すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

お母さんが幸せであること。

2016-10-05 14:15:51 | 育児・母稼業
何日か前に、為末大さんが、「さすが」のコメントとともに、ツイッターで紹介していた記事。

はなまる学習塾の高濱先生のインタビューです。

お母さんが幸せであること。

このところ、母親としてのあり方、というか、「私、こんなんで大丈夫?」と痛切に感じることが続いて、ある時、それが臨界点に達しました。

それで、自分の中で、一つ覚悟を決めたところにこの文章が目に飛びこんできました。

自分が感じていることのまんまが、書かれていて、釘付けになりました。



私は、

「大丈夫だよ」


という言葉
その言葉の持つ、安心のエネルギー

ただ、それだけを欲していたんだってこと、安心に浸かりたかった、リラックスしたかった、そして、それはとても当たり前のことなんだと確認できたようで、嬉しかったのです。


どれだけ具体的な解決策をアドバイスされてもそれは、私をゆるめてはくれない。根拠がない安心に包まれた「大丈夫」だけが、私の、根拠のない不安をとかしてくれる。

これはもう、理屈じゃありません。


でもね、この「大丈夫」は、実は誰が言うかが大切なんですよね。付け焼き刃だったり、同情だったり、とりあえず、というエネルギーは、本当の「大丈夫」ではないからです。

本当に、「大丈夫」という安心の世界を生きている人の言葉じゃないと、響かないんですね。


じゃあ、この安心を誰に求めるかってことです。

夫、ママ友、母親、義理の母親、学校の先生、地域の人。身近な人に一人でもいれば、超ラッキーです。

でも、記事にもあった通り、核家族が増えて、夫も長時間勤務のストレス漬け、実家が遠かったり、実家が近くても味方のはずの実母から逆に「あなた大丈夫なの?」という言葉を浴びせられる環境だったりしたら…、不安はさらに膨張しますね。

私にも、身近にそんな存在が見当たらない。いや実際にはいるんだろうけれど、それを求める手続きも面倒くさい。


それで、私が一つ決めた覚悟というのは、


ザ・許し行(ぎょう)


の決行です。

私の中に、その安心を体現して、私をまるごと許している存在を作り上げるのです。

それは、普段、思考観察や瞑想をしている時の「気づき」よりも、もっと人情味があって、力強く、饒舌です。

不安になった時は、その存在に、徹底的に許しコメントを発射してもらいます。


◯◯してもいいよ。
◯◯しなくてもいいよ。
あなたがどんなことをしようと、
たとえ世間的に悪と呼ばれるものをしようと、
あなたが何もしなくても、
たとえ世間的に善と呼ばれるものをしなくても、
そんなことはどっちでもいい。

あなたは、許されている。
誰かに嫌われても、批判されても、ダメ人間と言われても、私はあなたを嫌わない。批判しない。ダメなあなたが好きだ。

あなたが一人ぼっちになっても、見放されても、一文無しになっても、あなたはあなたで大丈夫だ。

その感情もオーケーだ。
その悪口も、その態度も、オーケーだ。
作り笑いも、嘘も、不満、愚痴もオーケーだ。
全部、全部オーケーだ。




バカみたいなんですが、これが筋トレと同じで、数をこなすと、結構効果があります。

メッセージを受け取るたびに、涙が出るんですよ。ちゃんとゆるむ。

今までは、これの逆のメッセージをたくさん受け取ってきたわけですからね。最初は、親や周りの大人から毎日のように言われ、いつしか自分が自分に言うようになっていた。苦しい時は、特にそれが強く現れている。


◯◯してはいけない
◯◯しなければならない
その感情はだめだ
人に迷惑をかけてはだめだ
ちゃんとしないとだめだ
嘘をついちゃだめだ
人の役にたつことをしなさい



母親になってからは、

ちゃんと育てなくては
うまくやらなくては
ダメな母親、悪い母親と言われないように
ダメな子ども、悪い子どもと言われないように
子どもが他人に迷惑をかけないように
子どもが叱られないように
子どもが恥をかかないように
子どもがいじめたり、いじめられたりしないように


そんな否定、義務、制限、抑圧のメッセージを、自ら無意識のうちに取り込んできたわけです。これが私を縮こませ、着実に不安の上塗りをしてきました。

つまりこの逆の積み重ねをしたら、当たり前に逆の世界を生み出していきます。


自己満足の世界ですが、でも、本来の「気づき意識」もいわゆるハイヤーセルフも神様も、善悪を超えた全肯定の世界ですからね。私が作り上げた安心の存在と変わりません。うん。多分。


正直に言うと、最初はね、つぶやきながらも、「こんなこと許していいの?」「いや、それはまずいよね」という違和感や反発心もありました。実際には、上よりももっとエグいこともつぶやいてますから。

でも、突き抜けたメッセージの方がいいんです。これはいいけどあれはダメとか、そこまでは許されないよ、とかメッセージ自体に条件をつけて、バランスを取ろうとすると、安心のエネルギーは弱まります。

心配しなくても、ゆるむと、勝手にバランスが取れるから不思議です。



この許し行の決行から、ベタに楽になりました。私は、自分の中の不安が高まると、夫依存や夫攻撃か始まりますが、それがスコーんと抜けてます。夫にとにかく聞いてほしい、安心できる事を言ってほしい、という欲求が全くない。

