すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

この春、中一になる甥っ子へ。

2015-02-27 12:19:53 | ひとりごと
川崎の中一殺害事件がどうしても気になっています。この春、甥っ子が中一になるので余計にかもしれません。その甥っ子に伝えたいことがあって、文章にまとめてみました。春休みに会うので、その時のためのメモです。


甥っ子君へ

春がやってきたら、いよいよ中学生だね。君の学生服姿、おばさん、楽しみだな。とっても似合いそうだ。

改まってなんなんだけど、君が中一になるにあたって、おばさんから伝えたいことがあります。

川崎で中一の男の子が殺された事件は知ってるよね?君は、あの事件で何を感じたかな?何を考えたかな?

実を言うと、あの事件のこと、殺された男の子のこと、が、最近おばさんの頭のかなりの部分を占めています。

男の子の笑顔いっぱいの写真を見ると、男の子の魅力的な人となりが伝わってくるよね。ニュースから伝わる少ない情報だと、明るくて、クラスの人気者で、スポーツ万能で、人懐こくて、集団の中にいると一際目立つ存在だったみたいだね。

小学校生活を送った島根県の島の友達や校長先生からのコメントを聞くと、男の子がどんなにかたくさんの人から親しまれ可愛がられていたかがわかります。


君には少し迷惑かもしれないけれど、おばさんには、この男の子が、どうも君と重なってしまって、胸のざわつきを抑えられません。

君がこの春、男の子と同じ中一になるというだけじゃなくて、集団の中での男の子の存在感と君の存在感の種類が何だか似てる気がしてね。

君が男の子みたいに事件に巻きこまれる可能性なんてまずないんだけど、でも、
少しだけ、耳を傾けて欲しいんだ。

君は、大人のおばさんですら羨ましくなるような数々の素晴らしい資質を持っている人です。

勉強も運動も万能で、ゲームやらせても、スポーツやらせても、簡単にマスターしてすぐに抜きん出てしまう。クラブのキャプテンや児童会長のほか、小学校では色んなリーダーもこなしてきたよね。ひょうきんで、いたずらも大好きな君は、自他ともに認める人気者でした。

ところでさ、君の友達がそんな君を見る目について考えたことはある?みんな、君のことどう思ってるんだろうね。「楽しいから好きだ」「いっつも前に出て羨ましい」「何でもできて憧れる」「僕だって捨てたもんじゃない」「別に何とも思わない」みたいな感じかな。

君ほど学校で目立つ存在だと、多分嫉妬みたいな感情を持つ友達はいるだろうけど、でも今の君の友達は、みんな正しい方法でその嫉妬を消化できる友達なんだろうね。君が嫌な思いをしていないところを見ると、きっとそうなんだろう。

君のお兄ちゃんも、嫉妬とは違うかもしれないけれど、常に君の凄さを目の当たりにして育ってきたんだから、弟が自分にはないものを持っているヤツだ、という認識の仕方はしていそうだね。でも、君のお兄ちゃんは、そんな君のことをいつも「コイツ、すげー」って口癖のように言うから、君のことが好きだし、君を誇りに思ってるのがわかる。

君は、もしかしたら、それだけ目立つヤツなのに人に嫉妬させない能力も持っているのだろうか。だとしたら、あっぱれだ。


たださ、中学校に行くと、今よりももう少し社会が広がる。楽しい、面白い、個性的な友達との出会いが増える一方で、想像を絶する環境で育ってきた子達、色んな傷を抱えている子達との出会いも増えると思うんだ。

そういう子達から学ぶことがあったら多いに学んで欲しい。傷をうまくバネに変える生き方をしている子は、本物のカッコイイヤツだからさ。

でも、中には、君が直接何かをしなくても、君みたいな眩しい存在に勝手に傷ついてしまう子がいるかもしれないんだ。それに、君に嫉妬を感じたときに小学校の友達のように正しい仕方ではなくて、「君を傷つける」というやり方で君と関わろうとする子もいるかもしれない。

おばさんは、学校ではフツーの子供だったから、君みたいに、存在自体が派手で目立つ人の気持ちは実はよくわからないけど、目立たない側の目立つ人に対する複雑な気持ちは何となく想像できる。自分が直接には体験してない気持ちでも、人生の中でいろんな人の気持ち触れる体験をしてきたからね。そういうのはね、大人の世界には、もう当たり前にあふれている気持ちなんだよ。

大人になると、そのごまかし方もだいぶうまくなるものだけど、これから君が迎える思春期という時期は、傷を抱えた子の傷がよりむき出しになって、でも自分ではなんともできなくて、その傷を他人を傷つけることで晴らそうとする子もいると思うんだ。

これは、偏った考えかもしれないけれど、集団の中では、その矛先が目立つ人と弱い人に向かいがちなんだよね。

君は、間違いなく、中学校でも目立つ人の1人にはなるだろうから、おばさんは君のそんなところを誇りに思う反面、心配にもなるんだよ。多分、おばさんの心配症のせいなんだけどね。

君にお願いしたいのは、傷ついている子達を劣った子達だとは思わないで欲しいってこと。その上で、どうも違うな、怖い子だなって思ったらきちんと距離を置くってこと。その子の傷に気付いた時には、その傷に絶対に触れないでいてあげる事も忘れないでほしいんだ。

