すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

「NHKラジオ深夜便」から

2005-08-20 12:25:20 | 世の中のこと

お気に入りのラジオ番組「NHKラジオ深夜便」。
終戦記念日前後にやっていた「わたしの戦後60年」は、
もう文句なしに素晴らしかった。

戦争体験者である各界の著名人が、
自らの体験をインタビュー形式で語るというもの。
8・15深夜は、アンコール特集で
随筆家 岡部伊都子さんのインタビューをやっていた。

若くてきれいだった時代に、戦争を迎えた岡部伊都子さん。
岡部さんは、あの戦争で、
とても言葉にはならない苦悶を味わった女性だ。
それは、平和と戦争という言葉を、
観念の世界でのみしか捕らえることしかできない
「戦争を知らない世代」の私たちには、
想像することすらおこがましい、苦悶だったはずだ。

「この戦争は間違っている。
僕は、君のためには死ねるけど、天皇陛下のためには死ねない」

岡部さんの婚約者は、そう言って戦地に向かった。
その婚約者を涙ながらに日の丸を振りながら見送った岡部さんは、
結局は、その最愛の人を失ってしまったのだ。
自決だったという。

その婚約者の死について、
岡部さんは、恐ろしいくらいはっきりした口調で、断言する。

「婚約者を殺したのは、自分だ」
「自分は、加害の女だ」
「あの時、旗を振って見送るのではなく、一緒に逃げればよかった」
「牢獄に入ろうが、非国民というレッテルを貼られようが、
生き抜けばよかった。私はそれをしなかった」

だから、
「彼を殺したのは、戦争なんじゃじゃなくて私なんだ」と。

こんなに生々しく、潔い後悔の言葉をはじめて聞いた。
この人の後悔はただ悔いているわけではなく、
この後悔を愛して、人生の片隅におくのではなく、
それを真正面から抱きしめて生きてきたんだ。

今もただ、後悔とだけ向き合って生きている。
だから、この後悔は消化されなくても、すでに浄化されているのだろう。
後悔こそが、岡部さんの悲しみを救い、存在を支えてきたのかもしれない。

優雅な京都弁を話される穏やかで暖かい声音は、
それでも切々としていて、
情感に訴える、迫力とすさまじさがあった。

岡部さんの発する言葉には、理屈がなく、
ただただ、大きな喪失体験をした人だけが持つ、
深い悲しみの実感と、
流血しそうな心の激痛から耐えて耐えて立ち上がってきた人間の、
底知れぬ暖かさが宿っていた。

岡部さんは、インタビューの最後で、
若い人へのメッセージとしてこう結んだ。
「とにかくなぁ、幸せにな、幸せになってください」
戦争をしないでください、平和を守ってください、
といった、常套句ではなかった。
だからこそ、逆に強烈で、心にじんわり広がった。

一人ひとりが自分や大切な人の幸せを求める。
たしかに、平和を希求する人の心の底にあるのは、
そうしたシンプルな思いであり、
その集積こそが、平和を守る時代を築くのだろう。

大上段に構えた平和思想よりも、
靖国問題について唱える評論家の言葉よりも、
私にとっては、この言葉こそが、かけがえのない平和メッセージとなった。

岡部さんは、今、
これまでの人生で所有した本を処分して、
着物も人にあげて、
そんな風に死の準備をするのが、楽しい時間なんだとか。

「向こうで、あの人が待ってはりますからなぁ・・・・」

そんな風につややかな声で語られいるのを聞いていたら、
泣けたというより、全身が雷に打たれたような衝撃で、
発作のように嗚咽してしまった。

ここまで言い切れたら・・・、
たとえ、悲劇に縁取られたものであろうと、
人生を確かに生き切ったといえるのだろうな。





喪失体験って・・・

2005-08-15 08:20:40 | ひとりごと

私の読書傾向を自分なりに分析してみると、
仕事でどうしようもなく、あるいは人に薦められて、
という理由以外なら、
手に取る本は、間違いなく、自分のその時の心理状態の反映だ。
人に相談するということがもともと苦手なタイプなだけに、
自分で解決できない問題に遭遇すると、
必ずといっていいほど、本に頼る。
本を心の支えにする。

そして、最近読んだ「対象喪失」は、
まさに今の、というか少し前の私の心理状況にプロットされる。
が、結局、現在の私はその「対象」を喪失しない選択をしたので、
この本にはそうした役割を求めることはなかった。
(そもそも、この本は教養本的な要素が強く勉強にはなったけれど、
救いや希望を託せる種類のものではなかった・・・。)
ただし、読みながら、現在よりも過去のいろいろな喪失体験の際に、
自分の心がたどった悲哀の心理プロセスを思い出した。
そして、なんともいたたまれなくなった。

喪失体験は、心の準備がなされないままやってくると、
まずは、動悸、息切れ、胃痙攣、など、さまざまな身体反応が出て、
そして、しばらくして、体の反応を追いかけるように、
心がさまざまな様相を見せる。

対象喪失への否定、怒り、抑うつ、絶望、など、
心が文字通り「痛い」という状態にさらされる。
言い換えれば、この体験を通して、
まるで身体反応のような「痛い」という感覚を通して、
私は、確かに「心」が自分の中にある、
という確信を持った気がする。

そして、回復までの期間は、失った対象の大きさや、
失ったときの状況などに左右されるが、
私の場合は、徹底的に悲しんだあとに来る達成感や、
対象の置き換えなどにより、消化されていった。

