「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       定額給付金審議は時間のムダ

2009-01-21 06:38:56 | Weblog
2兆円の定額交付金をめぐる国会審議は3週目に入ったが、だらだらと馬鹿
げたやりとりが続くだけ。昨日の民主党の石井ー”長老”議員の麻生総理
への"漢字テスト”に至ってはまったくの茶番劇だ。百年に一度の経済危機
という認識がない。民主党は、もう手詰まりで反対のため反対、いたずらに
時間を消費しているとしか、僕には思えない。

先日もテレビの国会中継を見ていたら、北海道出身の民主党議員が、地方
自治体にとって、給付金の交付は実務を煩雑にするだけだと反対していた。
町長の経験を持つ、この若い議員は自分の体験から煩雑にすぎないと言って
いたが、地方公務員は住民に奉仕する公僕ではなかったのかー。

昨年、後期高齢者医療の時もそうだったが、僕の住む東京の区役所は事務
の多忙を理由に、実施を半年遅らせた。その結果、僕ら年寄りを惑わせ、困
らせた。後期高齢者医療制度が評判が悪いのは、窓口である地方自治体の
対応の悪さと不親切さから来ている。

定額交付金の経済的効果については僕にはわからない。が、国会審議をみて
いると、政府がこれを実施するのは、ほぼ間違いない。それなら早いほうがよい。
東京の荒川区では、役所内に「定額交付金」課を設け、専門の職員を配置して
多角的に対応することに決めた。僕はこれに拍手を送りたい。

僕の偏見かも知れないが、地方自治体公務員の中には、大分県の教育委員会
の汚職で代表されるような"井蛙”的なおごりからか、公務員本来の奉仕精神
を忘れてしまっている。


              温暖化と大寒

2009-01-20 05:39:51 | Weblog
常套句だが、今日20日は暦の上では大寒、1年で一番寒い季節だ。が、昨日は各地と
も暖かく、東京では最高気温は15℃を越えた。桜の咲く4月頃の気温だという。僕もコ
ートを脱いで老人会主催の”みんなで歌おう”の会で春の歌を思い切り歌った。残念な
ながら、この会も区の補助がきれて昨日でおしまい。老人の健康には、病院通いより
よいと思うのだが。

戦前(昭和10年代)の大寒の頃は、今よりもっと寒かった気がする。”おお寒、こ寒、山
から小僧がとんできた”-僕ら子供は陽だまりで暖をとりながらこの歌を歌った。”押し
くら饅頭、押されて泣くな”という遊びもあった。大寒から15日間は寒中といい剣道や柔
道の道場では寒稽古があり、しもやけの手をこすりながら、霜柱の道を通った。寒空の
下、遠くから寒参りの修行者の打ち鳴らす太鼓の音が聞こえてくる。この季節ならでは
の風物詩だった。

確かにここ数年、地球の温暖化現象なのだろうか暖かくなっている。大寒に先立ってわ
が家のベランダの寒梅はすでにほころび、庭の山茶花の花は一部散り始めてきた。昨日
の歌の会で”歩き始めのミーちゃんが赤い鼻緒のじょじょはいておんもに出たいと待ってい
る”-と歌ったが,暖冬ですでに”Winter is over,Spring has come"である。暖冬による自然
界への影響はこわいが、高齢者にとっては寒いよりやはり暖かいほうがよい。





     パレスチナ人のストレス、フラストレーション

2009-01-19 06:00:50 | Weblog
イスラエルがパレスチナのハマス組織に大打撃を与え、所期の目的を達成したと
として18日、一方的に停戦した。ところが僅か7時間後には、ハマスがイスラエル
領にロケット弾を発射、再びガザへの空爆を開始した。元の木阿弥である。昨年
12月からの双方の犠牲者は1000人を越えている、というのにまた、解決の先のみ
えない泥沼状態に陥ってしまった。

イスラエルが一方的な停戦宣言をしても、誰も戦闘が中止になるとは思わなかった。
僕もその一人だが、双方の歴史的な対立は根が深く、明らかに米国のオバマ大統
領就任式向けの"アドバルーン"的な停戦では、ハマスがこれにのるわけはない。

