すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

死の恐怖。

2011-05-26 22:08:35 | 日記・できごと

胃カメラを飲んだ。

飲んだといっても、鼻からのやつ。痛みや不快感は想定内だった。ただ、胃に空気を注入する音なのか、なんだかすごい音がするし、目の前には自分の胃や食道が映し出されて気持ち悪いし、ただ、そのおどろおどろしい感じに閉口した。

非びらん性胃食道逆流症という病名がついた。

胃はいたって綺麗で、症状があるものには、こういう病名がつくらしい。

2週間以上、胃の不調が続いていた。食欲不振、胃酸過多、げっぷ、口の酸っぱい感じ、みぞおちの痛み等々。

もともと胃は弱いけれど、ここまで長びくのは初めて。年齢も年齢だし、テレビでは児玉清さんが胃がんで亡くなってるし、

「もしや私も胃がん?」

そう思い始めたら、最後。

いてもたってもいられず、ネットであちらこちらの情報をひっかきあつめ、自分の病名、最悪の病名も頭に描いてしまう。

そのせいもあってか、胃の調子は悪くなる一方。胃カメラを飲む日までは、生きた心地がしなかった。結局、取り越し苦労になったわけだけれども。

自分にまつわるいろんなことに、最悪の状況を思い描くのが結構多い。マイナス思考という単純な話しではなく、いいことを思い描いて結果が悪かった場合、その落差に絶望するのはご免という感じ、
いわゆる防衛機制的な面もあるのだと思う。

こと、体の変調に関しては特にその傾向が強くて、年中、頭の中では「がん」にかかっている。

それにしても、私は、何が怖いのかな。

「がん」は怖い。それは認める。けれど、死ぬのが怖いか?という質問まで切り詰めていくと、わからない、となる。

「がん」というものの、その破壊的なイメージのせいだろうか。がんと同じように死亡率の高い心臓病、脳梗塞は、それほどまでに怖いと思えない。

たとえば、飛行機がおちる、というのはどうだろう。

それは、とてつもない恐怖。それって死への恐怖なのだろうか。うん、やっぱり死の恐怖のような気もする。感覚的な恐怖。

そうなんだ、死は感覚的な恐怖なんだ。
理屈を超えた恐怖なんだ。

池田晶子さんは、死が怖くない、死などそもそもない、と言っていた。
治療はしていたようだが、最後まで、がんと積極的に闘うでもなく、逝った。

死が怖くない池田さんも、最初の告知の時はどんな心境だったんだろう、なんて考える。飛行機が落ちそうになったら、心臓がバクバクしたりしないだろうか、とか。

池田さんだけじゃない。
死を怖くない、という人は結構いる。
「だからあなたも生き抜いて」の大平光代さんも、天国の存在を否定して最近話題になっていたホーキング博士も、死は怖くないと断言する。

子どものためだったり、まだしたいことがたくさんあったり、まだ、生きていたいとは思うけれど、特段死は怖くないと。

そういう人たちは、がんを告知された時、飛行機が落ちそうになった時、どうなんだろう。それは、それなりに恐怖を覚えるのだろうか。

その恐怖と死は必ずしもつながらないのだろうか。

死生観の話しが出てくると、必ずと言っていいほど、

「今を生きること」こそが大切、というような結論に持っていかれる。

池田さんの本にも、僧侶であり作家の玄侑さんの本にも、最近読んだ「父親が息子に伝える17の大切なこと」という本にも、そんなニュアンスの文章が並んでいた。

私としては、軽い肩すかしをくらった気分になる。

厳密に言えば、死を見つめることと、今を生きる、という二つがどうしてつながるのかわからない。

ただ、私の敬愛する人たちが口をそろえて言っているのだから、きっとそこには、広大無辺で深遠な、何かがあるのだろう。

胃カメラから、ずいぶんは話がそれてしまったけれど、何が言いたいのか、というと・・・。

私もそろそろ人生の折り返し地点にいる。感覚的な死への恐怖を超えて(少しずつ克服して)、自分なりの死生観を築いていく時期に足を踏み入れたのかな、
なんて思い始めているのだ。




許すとか、許さないとか。

2011-05-13 22:28:35 | 心理メソッド・生き方

許すとか、許さないとか、ってどういうことだっけ。

そんなことを考えたりする。

そもそも許すってなんだろう。ひどいことをされても、傷付けられても、なかったことにするってこと?忘れるってこと?