小学校の時みたいに目立つようなことしたらダメ、って聞こえたかな。そうじゃないんだ。

中学校になったら、君が君らしくいられる生き方はそのままでいいから、目立つ人として存在する君が誰かを傷つることがあるかもしれないな、ということに少しだけ思いを馳せてほしい。自分のふるまいに少し意識を向けてほしい。難しい宿題だけど、器用な君ならそれもできるよ。

傷つきやすい人というのは、ほんの少しのことにとっても敏感だからね。ほんの少しのことが、君を守るような気がするんだよね。

そして、万が一なんだけど、自分が明らかに傷つけられてる、と恐怖を感じることがあったら、その感じをごまかさないで欲しい。君が恐ろしい、と感じる程度のことは、君ひとりの手に負えることではないし、君の落ち度とは無関係なんだから。

恐ろしことをする人の言葉には、絶対に耳を貸してもいけない。脅し文句や弱虫呼ばわりしても、そんなの嘘だから反応しちゃダメだ。

そういうことは、大人に投げてください。お母さんに投げてください。信頼できる大人に投げてください。

大人のいいのはね、解決方法をたくさん持っているということ。自分が持っていなくても、持っている人を探して相談できるってことなんだ。

君のお母さんは、君の言葉をきちんと聞いて、解決方法を探せる人です。君を誰より愛しているから、絶対に君の悪いようにはしないよ。

思春期で、お母さんに話せないって気持ちが強かったら、おばさんを思い出してくれたら嬉しいな。

おばさんは、逃げるのが大得意で、要所要所で怖いことから辛いことから逃げてきたんだ。それで結果、悪くない人生を送ってるんだから、逃げることが悪くないことを知り尽くしている大人です。逃げたくなった時には、存分に知恵を貸すよ。ほんとだから。


君の晴れがましい中学校入学という節目の時に、ずいぶん水を差すようなことを言ってしまったね。気を悪くしたらゴメン。おばさん、書きながら気持ちが落ち着いたよ。それで、なーんだ、君は大丈夫って思えてきたよ。

うん、君は大丈夫だ。


君の中学生活に、幸あれ!


おばさんより




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逃げてよし。

2015-02-25 10:01:27 | My メソッド
逃げないっていうのは、

いじめや
不当な暴力や
自分を毒する環境

から逃げないってことじゃない。

逃げないっていうのは、
生きることから逃げないってこと。

より良い人生
幸せに生きること

その工夫、
そのための努力から逃げないことなんだ。

自分をズタズタにする関係
自分を踏みつけにする行為
自分の身体に、
自分の心に致命傷を負わせる環境

そこから逃げることは
生きることから逃げないってこと。
幸せに生きることから逃げないってことだ。


だから、逃げてよし。

そんなところからは、
全速力で逃げてよし。
後先考えずに、逃げてよし。



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「気持ち良さ」をモットーに。

2015-02-23 11:59:49 | My メソッド
あれから、ひたすら、脳のことばかり考えています。

「脳を観察する私」という視点が気に入ってしまいました。あらゆること、自分の心に起きる現象を、脳が起こしている、脳で起きている、と考えてみると、ずいぶんと気持ちが落ち着きます。楽です。

これまでも、自分を客観的にみる癖はついていました。

腹を立てる自分、
イライラする自分、
その言葉に傷つく自分、

といった感じで、「私」と「自分」を切り離す作業。

でも、「自分」というワードは、「私」ととても距離感が近いので、「自分」=「私」の公式が自動的に発動して、客観的という実感は薄かったかもしれません。「腹を立てている」、「イライラしている」、「傷ついている」という出来事を俯瞰する力は弱かった気がします。何度も何度も飲み込まれましたから。

でも、そこに脳を登場させると、「私」と私の中で起きている「現象」にしっかりとした距離ができます。

私の中で起きている現象は、私の脳の癖が起こしている。しかも、その癖は生まれつきの性質と、これまでの人生で私の思考や感情が刻んだ台本によって形成されているということ。

もちろん、その癖は、良い癖でもなければ悪い癖でもない。ただ、そういう癖ということ。

腹を立てるのも、イライラするのも、その言葉に傷つくのも、脳の癖。

心、生き方、性格、っていう目に見えないもので私を表現するよりも、脳という物体を関与させることで、私という現象がよりわかりやすくなる気がします。

距離ができたところで、その脳の癖が、私(身体や魂とか)を苦しめるのなら、その癖を少しずつ、変えていこうという気持ちになれます。



ここで、少し違う角度からお話をします。

やりたいことやる、やりたくないことをやらない。

そんなミッションを掲げて生きていくことを楽しもうとしましたが、実は、わからなくなってしまうことがありました。


やりたいことってどこまでをいうの?

過度なネットサーフィン、夜中の暴飲暴食、二度寝、も、やりたいことと言えばやりたいことなんだけど。

やりたくないことってどこまでをいうの?

