すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

「味方です」を伝えたい。

2015-02-15 19:20:59 | ひとりごと
電車の中など公共の場所で、泣き叫ぶ赤ちゃんを必死にあやしているお母さんの姿を見ると、かつての自分が重なって、身につまされます。

先日も行きつけのレストランで、赤ちゃんを抱っこしたお母さんと赤ちゃんのお姉ちゃんとおぼしき4、5歳の女の子が食事に来ていましたが、料理が運ばれてきたとたんに赤ちゃんが愚図りだしてしまいました。

お母さんは立ち上がって赤ちゃんをあやしますが機嫌は悪くなるばかり。いったんお店の外に出て赤ちゃんが落ち着くと戻り、また泣き出すと外に出る。そんなことを何度か繰り返しましたが、赤ちゃんの機嫌はもどりません。

お店の人が、時折優しく声を掛けていましたが、お姉ちゃんが大方食べ終わるのを確認すると、お母さんは、ほとんど自分の料理に手をつけることなく、店を後にしました。

お母さんのお皿の揚げ物やお味噌汁から立ち上る湯気と、諦めたような、疲れきったような、お店の人に無理やり微笑んで見せたお母さんの表情が忘れられません。

その場を代表して、お母さんに「ごめんなさい」とでも言いたい気分でした。

男性の咳払い、赤ちゃんの泣き声が大きくなった時に一斉に集まる視線。お母さんの方を見ないようにする人たち。お母さんには、それが自分を責める所作に感じたのだろうと思います。

「うるさい」なんて言う人はいなかったけれど、彼女を気遣うような寛容な雰囲気は全体的にはなかったかもしれません。

もしかしたら、いや多分、男性はたまたま咳払いしただけだし、ほとんどの人は大きな泣き声がしたから見ただけだし、逆に気詰まりだから見ないようにしただけ、なんでしょうが、その状況のお母さんにはとてもとてもそんな風に思えないはずです。

そう想像するのは、私がそういう感じを何度となく経験したからです。息子が赤ちゃん時代には、電車もバスもレストランもいろんな人に監視されているような気分だったからです。

息子が1才前に飛行機に乗らざるを得ない状況になった時には、フライト中、周囲の乗客に迷惑にならないようにしなくては、と張り詰めた神経がゆるむことはありませんでした。幸い、泣き叫ぶような事態は免れましたが、あの日のことを思い出すと、今でも胃のあたりがキューっとします。

泣き叫ぶ赤ちゃんをなだめるだけでも一苦労なのに、それをはるかに超える心理的圧迫をもお母さんに与えるのが、日本の公共の場なのかもしれません。

何年か前に、とあるマンガ家が飛行機に搭乗した際に、1才児の赤ちゃんが泣き止まず、航空会社にクレームを申し入れたとして一騒動になったのがありました。

マンガ家に対して、「子供は泣くものだ」といった反論が著名人からも多くあがっていたけれど、その発信者はほぼ親の立場の人、子育て経験者でした。私は、これには少し違和感を覚えました。

「子供は泣くものだ」とか、「国の宝である子供は大事にすべきだ」といったことを理由にして「子供の泣き叫ぶ声にも我慢しろ」と言われたら、「子供は泣くものだ」という実感の伴う体験、つまり子育てをしていない人からすると、随分な物言いに聞こえるような気がしたのです。

何より大切なのは、子供は泣くものだと言うことを知っていようがいまいが、子供が宝であろうがなかろうが、子育てしてようがしていまいが、そんなことよりも、自分がたまたま居合わせた場で、一番辛そうな人に自分なりのやり方で寄り添う気持ちを持てるかどうか、だと思うのです。

公共の場で泣いている赤ちゃんをあやしているお母さんは、その場からの退場という選択を迫られるほどに、辛い人です。「うるさいな」「迷惑だな」と思っている人たちの、その不快感をはるかに超える苦痛を背負う人です。

食事をゆっくり楽しむ人の権利も、飛行機でぐっすり寝たい人の権利も大切ではあるけれど、その議論とは別に、せめて、たまたま場を共有した人が相当辛い気持ちを味わっていることを察するのは人として大切なことで、さらにそれを少しでも和らげようとする努力は、多分自分自身を救うことにもつながるような気がするのです。

惻隠の情って、そんなことを言うんですよね。


ちなみに、レストランで出会ったお母さんに私ができたのは、自分の息子に「赤ちゃんは、泣くのも大事なお仕事なんだよ」とお母さんにも聞こえるほどの大きな声で語りかけることと、赤ちゃんのお姉ちゃんに笑顔で話しかけることだけでした。

いつも、こんな場面に出くわすと、どうにかして「味方ですよ」「わかりますよ」ってことをお母さんに伝えたくなりますが、私のやり方はいつもこんな風にかなり控えめです。


photo by pakutaso.com



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