争が始まった日の真珠湾の新聞

2011-12-08 07:24:11 | Weblog
70年前の昭和16年12月8日、僕は小学校5年だったが、鮮明にあの日の朝のことを覚えている。ラジオの臨時ニュースが米英両国に宣戦布告をしたことを伝え、ついで真珠湾、グアム、ダバオ、シンガポール、香港を次々と爆撃し、マレー半島東海岸のコタバルに敵前上陸に成功したと報じた。大人たちはみな興奮のルツボに包まれていた。

当時僕らは銃後の小国民と呼ばれていたが、皆、戦争はハワイ真珠湾への攻撃で火蓋がきられたと思っていた。そして、その攻撃の中でも真珠湾内に深く潜行し、敵艦を魚雷攻撃して爆沈させた五隻の特殊潜航艇の九人の乗組員の勇敢な行動に驚嘆した。九人はその功によって二階級特進し「軍神」と崇められた。

先日、僕は知人から「Honolulu Star Bulletin」という当時オハフ島で発行されていた新聞の1941年12月7日付けの号外(1st Extra )を入手した。号外には大きな活字で”War Oafu Bombed by Japanese Planes"と報じている。爆撃は時差の関係で、日本より一日早い7日(日曜日)の午前7時55分(日本時間8日午前2時55分)であった。号外には現地の混乱ぶりと共にサンフランシスコ発AP電で、ルーズベルト大統領の発表として、日本の飛行機が真珠湾とマニラを爆撃したと報じているが、日本軍が香港やシンガポールを爆撃し、コタバルに上陸したことには、一切触れていない。

しかし、後日判ったことだが、時間的経過で行くと戦争はコタバル上陸作戦で開始されている。上陸作戦に従事した第18軍の記録には"8日0215”(日本時間)上陸に成功す”とい電文が残っている。つまり真珠湾攻撃より40分も早く戦争の火蓋はきられていたわけだ。コタバル上陸作戦では、敵の猛反撃にあい320名もの尊い生命が失われているが、一般にはよく知られていない。

           巨人軍の内紛と読売新聞

2011-12-07 07:50:53 | Weblog
12月6日付けの読売新聞(首都圏版)を見てあきれたのは僕だけではないだろう。例の巨人軍の人事をめぐるゴタゴタについて特別面一面をさいて"ナベツナ”こと読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆とのインタービュー記事を掲載していた。単なるプロ野球球団の内紛にすぎない。主筆まで登場させて報道する価値があるのだろうかー。

小ブログは内紛の発端となった11月12日、清武球団代表の記者会見についてテレビ局や新聞が大きく報道しているのに、読売だけがスポーツ面で小さく扱っているのは、おかしいと批判した。多分、その時点では読売は”家庭内のことだ”という意識があったのだろう。ところが、今度は逆である。

読売新聞は特別面で"清武氏の言動こそ法令違反”と大きな見出しをつけ、さらに社会面でも三段見出し四段記事で"清武前球団代表を提訴"と報道している。プロ野球に関心のない読者やアンチ・ジャイアンツの読者もいる。常軌を逸した報道ぶりである。突き詰めれば"ナべツナ”さん(85)の老いの一徹から出た"鶴の一声"が、このゴタゴタの始まりのように僕には思われるのだが。

85歳といえば一般社会では現役を引退する年齢である。11月12日の小ブログにコメントを寄越した「chobimame」さんは"後進に譲ることも大切である。子供にいつまでも口を出して行くと、自立できない子供になってしまう”と批判している。僕も同感である。こういう目で読売新聞を読むと、なんだか紙面が老人じみていて活気がない。

         ミャンマーの新しい"潮目”の変化

2011-12-06 07:05:45 | Weblog
東南アジアで軍事独裁を続けているミャンマーに"潮目”の変化が見られてきた。テイン・セイ政権が打ち出した改革政策に対応し、あれだけ軍事政権に反対していた米国がいちはやくクリントン国務長官を派遣し、民主化運動の指導者,アウンサン・スーチーさんと会い、連携を表明した。これに対しテイン・セイ政権は黙認の形だ、

僕ら戦時中大東亜共栄圏のスローガンの下で育った世代にとって、ミャンマーは「ビルマ」の名前で懐かしい国だ。昭和18年11月、東京で開かれた大東亜会議にビルマの代表として出席したバウ・モウ氏の名前は今でも記憶している。スーチーさんの父親オンサン将軍(当時はそうよばれていた)も、新生ビルマ国家の軍指導者として有名であった。オンサン将軍は昭和15年、日本に亡命、一時「面田紋次」の名前で浜松に滞在していたことがあり、その記念碑が大草山の頂上付近にある。