毎日の掃除、弁当づくり、きちんとした姿勢、もやりたくないことといえばやりたくないことだけど。


でも、ここにあげたやりたいことをやりたいままに、やりたくないことをやりたくないままにやっていたら、何かが、うん、私の中の全体が「苦しい」「すっきりしない」と言いだした。あるいは、言いだすことがわかっているのです。

それで気付いたのが、多分、やりたいこと、やりたくないこと、には、2種類あるってことです。

一つは、脳の反射・反応としてのやりたいこと、やりたくないこと。

もうひとつは、私全体(この中には脳も入る)のやりたいこと、やりたくないこと。

そして、私が探しているやりたいこと、やりたくないことは間違いなく後者。

さらに、その二つを見分けるのは、「気持ち良さ」なのかな、という着想が自分の中に生まれました。この「気持ち良さ」を感じている時というのは、まさに脳と私全体の双方が一致してる感じがします。


「掃除は面倒だ」と脳が言っていても、やってみると「気持ちいい」と私全体が言っている。ならば、掃除が面倒と言っている脳を説得するのが、脳を含め私全体が「やりたいことをやる、やりたくないことをやらない」ための最善の道ということになります。

大切なのは、説得であって、強制はNGでしょうね。「ねばならない」という発想をすると、ほとんどの脳は抵抗して、新しい反射を生んでしまうからです。脳の性格や台本によって、優しく促したり、サボることを認めたり、時に積極的に尻を叩いたりしながら、脳を説得するのがいいのかなって思っています。

最初からあれもこれもと欲張らずに、あくまで「脳くん、頑張って」「これやると気持ちいいよ~」という寛容なスタンスなんでしょうね。

もちろん出来なかったときには、間違っても「やっぱりできなかった」、「サボり脳め!」なんてののしったり、責めたりしたら逆効果。

出来なかったことはさらっと流し、出来たことを認めていく、というのも脳に気持ちよく働いてもらうためには必要なことです。

脳の観察、しばらくマイブームになりそうです。

ちなみに、軽いタブレット依存は、脳との駆け引きによりかなり改善。私の脳、頑張りました(*^^*)



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手帳のはなし。

2015-02-20 11:44:54 | 日記・できごと
そろそろ、今年度も残り一月余り。四月を前に、わたくしが購入したのがこちら。



手帳です。

私の手帳は、大学を卒業して以来、ずっと四月始まりなんです。

が、この四月始まりは、下の記事によると、かなりの少数派みたいですね。知りませんでした。

4月はじまりの手帳を使っているのはどんな人たち?

ちなみに割合としては、

1月始まり 85%
4月始まり 15%


だとか。どうりで、この時期に本屋さんや雑貨屋さんを覗いても、四月始まりの手帳の品揃えが少ないわけですね。


思えば、社会人になった春に買ったのは、レザー貼りのシステム手帳。キャメル色でした。当時は、システム手帳がはやっていた記憶があります。

分厚くて、重みのある手帳が、キャリアウーマンとして生きていくんだ、という22歳だった私の決意表明の象徴でもありました。うーん、いじらしい。

でも、三年くらい使って買い替えましたね。やっぱり重かった。

それから、段々と手帳は薄くなり、システム手帳から一年毎の手帳へと仕様も変化。

年齢や環境や気分。手帳の変化は、自分のそんな変化とも重なっています。

ここ数年は、冒頭写真の超薄型手帳。「手帳は高橋」でお馴染みの高橋書店でおそらく一番安いシリーズ、リベルデュオです。税抜き600円也。

マンスリーとメモのみ、というシンプルさと軽さ、カラーバリエーションの豊富さも気に入ってます。スマホもあるし、今はこれで十分。

今年の色は、「ローズグレイ」。グレイの色味は感じられない、淡いピンクで、とっても上品。

さあ、新しい手帳で、気分あげていくぞ!




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脳との付き合い方。

2015-02-19 13:28:57 | 心理メソッド・生き方
最近、いろんなことの手抜きに慣れてしまって、なんとなく生活がだらしなくなっているな、と感じます。家にいる時はネットをやりすぎてしまって、SNSの情報にも一喜一憂して、感情が泡立つ。「見なきゃいいのにな」とどこかで思いつつ、「ついつい」を繰り返してしまいます。

これは、自分が自分をダメにしている感じなんですよね。五感で「気持ち良さ」を感受する感覚が落ちて、脳ばっかり使っている感じです。

そんな中で手に取ったのが、この本。

『考えない練習』小池 龍之介

著書の小池龍之介さんは、東大出身の異色の僧侶。親や妻へのDV、離婚、その他かなりの壮絶体験をくぐりぬけ、坐禅・瞑想に出会い、その厳しい修行によって自分で自分を救った方です。

図書館で予約していたのだけど、この時期に届いて、あまりのトンピシャな内容にシンクロニシティを感じました。この本、たぶん、買います。


興味をひいたものを上げてみます。

・脳という情報処理装置は、自分の大好きな刺激を得るためなら私たちが苦しんでいてもお構いなく考え続ける、ヤクザな物体なのです。

・無意識の思考(意識できないほどの短時間にあらわれては消える思考)が引き金となり、次々と新しい思考が連鎖して、私たちを考えさせているのです。たとえば、「がーん、どうしよう」という思考から連鎖し、「この仕事が失敗したらどうしよう」とか、「もし失敗して、あの人からバカにされたらどうしよう」とか、思考が勝手に暴走し始めるかもしれません。

・思考がぶつぶつと増殖すればするほどに、心のメインメモリは無駄な雑念に食いつくされてしまいます。



最初の脳の話しは、まさに私のことです。脳は、刺激を追い求めるようにあらゆる情報をさまよい、不快→快、快→不快の落差を味わいだかるヤツなんですね。そして、満足できる刺激はどんどん強くなっていくという。