大したことではなければ、それもありだろうけれど、心が大きな傷を負った場合は、なかったことにすることも、忘れることもそれほど簡単じゃない。

だったら、なかったことにするでもなく、忘れるわけでもない「許す」ってどういう状態を言うのだろう。

相手が謝って反省する、というのは大前提ではあるけれど、相手の側の問題というよりも、結局は、自分の心の問題になっていく。

「許す」というのは、間違っても相手を無罪放免にして楽にさせることじゃなく、自分のほうこそが、楽ちんになることを指さなくてはならない。

つまり、一時的な決心や相手への情から生まれるべきものじゃなく、傷ついた自分を癒す、そしてもう二度と傷つけられない自分を獲得する、そのプロセスといっしょにゆっくり立ち上がってくるものでなくてはならない。

もちろん、自分を傷つけた相手に、相応の責任を突き付けること、うやむやにするのではなく、その過程を見届けていくこと、もセットにはなる。相手がそれに応じなければ、関係を断ち切るとかね。

許す、許さない、と言えば、クドカン脚本、阿部サダヲ主演の映画「なくもんか」の中に、印象的なセリフがあった。

幼い兄弟を捨てた放蕩親父と大人になった兄弟がすき焼きを囲んでいる。
弟が父親に、「兄さんに謝れ」と詰め寄ると、兄さんの阿部サダオは言う。

「それぞれ腹に何かを抱えていても、黙って一緒に飯を食うのが家族」

「謝る、謝らない、ってなれば、許す、許さないって話になるだろう。そんなの許せないに決まってる」

ほぉーっ。

クドカンってこういう軟らかい感性なのか。ただ、わかるような、わからないような。というか、わかりりたくないような。でも、カウンターパンチのセリフだ。

あと、いつか参加した、精神科医なだいなださんの講演会を思い出した。

なだいなださんが印象に残っている家族の話として、何十年もアルコール依存症の夫に苦しめられ、何度かの修羅場をくぐり、今は回復して仲良く暮らす夫婦のエピソードが語られていた。

その妻の述懐。

「夫がしてきたこと、今となってはもう許してはいるけど、でも、決して忘れることはできませんよ。夫にも時々そう告げています」

許しても、忘れない。
言いえて妙。深いなぁ。

許す、許さない、も、角度を変えればいろんなことが言えるってことか。

どっちか、って白黒つけなくてもいいことも、と、いうか、つけられないことも人間関係には多々あるし。

ただ、許した方が楽、なんてよくいうけど、あれだけは詭弁だなって思う。許して楽になるんじゃなくて、楽になった自分がいて、すなわちそれが許す、ってことじゃなくっちゃ。

楽が先にあって許せるんじゃなきゃ、
それはやっぱり許すっていうのとは本質的に違う。

頭の中で描いた「許す」や、周囲から促されただけの「許す」は脆いよ。

私も、夫といろいろあった。

夫への気持ちは、許す、許せない、では、なんとも形容できない。許したか?と言われれば、NO、と即答する。それなら、どうしても許せない?と問われれば、返答に困る。

許したわけではない、でも、どうしても許せない、というわけでもないだろう。

許せない部分のあることを自覚しながら、許すことを目標にせず、あきらめるわけでもなく、うやむやにするでもなく、とりあえず、一緒に生きていく。そこから始めてもいいのかな、と。