パレスチナ人のイスラエルに対する憎しみは僕らの想像を絶している。そして、半世
紀以上にわたって、一向に解決をみない情勢に苛立ちを感じている。そのストレスと
フラストレーションは、これまた想像以上のものがある。現在のパレスチナ人は産まれ
おちた時からこの感情下にある。

僕らには、この感情がなかな理解しにくい。小さな僕の経験だが、十数年前、僕は北
海道の岩見沢のウイークリー・マンションでパレスチナ難民機構からきたヨルダン国籍
二人とレバノン国籍の技術研修員と三か月間寝起きを共にした。僕は日本人の中でも
数少ないアラブを知り、イスラム教にも理解がある人間だが、彼らの屈折した心情はと
ても理解できなかった。地元との摩擦を避けるのに苦労した。

西欧諸国の自分勝手な国境策定の犠牲になって国を追われたパレスチナ難民は300
万人もいる。一朝一夕で問題が解決するとは思えないし、彼らの複雑な心境もよく解る。
20日にはオバマ政権が誕生する。新政権が従来のイスラエルよりの政策を転換し、パレス
チナに理解を示す政策展開をを期待したい。これしか問題解決はない。


          旅の土産と羊羹(ようかん)

2009-01-18 06:28:52 | Weblog
昨日、老妻が町会の日帰りバス旅行(5000円)で成田山新勝寺と鹿取神宮へ出か
けてきた。昼食はホテルでのバイキングという、老人には手ごろな値段だ。残念な
がら僕は参加できなかったが、土産に成田さんの羊羹、それも米屋の栗羊羹を買っ
てきてくれるよう所望した。

米屋の栗羊羹は戦前の東京では、成田さん参りの土産の定番だった。僕の記憶が
間違っていなければ、濃い緑色の包装紙の下に木箱に入り銀紙に包まれて羊羹が
入っていた。僕は栗の大きいのがある部分と端の砂糖が吹き出た部分が好きだった。
こんな少年時代の”郷愁”が老妻への所望となった。

想い出すと戦前(昭和10年代の初め)は、東京でも庶民はあまり旅行をしなかった。せ
いぜい地域社会の講旅行とか学校の修学旅行であった気がする。その旅行の土産に
は、必ず定番があり、成田さんなら米屋の栗羊羹、お伊勢旅行では御幣型の生姜糖、
京都では八つ橋(生ではない)大阪では浪速おこしといったように。子供心にそれがと
ても嬉しく待ち遠しかった。

土産は味もさることながら、入っていた箱や包装も懐かしい。八つ橋はブリキの箱に入っ
ていて食べた後もものいれに使った。土産ではないが、日常食べていたたキャラメルやド
ロップのデザインもその味と共に老人には懐かしくなった。昭和20年代後半から30年代
大流行した「紅梅キャラメル」やママの味がした「ペコちゃんのミルキー」もある年代の人に
は味と共にパッケージも懐かしいはずだ。老舗のヒット食品は、そのパッケージ、デザイン
を残してもらいたいと思うのだがー。

          ある軍医さんへの弔辞

2009-01-17 05:23:27 | Weblog
F先生、本当に驚きました。この正月の2日に先生からお元気な声の電話を頂戴し
来日中のインドドネシア人看護師、介護師の問題について建設的なご意見を賜っ
たばかりでしたのに。

私は先生の人生の一つの横軸をなすインドネシアとの友好親善面で教えを受けた
一人です。ご存知の方が多いと思いますが、先生は戦争中インドネシア・セレベス
島のソンデルという町に陸軍の軍医として駐屯していました。わが国初めての海軍
落下傘部隊が降下したメナド近くの静かな綺麗な町です。

私も数年前先生の紹介で、この町を訪れましたが、私が驚きかつ尊敬したのは戦
争終わって64年にもなりますのに、戦争中、先生の手術を受けて一命をとりとめた
患者や巡回診療で知り合った町民たちとのお付き合いが続いていることです。その
一人で、現在、早稲田大学に留学中のお孫さんからも私宛に弔辞のメールが届いて
います。