ネットの情報は脳を刺激する材料に事欠きませんから、最近の私の脳はちょっとそんな状態なのかもしれません。脳は目的を達成しても私(自己)や私の身体は、気持ちよくない。むしろ、息苦しさを感じています。

考えてみれば、ギャンブルがその最たるものです。一度強烈な勝ちを体験すると、脳がさらなる勝ちという「快」を求めて暴走し、自分がボロボロになるまで意思の力ではとてもストップがきかなくなる。ギャンブルにはまってしまうというのは、自分が自分の脳をコントロールできなくなる状況です。

脳=私(自己)になると脳の暴走を止められなくなりますが、脳と私との距離を置いて、脳を客観的に眺めてみることができれば、脳がすることを私がコントロールすることは可能です。

そのためには私の側の感覚、身体の中のすっきりしない感じ、気分の淀みを、まだ軽症のうちにキャッチすることですね。私の側の悲鳴が軽い内ならば脳を落ち着かせることは難しくないはずです。


一方、無意識の思考が連鎖して、イライラや不安を引き起こすというのは、心理学でもよく言われることです。「自動思考」といって、意識するよりも早く勝手に脳が自分の台本によって思考を始めてしまうのです。

たとえば、「知り合いを見かけたけれど、こちらに気付かないで去って行った」という【事実】があったとします。

脳の台本の書き込みに悲観事項が多いと、「私のことを避けているんだ」とか「この前のことを怒っているんだ」とか「私が何か悪いことをした?」という【思考】が自動的に発生します。

その【思考】から生まれる【感情】が、不安、イライラ、怒りで、それが高じると当然心身の不調につながります。脳にはさらにこのサイクルが刻まれ、ますます悲観的な台本は強化、固定化されます。

小池さんのこの本では、自動思考は本当に瞬間的に脳内を駆け回るので、たとえば、批判されたら落ち込むという自分の脳の傾向を知ることと、その出来事に対して自分の脳がどう反応するかを予想して身構えておくことの大切さを書いています。

具体的には、誰かに嫌なことを言われそうなときに、

「あ、この人(自分のことです)は、あと一言、言われたら落ち込み始めるよ」と身構えておく

というようなことです。

自分の脳の性質を知っていれば、感情にフィードバックさせることを和らげることもできますし、その脳が反応しやすい場面をできるだけ避けることもできるかもしれません。

あと、こうして脳、思考のおしゃべりが多い人(私です)は、五感の働きが弱っていて、生きる実感が薄れがち。まずは、目の前のこと、炊事でも、洗濯でも、散歩でも、具体的に指先、目、耳の感覚に意識が向けるような訓練をしてもいいかもしれません。

余計な考え、特に自分を苦しめる思考が流れてきたら、とりあえず呼吸に意識を向けるのもシンプルかつ効果の高い方法ですね。


これもシンクロなんですが、昨日、田口ランディさんはこんなことをつぶやいていました。






ランディさん、最近よく脳についてつぶやいておられるなぁとは思っていましたが、今まではほぼ素通り。でも、昨日はキターって感じでした。

この発想、もらい!です。

脳が家来で、私が主人。

私の脳の弱点は、すぐに落ち込みやすく、人の顔色を気にしやすいところ。脳に刻まれた台本はなかなか書き直されないけれど、その特性を知っていれば、その都度、なんらかの手立てを講じることはできそうです。

時に命令したり、肯定的な言葉をかけたり、時に甘やかしたり、と、普段から育てていく感覚で脳と付き合って行くのも楽しそう。ただし、家来の脳を上手くコントロールする術は、毎日の小さな努力が欠かせないでしょうね。

とりあえず、昨日から、私の脳には「タブレット開くのは基本昼休みと夕食後だけね」と優しく命令しときました(笑)。聞いてくれるまで、あせらず、あきらめず命令するつもりです。



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加害者をおりる。

2015-02-17 11:50:14 | 育児・母稼業
息子にイライラする場面というのは多々あれど、一番イライラ感が強いのがこんな場面。

「お母さん、トミカのアルファードがないんだよ!!
どこ行ったんだよ。もうっ、どこにもないんだよ。探してくれよ」

「ん?朝はあったのに?ちゃんと探したの?」

「だからぁ、ずっと探しているのにないんだってば」


この、「だからぁ」の「おかあさん、あんたも、もうわからん人だな」的な言い方がすごく癇に障ってさらにイライラします。少なくとも「ずっと」なんてのは、絶対ウソ。物がなくなると父や母が探すのが当然と思っています、こやつは。


「自分でなくしといて、探してくれよって言い方はないんじゃない?そこは、『探してください』ってお願いすることなんじゃない?」

「もう、わかってるって。探してよ、早く」


とまあ、こんなやりとりが年がら年中繰り広げられ、結局私が探す羽目になっていました。そして、私のなかに常に「もう、なんで私がっ」というモヤモヤが残ります。おもちゃは見つかるも、息子はほどなく違うおもちゃをなくし、またこの不毛なサイクルが繰り返される、という。