消化はされたけれど、
その「痛み」の普段は忘れていても、
記憶のどこかにには確かに残っているのだ。
だから、今回も喪失体験が目前に迫ってきたとき、
心の中の以前と同じところから「痛み」が立ち上ってきて、
現在の痛みとともに過去の痛みも再体験させられた。
その二重の痛みを恐れたのが、
私の今回の選択に関係していないと言えなくもない。

喪失する対象が、
自分の存在や自我を根底からゆらがせるほど大きものであれば、
その痛みは尋常じゃないので、この痛みから逃れるなら・・・、
と 死へと逃避したいと思ったりもするのだろう。
私も、それが「死」という具体的な概念ではないにしても、
自分を襲った痛みに、
これからどうやって耐えていくのか途方にくれたし、
耐えていける自信もなかった。

喪失体験の後に「自殺」というもっとも悲しい選択をする人は、
「死にたい」のではなくて、
自分の存在全部を蝕む激痛から「逃れたい」一身なのかもしれない。

人が喪失体験をしたとき、そ
の人には、似たような痛みを経験し、
その耐え難さを理解できる誰か
(誰かが書いた本でもいいのかもしれない)の助けが必要になる。

能書きじゃなく、心地よい言葉じゃなく、励ましじゃなく、
実際に、激痛を乗り越えた人がたどった、
希望の物語が必要なのだ。



「対象喪失」小此木啓吾

2005-08-15 07:49:41 | 本・映画・音楽
フロイト研究の第一人者でもあった
精神科医、小此木啓吾先生の「対象喪失」(中公新書)を読んだ。

死別、愛の喪失、目標の消滅、リストラなど、
人生を生き抜く上で、誰もが必ず遭遇する喪失体験。

本来人は、その悲哀のプロセスを通して、
対象が自分にとってどういったものであったかを再確認し、
悲しみに満ちた心を回復していくものであるが、
モラトリアム人間が席巻する現代社会においては、
この「悲哀の仕事」を達成できず、
心身の病や自己喪失に陥ってしまう人が増えているという。
そうしたことが、具体的な事例とともに書かれた本だ。

ズドンと胸をやられた記述を引いておく。

「自分に心的な苦痛や深いを与える
身近な人の苦しみや悲しみに関わることは辛くて耐えられないといえば、
それは現代人の<やさしさ>のように受け取れるが、
この<やさしさ>は、汚れ、醜さ、深い、悲しみを感じさせるものは、
できるだけ眼前から排除し、遠ざけておきたい<冷たさ>と一つである」

「モラトリアム人間は自分自身を常に仮の自分と思い、
本来の自分は、どこか別のところか、これから先の未来にあると思う。
一時的、暫定的な状態に身をおき、
予期される変化への適応にそなえ、
何事に対しても、当事者になることを避け、
どんなかかわりも深まりすぎて、傷つくことを恐れる」

恐れ入りました、という感じだ。
これ、自分のことだ!と思ってしまう。

まあ、ただ、この文章を読んで、ハッとしない人は、すごいと思う。
自分も含め、シラっとしたところと、
独善的な繊細さが同居しているような人が多き現代は、
まさに総モラトリアム化しているのかもしれない。



時には、弱くなってみるのも・・・

2005-08-10 00:26:34 | ひとりごと

昨日の話。

まだ不安定になることの多い女性利用者との面談中、
彼女は、家族への不満や、
周囲にNOと言えずにつぶれてしまう自分の性格について、
あれやこれやと語っていた。

彼女は、自分が思いのたけをある程度ぶつけると、
私の言葉を待っていた。
普段も援助者や仲間の言葉を必要以上に欲するタイプの人で、
手元には他の人の言葉でぎっしりと埋まったメモ帳が常に置かれていた。

最近どうもふさぎこむことの多い私。
彼女の中に、自分の課題と同類のモノを見つけてしまったのだろう。
ふっと気づくと、何やら雄弁に語っている。

「あなたの場合は、いつも他人を優先するから疲れるんじゃないかな。
まずは、自分を優先させることを学ぼうよ。
我慢して周囲を思っていい子になるのはあなたの美点ではあるけれど、
でも、それで最後にはつぶれてしまうということは、
あなたの心にすごい負担を強いているってことになるんじゃないかな。
本当にしたいことをする、言いたいことを言うってことも時には必要だよ。
そんなあなたを見ても、誰も遠ざかっていかないし、
むしろ、付きあいやすい人だと思ってるくれるかもしれないよ。
まずは、自分の心の声にじっくり耳を傾けてあげることを練習しようね」

その力みよう、ゼッタイいつもの自分と違う、
と私は語りながら感じはじめている。

彼女を勇気付けてづけてるのか、自分を励ましてるのか、
わからなくなっている自分を察して、
しゃべり終わった後には少し恥ずかしくなる。

彼女から意外な反応がある。

「熱く語ってくれてありがとう。ayaseさんも大変なんだね。
いつも私が聞いてもらってばかりだけど、
辛いこととかあったら、ayaseさんも私に話してね」

彼女はそうして、ちょっと晴れ晴れした様子で帰っていった。
ばれていたのだ。
私の異常な雄弁さが、私の不調から来ていることを。
そして、そんな弱った私を、彼女は支えるスタンスに立ち、
自分の悩みを一時的にせよ、隣においてしまっていたのだ。

彼女が帰った後、自分に向けられた哀れみの視線を思い出しながら、
私は心の中で苦笑いした。
そして、ふっと思った。

自分の弱さが、人を強くさせることもあるんだ。
時には、弱くなってみるのもいいものなんだ。