「吾一人」(われいちにん)というのは、親鸞が強調した言葉だったそうです。
五木寛之さんの『なるだけ 医者に頼らず生きるために 私が実践している100の習慣』(中経出版)の中で、この言葉に出遇いました。
「この息は吾一人がための息なり」という思いで呼吸法を実践するようにということですが、私はこの言葉に出逢って、呼吸法とは関係無しに、ただただ気が楽になったのです。
なぜなら生まれて物心付いて以来、「自分自身のためだけに生きる」のはよくないこと、「誰かの役に立てなければ生きてはいけないのでは?」というぐらいに、なぜか罪悪感が深くて、太宰治ではありませんが、ともかく「生きててごめんなさい!」という感じで、この地球上には自分の居場所が無く、どこに行っても落ち着かない感じだったので、「そうかぁ、息だけは『吾一人』のためにあるんだぁ!」と気が付いて、どんなに嬉しかったことでしょうか!
誰にも遠慮せずに息を吸っていいんだ、自分のためだけに呼吸していいんだ、誰かの為に息を吸う必要も吐く必要も無いのだ、、と知って、本当に小躍りしたいぐらいの気持ちになりました。
何だ、そんなことか、何を大袈裟に、、、と思わないで下さいね。
私にとってはこれはほんとうに凄い「大発見」だったのです。
まさにこれだけでも「呼吸」が楽になったのですから、、。
それ以外にもこの本には目からうろこの「養生法」が幾つも出て来ます。
私は読むと即試してみたくなる方なので、昨夜はさっそく「歯磨きをする時は片足立ちをする」というのをやってみました。右足は1分ぐらいいけるけれど、左足は45秒も持ちませんでした。
(ただし、歯磨きをしない時には左足も何とか1分ぐらいは大丈夫でした)
それから「階段はナンバ歩きで上がる」というのもやってみましたら、ほんとに楽でした!
「ナンバ歩き」というのは、日本の古来からの歩き方らしくて、右手と右足、左手と左足を一緒に出すらしいのですが、私の場合、かつてふつうに歩いていてもこんな歩き方を自然にしていたらしいのですが、いつ頃だったかそれに気付いた人に「可笑しい」と笑われてから、止めてしまっていました。
今では意識しないとナンバ歩きも出来ませんが、久しぶりにやってみたら、この方がずっと早く体が前に出易い気がしました。これからもぜひ続けてみようと思います。
その他にも、笑うことや、目の健康法など、いろいろ役立ちそうなことがいっぱい書いてありました。
中でも、嬉しかったのは「高齢者ほど積極的に昔話を」ということです♪
私はとてもおしゃべりが好きで(すぐ自慢話になってしまうのは悪い癖ですが~汗)、特に「昔の話」をつい、つい、長時間してしまうことも多いのです。
そしてその後でいつも反省したり、自分を恥ずかしく思っていたのですが、この本で五木寛之さんの「お墨付き」を得て、これからは堂々と?昔話をしてもいいのだと思うと、思わず顔がニンマリとほころびました。
また、「中心が元気であるためには、末端がいきいきしていなければいけない」という考え方も、さもありなんと思いました。
五木さんはそのような考えのもと、お風呂の中で足の裏や足の指などをていねいに揉むそうです。
これも即誰でも容易に実行出来そうですね。
ともかく難しくて続かないような健康法はやらないということで、これも大賛成!です。
それに「健康診断は受けない」という選択も(その代わり「自己責任」ですが)、私はとても納得しました。
ただ、「髪の毛をあまり洗わない」というのは、ちょっと、、、これはマネ出来ませんね。
それでもあの五木さんのふさふさした魅力的な髪型がそのようなことで保たれていたと知って、その方法はもしかしたら効果があるのかも?しれませんが、果たして「臭い」とかはどうなんでしょうか。
この本は単なるハウツーでは無く、一つ一つの養生法の裏に、ちゃんとした五木さんなりの「哲学」や、豊富な体験の裏付けがあって、読んでいてほんとに面白く惹き付けられました。
一読軽い感じで読み終えることの出来る本ですが、深い「思想」に裏打ちされていて、私はとても感動しました。
最後に最も参考になったのは、自力をあきらめ「他力」にまかせるという考え方です。
(ちなみに『TARIKI』という英文版の本も出ているそうです)
下記に少し引用してみます。(P233~234)
……………………………………………………