育児本だと、

「じゃあ、お母さんと一緒に探そうか」

みたいな感じになるんでしょうか。お母さんは、子供の気持ちに共感してまずは子供の気持ちを落ち着かせ、一緒に探し方も教える。さらには、物が簡単になくならないように生理整頓の仕方も徐々に伝えていく、みたいな。

私には、そんなまどろっこしいことはとうてい無理なので、最近新しい作戦を思いつきました。でもって、かなりの効果を上げています。その作戦とは…



加害者をおりる。


もっといえば、

息子を加害者にして、私が被害者になる。



「えーっ、お母さんがこの前買ってあげたアルファード、もうなくしちゃったの?ちょっとそれはないんじゃない」

(せっかく買ってあげたのに、どうしてくれるんだい、私、被害者ですけど、というニュアンスを込めて。)

「あっ、あー、わざとじゃないんんだよ」

「わざとじゃなくてもさー。失くすってどういうことよ」

「あー、ご、ごめんなさい」


母の思わぬ反撃にびっくりした息子の顔が引きつります。「ま、まずい。おもちゃ探してる場合じゃない」と思っているのか、どうかはわかりませんが、明らかに形勢逆転。

そして、加害者らしく殊勝な顔になって、静かに違うおもちゃで遊び始めます。で、何日かして失くしたおもちゃが出てきて、

「おあかさん、あったよ、あった。ボク、なくしてなかったよ」

と息子の歓喜の声。加害者から抜け出せて、すっきりした様子です。私は、「へえ」と薄い反応(イヤな母ですね)。

もちろん毎回このパターンがうまくいくわけではありませんが、でも勝率はかなりのもの。なにより私の中のモヤモヤ感は少ないのがいいです。

だって、どちらかというと、これが本来の姿ですよねー。そもそも息子は被害者ではなくて、私も加害者ではなかったのだから。逆なんだから。

これまでのやりとりは、おもちゃをなくしたという過失を犯した息子が被害者になりすまし、過失のない私が加害者にされていたんです。

親子という慣れ合いの構造から、息子の中には「自分のやったことの責任は親がとるもの」という意識が勝手に根付いていたからですよね。

こういう甘えの心理は、赤ちゃんの時期にはむしろ大切なコミュニケーションです。赤ちゃんが泣いたらお母さんがあやすというのは、お母さんが赤ちゃんの感情に全面的に責任を負ってそれを解消しようとする行為ですから。それが、親しい人間関係を構築していくんですものね。

でも、息子も5歳。いつまでも赤ちゃんコミュニケーションは通用しません。少しずつ少しずつ「自分のやらかしたことの尻拭いは自分でやる意識」と、「自分がしでかしたことで人の力を借りる時にはそれなりの『お願い』の作法がある」ことを学んでもらわなくちゃ。

おそらく幼稚園などではそれなりにできているんでしょうが、家のなかだって「親しき仲にも礼儀あり」というルールは最低限必要ですからね。

高尚な考えがあるわけではなく、私は、自分には非がないのに、文句を言われながらおもちゃを探さなくちゃいけないことが、どうにもこうにも我慢ならなったわけです。

で、そうか、と気付きました。私の中にあったのは、他人がとるべき責任を自分が取らされていることへのモヤモヤだったんだな、と。つまり、私のモヤモヤは自分への不当行為に対するまっとうな反応ですよね(少々大げさですが)。


大人になっても、こういう子供の甘えを引きずる人は少なくないです。自分のしでかしたことや、自分の感情の責任を親しい人に取らせようとする人。赤ちゃんコミュニケーションで親しい人と関わろうとする人。

妻と一緒にいる時だけ不機嫌な夫というのは、まさにそのタイプ。こういう人のことを「甘えられるのは妻だけだから」と擁護する向きもありますが、こうした意見は本当に嫌いです。

私の友だちでも、そういう夫に悩まされている人が結構います。優しい彼女たちは、「なんで、私が」と思いつつ、不機嫌な夫に反論できず、苦しんでいます。悪いのは相手なのに、被害者はむしろ自分なのに、まるで自分が相手に何か悪いことをした加害者みたいな位置づけにされています。で、そこから抜けられない。加害者からおりられない。

こういう場合の「なんで、私が」は、ものすごくまっとうですから、この気持ちを大事にしてほしい、相手の都合「疲れてる」とか「仕事が忙しい」なんて真に受けちゃだめ、っていつも話したりします。

だって、自分の責任をちゃんと自分でとらせてあげるのって、相手を大人として認めることだし、実は愛情なんですよね。

不機嫌な人はほっておく、相手にしない、というのが一番いい方法だと思いますが、優しい人はこれがなかなかね。

そっけない人には自分もそっけなく、と前に書きましたが、不機嫌な夫にはそれ以上に自分も不機嫌に。私だったら絶対にそうするんですけどね。

何はさておき、息子の将来の奥さんには、こんな思いをさせたくないな、ってつくづく思います。


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「味方です」を伝えたい。

2015-02-15 19:20:59 | ひとりごと
電車の中など公共の場所で、泣き叫ぶ赤ちゃんを必死にあやしているお母さんの姿を見ると、かつての自分が重なって、身につまされます。

先日も行きつけのレストランで、赤ちゃんを抱っこしたお母さんと赤ちゃんのお姉ちゃんとおぼしき4、5歳の女の子が食事に来ていましたが、料理が運ばれてきたとたんに赤ちゃんが愚図りだしてしまいました。