戦後も昭和29年に結ばれた戦時賠償協定で、日本はビルマに対して72億円もの賠償金を支払い、これをめぐって歴代の総理がラーングン詣でするほど両国の関係は親しかった。ビルマが"ミャンマー"と名前を変え軍事独裁国家になる前までは、ODA(政府開発援助)予算もかなりの額の配分もあった。

しかし、ここ10年近くの両国関係をみると、日本からは外務政務官クラスの高官の訪問ぐらいで、経済援助も形ばかりのものになっている。どうも欧米諸国に遠慮しての外交政策で、せっかくの過去の親しかった両国関係を生かしきっていない。ミャンマーには新しい"潮目”の変化が確実に出ている。米国だけでなく中国も進出し始めているという。過去の歴史の上にたってバスに乗り遅れないよう、しっかりとした外交政策を望む。

    インドネシア女性「少年サンデー」ネット漫画でデビュー

2011-12-05 07:30:19 | Weblog
インドネシアのジャカルタの「MACHIKO MANGA SCHOOL」を巣立ったインドネシア人女性のVivian Wijayaさんが新人漫画家の登竜門といえる小学館の「週刊少年サンデー」のウエブコミックにデビュー、今処女作の「国境無き学園」(http:// club.shogkukan . co .jp /kod/yomikiri.html )が連載されている。漫画も国際的になったものだ。 この漫画は英語、インドネシア語、日本語の三ヶ国語で配信されている。

「MACHIKO MANGA SCHOOL」を主宰している前山まち子さん(ペンネーム茶々ぽこ)は14年前、新聞記者だった夫と一緒にインドネシアへ渡り、インドネシア語を学んだ後、数年前から現地の若い人たちに漫画を教え始めた。おそらく外国でのこの種の漫画学校は初めてのことだろう。すでにここを卒業してインドネシアで活躍している漫画家は沢山いるが、日本でのデビューはVivianさんが初めてだ。

Vivianさんの「国境無き学園」は50か国の生徒が通う寄宿制の学校を舞台に日本人の主人公、伴野君と各国生徒との間に繰り広げられるカルチュア・ギャップをコミカルに描いている作品だ。多分、他人種のジャカルタでの「MACHIKO MANGA School」の体験も役立っているのかもしれない。

「ノラクロ」世代の僕は恥ずかしいが、漫画といえば雑誌や単行本だとばかりと思っていた。前山さんからこの話を聞いて、書店で「少年サンデー」を買って読んでみようと思った。ところがである。今は便利な時代である。簡単にインターネットでVivianさんの漫画が読める。日本の漫画やアニメ技術は世界一だというが「ノラクロ」世代もウカウカしていられない。





       「インドネシア従軍5年」 名誉教授の話

2011-12-04 06:52:17 | Weblog
昨日、雨の中東京目黒のインドネシア学校で昭和女子大学名誉教授、山下信一氏(91)の「インドネシア従軍5年」の話を聞く会があった。今年は大東亜戦争勃発70周年だが、あの戦争に従軍した世代は80歳代後半から90歳を越え、直接体験談を聞くことも少なくなってきた。山下氏は大分歩兵48師団の一兵卒としてリンガエン(フィリッピン)スラバヤ(インドネシア)両上陸作戦に参加という貴重な体験をしている。

山下教授は旧制中学を卒業後昭和15年徴兵で現役入営、翌16年12月21歳で戦地に赴き戦後22年、連合軍の使役労働に従事した後22年に復員帰国した。その間ジャワ、東チモール、ロンボク、バリ、さらに再びジャワと5年間も各地を転々と移動駐屯している。スラバヤ上陸作戦では、隣にいた兵長が弾に当たり即死するなどを体験したが、現地のインドネシア人たちが皆親指を突き出し”jempol"と日本軍を歓迎、椰子の水をご馳走してくれたという。

この住民の熱烈歓迎の話は、軍政官としてバンタム湾(西ジャワ)から上陸した斉藤鎮男(元インドネシア大使)の著書「私の軍政記」(日本インドネシア協会1977年)にも出てくる。山下教授と斉藤元大使とはまったく関係がない。ジャワには3カ所から上陸作戦が行われているが、この”Jempol"の話と住民が"北方から来る黄色い人種によって苦しめられた民は救われる”というジャワ神話を信じて日本軍を歓迎した話は有名だ。