あきらめるとは、私は勝手に「自力ではあきらめきれんとあきらめた他力にすがる他に道すべなし」と考えています。自力ではあきらめきれない。
あきらめることもがんばってあきらめようとしても無理ですから、自力と他力はいつも双頭になっているのです。
(中略)
「他力にまかせよう」ということも決意です。
「一切後悔しない、と決めるのも、ひょっとしたら自力ではないですか?」と言われたら、「そうかな」と思います。
さらに、他力の専門家に言わせると「いやいや、そういうふうに自分で決断しようという心が起きたことが、他力のささやきなのだ。他力の呼びかけで自分がそういうふうになったのだから」と言いますから、言葉のあやでしょう。
(以上、引用終わり)
私もずっと自分の中で長くこだわり続けていることがあって、なかなかあきらめがつかないのですが、そんな時にこの本をふと手に取ったことも何かの縁かもしれません。
特に下記の言葉には助けられました。
ーーー 「やった方がよい」と思いつつどうしてもできないときは、「今は縁がないのだ」と考える。
そのときがくれば、やらずにいられなくなる。 ーーー
100の「養生法」の中には、「気休め、骨休め、箸休め」についても取り上げられていましたが、私にとってこの言葉は大いに「気休め」になりました。
そして、しばらくブログの更新をしていなかったので、「更新した方がいい」とずっと思いながらなぜかなかなか腰が上がらず、忸怩たる思いで自分を責めていたのですが、この本を読んでかなり救われました。
実は、過日名古屋に出かけて以来、また風疹にかかってしまい、しばらく「養生」していたのです。
昨年も同じ時期頃に罹患したので、「えぇっ、一度かかると抗体が出来てもうかからないのじゃないの!?」と驚かれる人もいるかと思いますが、私もそう思っていたので、二度もなるなんて我ながら意外でした。
それでも昨年よりはずっと軽く済んで、(微熱とか頭痛もあったのですが)おかげさまで治りも早いようです。
ところで、名古屋のセミナーでは私は初めて「宇宙語」★ を聴きましたが、何と五木さんの場合は「身体語」☆ を聴くことが出来るそうで、いつも身体と会話しているので一人の時でも全くさみしくないそうです。
私もこれからさっそく「身体語」☆ に耳を傾けます♪
というわけで、ようやく「そのとき」が来たようで、本日無事更新が出来ました。
いつもご愛読ありがとうございます♡ どうぞ皆様も風疹にはくれぐれもお気を付けて!
あっ、その前に台風が近づいているようですので、無事に過ぎますように・・と祈っています。
五木寛之さんの『なるだけ 医者に頼らず生きるために 私が実践している100の習慣』(中経出版)の中で、この言葉に出遇いました。
「この息は吾一人がための息なり」という思いで呼吸法を実践するようにということですが、私はこの言葉に出逢って、呼吸法とは関係無しに、ただただ気が楽になったのです。
なぜなら生まれて物心付いて以来、「自分自身のためだけに生きる」のはよくないこと、「誰かの役に立てなければ生きてはいけないのでは?」というぐらいに、なぜか罪悪感が深くて、太宰治ではありませんが、ともかく「生きててごめんなさい!」という感じで、この地球上には自分の居場所が無く、どこに行っても落ち着かない感じだったので、「そうかぁ、息だけは『吾一人』のためにあるんだぁ!」と気が付いて、どんなに嬉しかったことでしょうか!
誰にも遠慮せずに息を吸っていいんだ、自分のためだけに呼吸していいんだ、誰かの為に息を吸う必要も吐く必要も無いのだ、、と知って、本当に小躍りしたいぐらいの気持ちになりました。
何だ、そんなことか、何を大袈裟に、、、と思わないで下さいね。
私にとってはこれはほんとうに凄い「大発見」だったのです。
まさにこれだけでも「呼吸」が楽になったのですから、、。
それ以外にもこの本には目からうろこの「養生法」が幾つも出て来ます。
私は読むと即試してみたくなる方なので、昨夜はさっそく「歯磨きをする時は片足立ちをする」というのをやってみました。右足は1分ぐらいいけるけれど、左足は45秒も持ちませんでした。
(ただし、歯磨きをしない時には左足も何とか1分ぐらいは大丈夫でした)
それから「階段はナンバ歩きで上がる」というのもやってみましたら、ほんとに楽でした!