先生は戦後、ご本業の医学研究のかたわら独学でインドネシア語の勉強を続け、3
年前のスマトラ大津波の時には、現地に派遣された医療救助隊へ先生が編纂された
「日イ医療辞典」が届けられ役にたちました。先年、先生は長年にわたる日イ友好親
善でインドネシア政府から「Bintan Jasa Pertama」という最高位の勲章を受けています。

92歳という長寿のため、かっての戦友もすでに他界されている方が多く、この式に参列
できないのは残念ですが、どうぞあちらの世界でも戦友や町民たちと一緒にソンデル
の町を思い出し、賑やかにミナハサの歌を楽しんで下さい。

                           合掌

(先生、昨夜のお通夜には(財)日本インドネシア協会会長、福田康夫前首相も列席して
ご焼香して頂きました)





      オバマ次期大統領とナシゴレン(焼き飯)

2009-01-16 06:52:49 | Weblog
米国のオバマ次期大統領は少年時代、インドネシア人と再婚した母親と一緒にジャ
カルタで生活していた。1967年、6歳だった時にハワイから移住し10歳までの4年間、
現地の小学校にも通っている。そんな関係でインドネシアではオバマ氏への親近感
が強く、マスコミも色々と報道している。

オバマ氏一家は当時ジャカルタ中心のメンテン地区の借家に住んでいたが、その家
主が亡くなったことまでニュースになっている。オバマ氏が大統領当選直後,ユドヨノ大
統領との電話会談が行われたが、インドネシア語で行われたという報道もある。現地
人の学校で3年も教育を受けたのだから十分可能だろう。この会談でオバマ氏は再訪
の際は、ぜひナシゴレン(焼き飯)とバソ(肉団子)が食べたいと話したそうだ。

オバマ少年がジャカルタにいた1967年、僕もこの町に勤務していた。オバマ家は僕の
住まいから近くにあり、僕はべチャ(三輪人力車)に乗ってやはり、ナシゴレンやバソを
屋台に食べに行った。当時インドネシアは1965年のクーデター未遂事件のあとで政治
的にも経済的にも大混乱の時代であった。きれいなハワイから来たオバマ少年の目に
は毎日学生のデモが続き、残飯をあさる乞食の姿がどう映つたのだろうか。興味深い。

少年時代のオバマ氏の脳裏に当時のジャカルタの風景が残り、世界の貧困対策の一助
になればと僕は当時の隣人の一人として願っている。


             小豆粥

2009-01-15 12:35:19 | Weblog
きょう1月15日は小豆粥の日。数十年ぶりに想い出し夫婦二人で祝った。
昔は、どこの家でも祝ったものだが、今、都会ではどうだろうかー。少年
の頃、甘いもの好きだった僕は、砂糖を一杯かけて亡き母親に怒られた
ものだ。今はメタポ対策、とてもとても砂糖など入れられない。好くしたも
のだ。




          民放番組と視聴者のディマンド

2009-01-15 06:50:43 | Weblog
先日民放で番組制作していて今は独立のプロダクションの社長をしている若い人と
話し合う機会があった。親子以上に年の違う二人だが、最近の民放番組の”堕落”と
一方でののNHKの"健闘”ぶりという点で意見が一致した。例えば1月5日から13日
の週間視聴率(ビデオリサーチ関東地区)をみると、ベスト30のうち半分以上の13が
NHKの番組で、残りの7つを民放5局で分け合っている。

民放勤務10年の経験を持つ僕でも最近のテレビは見ない。面白くないし下品である。
BPO(報道倫理向上機構)がTBS系の「リンカーン」のセクハラを問題にしていたが、こ
の番組に限らない。僕と意見があったプロダクションの社長によれば、各局の深夜番
組はほとんどエロ、グロ、ナンセンスのようだ。

