「バターン死の行進」の写真を65年ぶりにAP通信が訂正した(小ブログ3月20日)
が、同じような構図の写真が「アジアの教科書に書かれた日本の戦争」(越田稜
著編 梨の木舎 1990年)に掲載され、次のような写真説明がついている。
「オンドネル収容所におけるフィリピン軍兵士の死体運び、1942年6-7月 リコ・
ホセ氏提供)
また「バターン死の行進」について「フィリピンの歴史と政治」という教科書には次の
ように記載している(越田稜氏の本から)
「16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士たちがバターン
で武器を捨てた。降伏後彼らは敵の残忍な扱いを受け,餓え、渇き、疲労で極度
に衰弱していたにもかかわらずバターンからフェルドナンドまで行進するよう強制さ
れた。この悪名高き「死の行進」でフィリピン人約1万人、アメリカ人1200人が路上で
死亡した」
米国側では、この「死の行進」で米国軍兵士など7000人から1万人が死亡したとしフィ
リピン軍兵士の具体的な死亡者数には触れていない。別の推理では、フィリピン人は
行進の途中で逃亡、現地人にまぎれこんでしまったという説もある。いずれにせよ、死
亡者の数ははっきりしていない。
が、同じような構図の写真が「アジアの教科書に書かれた日本の戦争」(越田稜
著編 梨の木舎 1990年)に掲載され、次のような写真説明がついている。
「オンドネル収容所におけるフィリピン軍兵士の死体運び、1942年6-7月 リコ・
ホセ氏提供)
また「バターン死の行進」について「フィリピンの歴史と政治」という教科書には次の
ように記載している(越田稜氏の本から)
「16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士たちがバターン
で武器を捨てた。降伏後彼らは敵の残忍な扱いを受け,餓え、渇き、疲労で極度
に衰弱していたにもかかわらずバターンからフェルドナンドまで行進するよう強制さ
れた。この悪名高き「死の行進」でフィリピン人約1万人、アメリカ人1200人が路上で
死亡した」
米国側では、この「死の行進」で米国軍兵士など7000人から1万人が死亡したとしフィ
リピン軍兵士の具体的な死亡者数には触れていない。別の推理では、フィリピン人は
行進の途中で逃亡、現地人にまぎれこんでしまったという説もある。いずれにせよ、死
亡者の数ははっきりしていない。
APの写真もこの写真も出所は同じです。日本の自虐史感の研究者は、なぜAPの写真の誤りに気がつかなかったのか不思議です。やはり変な先入観があって冷静に検証出来なかったのでしょう。当時の日本軍としては、想像を越えた捕虜の数に対応できなかったし、また、"生きて虜囚になるより”の戦陣訓が徹底していました。