お母さんは立ち上がって赤ちゃんをあやしますが機嫌は悪くなるばかり。いったんお店の外に出て赤ちゃんが落ち着くと戻り、また泣き出すと外に出る。そんなことを何度か繰り返しましたが、赤ちゃんの機嫌はもどりません。

お店の人が、時折優しく声を掛けていましたが、お姉ちゃんが大方食べ終わるのを確認すると、お母さんは、ほとんど自分の料理に手をつけることなく、店を後にしました。

お母さんのお皿の揚げ物やお味噌汁から立ち上る湯気と、諦めたような、疲れきったような、お店の人に無理やり微笑んで見せたお母さんの表情が忘れられません。

その場を代表して、お母さんに「ごめんなさい」とでも言いたい気分でした。

男性の咳払い、赤ちゃんの泣き声が大きくなった時に一斉に集まる視線。お母さんの方を見ないようにする人たち。お母さんには、それが自分を責める所作に感じたのだろうと思います。

「うるさい」なんて言う人はいなかったけれど、彼女を気遣うような寛容な雰囲気は全体的にはなかったかもしれません。

もしかしたら、いや多分、男性はたまたま咳払いしただけだし、ほとんどの人は大きな泣き声がしたから見ただけだし、逆に気詰まりだから見ないようにしただけ、なんでしょうが、その状況のお母さんにはとてもとてもそんな風に思えないはずです。

そう想像するのは、私がそういう感じを何度となく経験したからです。息子が赤ちゃん時代には、電車もバスもレストランもいろんな人に監視されているような気分だったからです。

息子が1才前に飛行機に乗らざるを得ない状況になった時には、フライト中、周囲の乗客に迷惑にならないようにしなくては、と張り詰めた神経がゆるむことはありませんでした。幸い、泣き叫ぶような事態は免れましたが、あの日のことを思い出すと、今でも胃のあたりがキューっとします。

泣き叫ぶ赤ちゃんをなだめるだけでも一苦労なのに、それをはるかに超える心理的圧迫をもお母さんに与えるのが、日本の公共の場なのかもしれません。

何年か前に、とあるマンガ家が飛行機に搭乗した際に、1才児の赤ちゃんが泣き止まず、航空会社にクレームを申し入れたとして一騒動になったのがありました。

マンガ家に対して、「子供は泣くものだ」といった反論が著名人からも多くあがっていたけれど、その発信者はほぼ親の立場の人、子育て経験者でした。私は、これには少し違和感を覚えました。

「子供は泣くものだ」とか、「国の宝である子供は大事にすべきだ」といったことを理由にして「子供の泣き叫ぶ声にも我慢しろ」と言われたら、「子供は泣くものだ」という実感の伴う体験、つまり子育てをしていない人からすると、随分な物言いに聞こえるような気がしたのです。

何より大切なのは、子供は泣くものだと言うことを知っていようがいまいが、子供が宝であろうがなかろうが、子育てしてようがしていまいが、そんなことよりも、自分がたまたま居合わせた場で、一番辛そうな人に自分なりのやり方で寄り添う気持ちを持てるかどうか、だと思うのです。

公共の場で泣いている赤ちゃんをあやしているお母さんは、その場からの退場という選択を迫られるほどに、辛い人です。「うるさいな」「迷惑だな」と思っている人たちの、その不快感をはるかに超える苦痛を背負う人です。

食事をゆっくり楽しむ人の権利も、飛行機でぐっすり寝たい人の権利も大切ではあるけれど、その議論とは別に、せめて、たまたま場を共有した人が相当辛い気持ちを味わっていることを察するのは人として大切なことで、さらにそれを少しでも和らげようとする努力は、多分自分自身を救うことにもつながるような気がするのです。

惻隠の情って、そんなことを言うんですよね。


ちなみに、レストランで出会ったお母さんに私ができたのは、自分の息子に「赤ちゃんは、泣くのも大事なお仕事なんだよ」とお母さんにも聞こえるほどの大きな声で語りかけることと、赤ちゃんのお姉ちゃんに笑顔で話しかけることだけでした。

いつも、こんな場面に出くわすと、どうにかして「味方ですよ」「わかりますよ」ってことをお母さんに伝えたくなりますが、私のやり方はいつもこんな風にかなり控えめです。


photo by pakutaso.com



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サイレントマジョリティ。

2015-02-13 17:28:55 | 育児・母稼業
いつだったか、Eテレでやっていた対談番組「SWITCH インタビュー」で、俳優・東出昌大と作家・朝井リョウが出ている回を偶然見た。

彼らがネットでのエゴリサーチ(自分の評価について調べること)を欠かさないというくだりがあったのだけれど、そのなかで、朝井さんの話していた事がとっても印象的だった。

ネガティブな声は目立ちやすい。ポジティブ意見をわざわざ表明する人は少ないから、実際にはポジティブ意見が大半でも、どうしてもネガティブが突出してしまう。そして、受け手はネガティブ意見ばかりなのか、という錯覚をしてしまう。

一言一句は全然合ってないかもだけど、たしか、そんな内容だった。

これ、同感するなぁ。

今年から息子の幼稚園のPTA役員を引き受けることになった。新役員の仲間で話し合って、これまでの旧態依然のやり方を少し見直し、できるだけ無駄を省き、全体の仕事量を減らす努力をしようということになった。

普段から、役員や一般のお母さんたちから、母親の幼稚園活動についての不満や愚痴を当たり前に聞いていたから。

すると、まあ、どこで話し合いの中身を聞いたのか、来るは来るは「変えられるわけない」「伝統は守らなくてはいけない」「先例がない」「経験者の意見を聞いて」というメールや電話の否定的な声が。

それも、多くが役員経験者から。えっ、あなた、「仕事多すぎ!」って文句言ってませんでしたっけ?って耳を疑った。

極めつけは「みんなそう言ってるよ」「ほとんどの人が同じ意見だから」の殺し文句。

みんな?ほとんどの人?
えっ、そうなの?