かって僕の上司だった民放番組制作出身者がよく言っていた。"君たちの感覚で番組
を作ってはいけない。ミーハーが対象なのだから”ー。どうも民放にはこのようなおかし
な伝統が引き継がれている。視聴率によって商売がなりたっている世界だから仕方が
ないといえば仕方がないのだが。

それにしても最近の民放番組はひどい。経済不況を反映してか、視聴率獲得により拍
車がかかっているのだろうか。しかし、"良貨は悪貨を駆逐する”の経済原則通りである。
視聴者は、やはりNHK路線を望んでいる。今の民放番組は視聴者のディマンドを受け
入れていない。その距離が離れているみたいに感じる。



           「恋飯島」(レムパン島)

2009-01-14 06:57:28 | Weblog
名古屋居住の見知らぬ方から電話があった。最近は”振り込め”詐欺が横行してい
るので注意しながら電話にでたが、用件は僕が10年ほど前2回出かけた、シンガポ
ール近くのレムパン島にある旧日本軍の慰霊碑についての問い合わせであった。

レムパン島は敗戦直後から21年にかけて、多い時は8万人もの旧陸海軍将兵軍属が
復員までの間、連合軍によって強制移住させられた島だ。島の大部分は珊瑚礁と赤土
で覆われ人跡未踏といわれた孤島だった。将兵たちはジャングルを切り開き、自活
をはじめたが、持参した食糧がなくなると飢えと栄養失調で犠牲者が続出、182人も
なくなっている。将兵たちは、ご飯恋しさに誰いうこともなく「恋飯島」と呼んだ。

この島の南部に、昔、「南千武」と呼んでいた今は小さな船着場がある。昭和56年無事
生還した戦友たちが犠牲者の慰霊碑を建てた。1999年と2000年、僕は2人の生還者と
一緒に慰霊碑を参拝した。それからでも10年の歳月が流れており、不便な場所でもあ
るので僕も碑の保存を気にしていた。

戦争を知らない名古屋の方は、昨年偶然、慰霊碑を訪れ、碑を保存している現地人の家
にあった名刺から僕に電話をかけてきたのだ。レムパン島は今ではシンガポールから1時
間で行けるバタム島と橋で結ばれている。シンガポールに住んでいる日本人は休日には
プレイ代の安いバタム島へゴルフに来るそうだが、多分100%、「恋飯島」のことを知らない。
関係者以外、誰も戦争の悲劇を語り継がないし教えないからだ。

幸いの事に慰霊碑は村民たちによって綺麗に保存されていたとのことである。

         幸せ一杯 平成生まれの新成人

2009-01-13 07:05:57 | Weblog
平成生まれの新成人が誕生した。昭和もだんだん遠くなりつつある。テレビで東京
ディズニーランドでの成人式をみた。振袖姿の新成人がキャラクターと一緒にニコニ
コ顔で踊っている。ハッピー、ハッピー本当に幸せ一杯な若者たちだ。

成人式が国の祝日となったのは戦後の昭和24年からだ。僕は26年が成人式だった
わけだが、まったく記憶がないし、大人になった意識もなかった。大正を知らない昭
和生まれの新成人は21年の勘定だが、もちろんそんな風習はなかったし世相でもな
かった。都会では焼け跡がまだ残り、人心も殺伐としていた。海外の戦地から帰国
できない若者もいた。

知人のKさんは15歳で満州開拓団に応募して大陸に渡り敗戦後はシベリアに連行され
27年までラーゲルで強制労働に従事させられた。もう一人の知人は中学2年で陸軍飛
行学校に合格、インドネシアのバンドン近くの飛行場で訓練を受け、敗戦後はジャカル
タの外港で連合軍によって強制使役をさせられた。

テレビの画面では男性の新成人が”気合だ気合だ”と気合をかけていた。これも幸せな
平和な風景だ。イスラエルとパレスチナのハマスが依然としてガザ地区で戦火を交えて
いる。すでに双方で1000人近くの犠牲者が出ている。僕ら異教徒からみれば本当に早く
鉾をおさめればよいのにと思うのだがー。とても成人式どころではない。平和の喜びをお
互いにかみしめよう。