日本でもインドネシアでも、もう大東亜戦争を直接体験した世代はすくなって来た。山下教授の話を聞いて、僕は先月インドネシア旅行をしらさい、ジャワのトマングンで会った元義勇軍兵士、バンバン・プルノモ氏(86)が開いている日本語私塾「友好寺小屋」のことを思い出した。戦争で現地の人々に色々迷惑をかけたが、インドネシアはアセアン諸国の中では一番の親日国である。この両国友好の絆を大切にしたいものである。

   歴代二人の総理も出席 UAEの建国40周年パーティ

2011-12-03 07:54:10 | Weblog
昨夕、東京の帝国ホテルで開かれたUAE(アラブ首長国連邦)の建国40周年記念パーティに招かれて出席した。会場の大広間は招待された約500人の人で一杯、日本アラブ首長国連邦議員連盟会長の福田康夫元首相と安倍信三元首相も出席祝辞を述べた。歴代二人の総理が一国の建国記念日でお祝いの言葉を述べることは極めて異例だ。

もう49年前、半世紀も以前のことだ。僕は当時勤めてていた新聞社の新年企画「アラビアン・ナイトは生きている」という記事の取材で、まだ独立前のUAEに1週間滞在した。当時UAEは「休戦海岸」(Trucial States)といい、英国の保護領であった。僕と同僚のカメラマンは「休戦海岸」の一角、シャージャ土侯国(当時そう呼ばれていた)の砂漠の中の飛行場から入り、主としてドバイ土侯国を取材した。その頃のドバイは今のドバイからは想像もつかない、まさに"アラビアン・ナイト"の世界だった。

僕らは2008年と09年の2回、同僚のカメラマンが当時撮った写真が機縁で、UAEの初代副大統領兼首相の故シェーク、ラシード殿下(ドバイ首長)の義弟、アハマード・エミーレーッ航空会長の招待でUAEを訪れたが、UAEの地は超高層ビルが林立していて、もはや「アラビアン・ナイト」の世界はなかった。

半世紀前、僕らはバーレーンへ行く途中、現在UAEの首都になっているアブダビにも飛行機の給油のため立ち寄ったが、一面の砂漠で小さな管制塔の建物があるだけだった。今でも僕は覚えているのだが、僕らが降りると、英国の若い外交官が駆け寄ってきて”こんな文化果てるところにいて”と涙ながらに窮状を訴えてきた。昨夕の建国40周年記念パーティの大盛会からは考えられないことだ。(写真は会場に飾られた7人の首長を模るお祝いの氷柱)

           英国の公務員ストに思う

2011-12-02 07:46:57 | Weblog
英国で官公庁公務員200万人が参加したストの模様をテレビの画面でみた。ここ30年間では最大規模だそうで、公立学校の四分の三が閉鎖され、ロンドン市内の観光地でもデモ行進が見られ逮捕者まで出た。公務員のストが法律で禁止されているわが国では考えられないものだが、好い悪いは別としてエネルギーを感じる。

ギリシャに端を発したユーロ圏の債務危機が心理的に影響しているのだろうか。ストの原因は政府の公務員の年金制度改革にあるようだ。詳しい改革案は知らないが、年金資格を得るための勤労年数の延長らしい。わが国でも社会保障にからんで年金改革が論議されているが、一向に進展をみない。厚生労働省が示した年金支給年齢68歳ー70歳は、世論の猛反対にあい廃案となった。

僕ら高齢者世代は、数十年先にはこの世にいないが、現役世代の老後の生活設計は現行の年金制度で安泰なのだろうか。野田総理は昨日の記者会見で社会保障と税の一本化改革に関連して消費増税の税率、時期について年内に明示することを約束した。年金改革を含む社会保障制度の改革は焦眉の急であり、そのためには財源として消費増税が必要なことは僕のような素人でも解かっている。

しかし、民主党内には小沢一郎・元幹事長を初め消費増税に反対派が多い。また野党の自民党も"消費増税はマニフェスト違反だ”という原則論にたって、社会保障改革をどうするのか国民にはっきり示していない。すでに事実上の国民年金の崩壊で、高齢者の生活が行きつまり、生活保護の申請者が急増していると聞く。社会保障の改革は待ったナシの問題である。決断が下せない政府に対して、国民はゼネストを行使してはどうか。