自分達の一人相撲だったのかな、とヘタレな私なんかは意気消沈してしまい、周囲のお母さんたちみんなが、自分達に敵意をもっているような錯覚に陥って結構悩んでしまった。

けれど、その後、めげない新役員の仲間たちがいろんな声を拾ってくれた。感触ではネガティブ意見が実は多くないことがわかった。大半が反対なんてことも根も葉もない話だった。

ネガティブ意見を持っていた人の回りにいるお母さんですら、

「えーっ、[みんな]でひとくくりされちゃってるの?揉めたくないし、あえて黙ってるけど、あなたたちを応援してるよ」

と声を掛けてくれた。

そっか、味方はいるんだ、とホッとした。でも、味方の声は小さいものなんだ、と改めて実感した。

そうしたゴタゴタが落ちついて見えてきたのが、たぶん、こういう場合、鮮明なネガティブ意見とポジティブ意見はそれぞれ少数意見でしかないってこと。でもネガティブ意見はネット同様、尾びれ背びれがついて炎上しやすい。だから、際立つ。

ほとんどの人は無関心層。いわゆるサイレンマジョリティってやつだ。

役員をする前の私もその一人だったから、サイレントマジョリティーの気持ちはわかる。

でもその無関心の人たちは、「まあ究極的にはどっちでもいいんだけど、できたら楽にしてよね」とは、薄く、でも確実に思っているのだ。私たちの考え方に影響を与えたのは、間違いなくこの空気だし。

でね、そのサイレントマジョリティの、声に出さないけれど、何となく思っている内容を丁寧にくみ取って、一つでも二つでもいいから実現させる作業が、実は私たちかやりたいことなんじゃないかなってことがわかった。(政治とか選挙みたいな話になってきたぞ)

さらに言えば、その意見を汲み取るっていうのも、つきつめれば、とりあえずはやりたいようにやるってことしかないのかな、と。私たちが、私たちの感覚で。もちろん突っ走りすぎず、効果測定もしつつ。

だって、私たちが役員の当たりクジを引いたっていうのは、それはクジの方が私たちを引き当てたってことでもあるのだよね。

一匹狼っぽくて、幼稚園にもしがらみが薄くて、ママ友付き合いも熱心じゃなくて、しかもがっつり仕事している人が多くて、全体的に大雑把でユルい性質。

そんなメンバーばかりが引き当てられたのって何らかの意味がある気がする。集合的無意識という観点でみたら、サイレントマジョリティの声が飽和して産み出された縁なのかな、とも思えるし。

もちろん、ネガティブ意見を訴える人たちの心情、自分たちが苦労して、我慢してやってきたことを簡単に変えるなんて言われたくない、という気持ちも無下にはできない。負の重い実感が伴っているだけに、サイレントマジョリティーを一気に飲み込む力があることも想像できる。

大切なのは、そこに理解を示しつつ、私たちは私たち、あなたたちはあなたたち、の境界線を上手に引くことなんだろうな。

そしてやっぱり鮮明なネガティブ意見に引きずられないことも、自分たちの感覚を信じるのも大事。

うーん、この一年、いろいろあると思うけれど、頑張ります。



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テニス熱でWOWOW加入。

2015-02-11 21:54:38 | 日記・できごと
体調・気分ともに調子を落とした1月下旬。この私の体内を大量のアドレナリンで満たしたのがこの人です。


全豪テニスで錦織選手が闘った4試合、ぜーんぶライブ中継で見ました。何年ぶりだろう、テレビで真剣にテニスを見たのって。エドバーグ、ベッカーが活躍していた頃以来ですよ。

錦織選手のこのところのめざましい活躍も、実はニュースで見る程度でしかなかったのですが(こんな記事を書いたくせに‥‥)、今回はNHKがライブ中継を決定、しかも主婦には好都合な時間帯の放映でしたからね、もう見るしかないでしょ、って感じで。

テレビの前で力が入りすぎて過呼吸になりそうだった初戦から、惨敗して思わず号泣した準々決勝までの一週間あまり。私、錦織選手の試合を見るためだけに生きてたなー(笑)。

他のこと、息子のことも、ダンナのことも、仕事の事も上の空でした。

たったひとりでコートに立って、観客の数と熱気はすごくて、恐ろしいレベルの期待を背負って、しかもあんなに長い時間闘える人間の心の中ってどうなってるんだろーって興味も湧いたりして。