「ナンバ歩き」というのは、日本の古来からの歩き方らしくて、右手と右足、左手と左足を一緒に出すらしいのですが、私の場合、かつてふつうに歩いていてもこんな歩き方を自然にしていたらしいのですが、いつ頃だったかそれに気付いた人に「可笑しい」と笑われてから、止めてしまっていました。
今では意識しないとナンバ歩きも出来ませんが、久しぶりにやってみたら、この方がずっと早く体が前に出易い気がしました。これからもぜひ続けてみようと思います。
その他にも、笑うことや、目の健康法など、いろいろ役立ちそうなことがいっぱい書いてありました。
中でも、嬉しかったのは「高齢者ほど積極的に昔話を」ということです♪
私はとてもおしゃべりが好きで(すぐ自慢話になってしまうのは悪い癖ですが~汗)、特に「昔の話」をつい、つい、長時間してしまうことも多いのです。
そしてその後でいつも反省したり、自分を恥ずかしく思っていたのですが、この本で五木寛之さんの「お墨付き」を得て、これからは堂々と?昔話をしてもいいのだと思うと、思わず顔がニンマリとほころびました。
また、「中心が元気であるためには、末端がいきいきしていなければいけない」という考え方も、さもありなんと思いました。
五木さんはそのような考えのもと、お風呂の中で足の裏や足の指などをていねいに揉むそうです。
これも即誰でも容易に実行出来そうですね。
ともかく難しくて続かないような健康法はやらないということで、これも大賛成!です。
それに「健康診断は受けない」という選択も(その代わり「自己責任」ですが)、私はとても納得しました。
ただ、「髪の毛をあまり洗わない」というのは、ちょっと、、、これはマネ出来ませんね。
それでもあの五木さんのふさふさした魅力的な髪型がそのようなことで保たれていたと知って、その方法はもしかしたら効果があるのかも?しれませんが、果たして「臭い」とかはどうなんでしょうか。
この本は単なるハウツーでは無く、一つ一つの養生法の裏に、ちゃんとした五木さんなりの「哲学」や、豊富な体験の裏付けがあって、読んでいてほんとに面白く惹き付けられました。
一読軽い感じで読み終えることの出来る本ですが、深い「思想」に裏打ちされていて、私はとても感動しました。
最後に最も参考になったのは、自力をあきらめ「他力」にまかせるという考え方です。
(ちなみに『TARIKI』という英文版の本も出ているそうです)
下記に少し引用してみます。(P233~234)
……………………………………………………
あきらめるとは、私は勝手に「自力ではあきらめきれんとあきらめた他力にすがる他に道すべなし」と考えています。自力ではあきらめきれない。
あきらめることもがんばってあきらめようとしても無理ですから、自力と他力はいつも双頭になっているのです。
(中略)
「他力にまかせよう」ということも決意です。
「一切後悔しない、と決めるのも、ひょっとしたら自力ではないですか?」と言われたら、「そうかな」と思います。
さらに、他力の専門家に言わせると「いやいや、そういうふうに自分で決断しようという心が起きたことが、他力のささやきなのだ。他力の呼びかけで自分がそういうふうになったのだから」と言いますから、言葉のあやでしょう。
(以上、引用終わり)
私もずっと自分の中で長くこだわり続けていることがあって、なかなかあきらめがつかないのですが、そんな時にこの本をふと手に取ったことも何かの縁かもしれません。
特に下記の言葉には助けられました。
ーーー 「やった方がよい」と思いつつどうしてもできないときは、「今は縁がないのだ」と考える。
そのときがくれば、やらずにいられなくなる。 ーーー
100の「養生法」の中には、「気休め、骨休め、箸休め」についても取り上げられていましたが、私にとってこの言葉は大いに「気休め」になりました。
そして、しばらくブログの更新をしていなかったので、「更新した方がいい」とずっと思いながらなぜかなかなか腰が上がらず、忸怩たる思いで自分を責めていたのですが、この本を読んでかなり救われました。
実は、過日名古屋に出かけて以来、また風疹にかかってしまい、しばらく「養生」していたのです。
昨年も同じ時期頃に罹患したので、「えぇっ、一度かかると抗体が出来てもうかからないのじゃないの!?」と驚かれる人もいるかと思いますが、私もそう思っていたので、二度もなるなんて我ながら意外でした。
それでも昨年よりはずっと軽く済んで、(微熱とか頭痛もあったのですが)おかげさまで治りも早いようです。
ところで、名古屋のセミナーでは私は初めて「宇宙語」★ を聴きましたが、何と五木さんの場合は「身体語」☆ を聴くことが出来るそうで、いつも身体と会話しているので一人の時でも全くさみしくないそうです。
私もこれからさっそく「身体語」☆ に耳を傾けます♪
というわけで、ようやく「そのとき」が来たようで、本日無事更新が出来ました。
いつもご愛読ありがとうございます♡ どうぞ皆様も風疹にはくれぐれもお気を付けて!
あっ、その前に台風が近づいているようですので、無事に過ぎますように・・と祈っています。