一対一のスポーツの過酷さって、メンタルの強さが最後モノをいうところ。見る側は、当然錦織選手を応援はするんですが、相手方の外国人選手からシビレるようなプレーが出た時には、素直に拍手を送りたい心境になります。敵だけど、深いところでは味方というか、同志みたいな雰囲気がいいんですよね。

あと、打った球がネットにかかって自分の得点になった時には手を挙げて相手に「ゴメン」をするマナーがありますが、これがね~、テニスど素人の私には壁ドンばりのインパクトで、「めっちゃかっこえー」ですよ。

まあ、ただのにわかファン、かつミーハーなんですが、この全豪オープンをきっかけに、私、テニスのお勉強をネットでいっぱいしました。男子の世界ランキングトップ10までの選手や国は大体頭に入れましたし、YouTubeで錦織選手の過去の四大大会の試合もかなりの本数を視聴しました。

で、はい、こうなったら四大大会だけじゃなくて錦織選手の他のツアー大会も見よう!と一人で盛り上がってしまい、WOWOWに加入することに相成りました!

錦織効果でにわか?テニスファンが増殖中のようで、WOWOWは現在加入者がうなぎ登りとか。私もそのうなぎの一匹になってネットで申し込んだわけですが、数分で受信できちゃう、あまりの手軽さにびっくり。(昔は、チューナーが必要でしたよね?!)

おまけに、

・加入月は無料。
・解約も手数料なしで月末までに電話一本でOK。
・加入&解約&再加入が楽チン。

私は、テニスをやるときだけ加入するペースでいこうかなと思います。

WOWOW加入後一発目のテニス中継は、2/15(日)、2/16(月)の「男子ATPツアーメンフィス」。錦織選手の三連覇がかかっている大会です。時差が二時間だった全豪と違って、番組始まるのがなんと朝の4時台。大丈夫か、私!寝過ごしたら、笑うに笑えませんよねー。何のためにWOWOW入ったんでしたっけって。


余談1
冒頭のnumberの雑誌、通ってる歯科に置いてあるんですが、この歯科、完全予約制で待ち時間がほとんどないから、読みたいのに読めない(^_^;)買おうかな。

余談2
「ねぇ、テニス習わない?お母さんと一緒にどう?」と息子を誘ったら、速攻「やらなーい」が返って来ました。息子を錦織圭みたいに…の夢は早々と破れました。(^_^;)




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そっけない人。

2015-02-10 14:14:24 | My メソッド
そっけない人が苦手です。苦手以上の恐怖に近い感情です。

ママ友、仕事関係の上司や同僚、ご近所さん、かかっている病院のドクターや看護師さん。そっけない人と接触する機会があると、なんとなく憂鬱になって、一刻も早く離れたくなります。

例えば、病院を選ぶ基準はどちらかというと先生の腕よりも、先生の印象で決めることが多いです。

ちなみに私は、多分そっけなくない人です。愛想のいい方の部類の人間だと思います。そう断言するのは、夫が決して誉め言葉ではなく、そう指摘するからというのと、もう一つは、私という人間が、

そっけない → ❌
愛想がいい → ⭕️

という価値観で生きているということを、私自身が自覚しているからです。

だから、自分が「愛想がいい」を意識的、あるいは無意識的に実践して、それをひっくり返す人にはアレルギーを覚えるということだと思うのです。

でも、

そっけない、は必ずしも❌でない。
そっけない人は、必ずしも悪い人ではない。

というのは当たり前で、それが経験としてようやく実感するようになりました。そっけない人を、そっけないという理由で避けたり、反応したりしない人も大勢いるからです。

彼ら、彼女たちは、愛想がいいには⭕️をつけていても、そっけないに❌もつけていない人たちだったりするのです。だから、そっけない人が苦手でもなければ、怖くもない、そっけなくされても傷つかないのです。

自分に対してそっけない人と親しくなる必要はないのですが、せめて怖いという感情は緩めたい。そんな私が、このところ実践しているのは、

そっけない人には、自分もそっけなく。

振り返れば、私はそっけない人にも、そっけなくしない人間でした。そっけない人にも、愛想よく接して、同じようにしてもらえないことに勝手に傷ついていた節があるのです。

では、自分もそっけなくしてみると、どうなるか。

相手はほとんど変わりません。変わるのは私です。「そっけなくされたのに、愛想よくする自分」が消えた分だけ、私は傷つかなくなるし、相手の言っていることを恐怖心や嫌悪感というフィルターを通さないで落ち着いて聞くことができます。

持病の悪化で大きな病院にかかっていて、ちょうどそんな体験をしたところです。担当になったドクターがまさにこのそっけないタイプで、最初は診察室に入るが苦痛で仕方なかったのですが、私もそっけなく対応してみると、怖さがすーっと抜けました。不思議なことに、普段より説明の時間を余分にとってくれるようにもなりました。

そっけない、がデフォルトの人にとっては、愛想がいい、が⭕️ではないので、そこを評価しませんし、無駄に愛想がいい人には強い違和感を感じて、もっとそっけなくしたくなるものなのかな、とも思ったりします。

ちなみに、私、夫に対しては真逆で、ひたすらそっけなく、愛想がないです。外面がいい、日本人&A型人間の典型みたいなものですね。だから、外で愛想のいい私に対する夫の目は限りなく冷たいんです。

私の愛想の良さは私の本質ではなく、ただのペルソナってことなんですね。
photo by pakutaso.com


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