私は、無条件に許されている。

このシンプルなメッセージが、大きな安心パワーを生み出します。

というわけで、許し行、しばらく続けます。


子育てのポジティブ担当、ネガティヴ担当。

2016-05-01 15:46:02 | 育児・母稼業
カレンダーは、五枚目までやってきました。ゴールデンウィークの真っ只中ですね。

わが家のひとり息子も、一年生になって、そろそろ3週間ほど経ちました。ポツリポツリと学校であったことを話すようになりました。概ね楽しそうな内容ですが、不満やネガティヴコメントもチラホラ。

そして、夫にはどちらかと言うとポジティブな内容ばかり、私には時々ポジティブ時々ネガティヴを混ぜてきます。

これはもう明らかに、子どもに対する私たち夫婦の眼差しの質に対応しています。

夫は、基本息子はどこにいても大丈夫だと思っている。一時的に大丈夫じゃなくても、どうせトータルとしては大丈夫だと思っている。

私は、大丈夫が半分、心配も半分。時と場合によって、心配に大きく傾くことも。

だから、自然に役割が決まってしまうんですね。別に夫に愚痴や不満を話しずらいのではなくて、夫の「大丈夫」のエネルギーを前にして、息子もネガティヴな気持ちに焦点が当たらなくなるんだろうな、と思います。

🔹🔹🔹

そんなわけで、ある日、こんなことを息子が私にポツリと話します。

「○○君が、仲間はずれにするんだよ。ボクだけなんだよー」

これが、客観的事実かどうかはわかりませんが、少なくとも息子にとっては、正真正銘の事実。

私も、その現象が事実かどうかはさておいて、まずは息子に共感します。

「そうなんだ。何それっ。腹立っちゃっうねー」

と言った感じで。まずは、感情のガス抜きです。

「そうなんだよー」と、息子。


この息子の体験が、こだわりになると面倒なのかもしれないな、と感じます。

あの子は、ボクを○○するヤツ。ボクは、○○されるヤツ。加害者と被害者の構図、特に、ボクは○○されるヤツ、という被害者の自己イメージはやっかいです。


ここで、私は、

「仲間外れにする友だちって、○○(息子の名前)が嫌な気持ちになることをする友だちってことでしょ。

だったら、無理に仲間に入れてもらおうとしなくていいんじゃない。

○○が嫌がることをしない優しい友だちを探して、遊んだらどう。

すぐに見つからなかったら、一人で遊ぶのだってよくない?」

と、できるだけ、押し付けがましくないように気を配りながら言います。

ネガティヴな出来事や相手の子と一旦心の距離をとりなさい、自分に選択権がある事を思い出しなさい、というメッセージを送ります。

私の声掛けの効果かどうかはわかりませんが、そうすると、しばらくして、息子の中でその出来事や相手へのこだわりが薄らいでいくのがわかります。

これは想像なんですが、自分は「仲間はずれにされた」という息子によるストーリーが最初にあって、そこが傷になっていたところを、「関わらない」という視点を得たことで、息子の思考にパラダイムシフトが起きるんじゃないかな、と思います。

「仲間はずれにされる自分」という意識は無力で惨めさを漂わせますが、「ボクは仲間はずれをするヤツとは遊ばない」という意識にシフトできると、逆に自尊感情を呼び起こします。

もっと深刻さを増して、加害者と被害者の構図が固定化された場合には、出来事に積極的に対処する事が必要になるのでしょう。

でも、それ以前の段階なら、ネガティヴに偏った視点を変えてやること、息子の自己肯定感を守ってやることが大切なんだろうな、と。

それと、実はここが一番大事なのですが、息子への声かけの中身って、実は私のためのものなんです。この言葉が、息子のネガティヴコメントと私との間にスペースを作り、私の反応心を鎮め、自己肯定感も守ってくれるんですね。

というのも、母親というのは因果なもので、子どもがネガティヴな発言をすると、多かれ少なかれエゴが反応してしまいます。私もそうです。

「そんなひどいことする子がいるのー!」
「この子は、いじめられっ子気質なのかしら」
「うちの子が、そんな思いをしてるなんて、かわいそう」
「そんな弱虫、うちの子じゃない。やりかえしなさいっ」

たとえば、こんな風に、エゴが雄叫びをあげます。

この声が自分の過去から来ているエゴだと気づかずにいると、このエゴの勢いに私自身も、そしてちょっぴり友だちについてボヤいただけだったかもしれない息子の意識をも巻き込まれます。

息子が幼稚園の頃、この種のエゴと私が一体化してしまい、辛い思いをしたことがありました。表面的に何か重大なことか起きたわけではありませんでしたが、とにかく私が引きずりました。

そこで学んだのは、出来事や相手に焦点を当てると解決はできないなってことです。出来事による感情は起きますから、そこは受け入れますが、一番大切なのは、その出来事をジャッジするこちらの意識の在り方をまず観察すること、そして、それを自分にとってより良いものに変えることなんですよね。

これは、相手や外部に全く働きかけないってことではありません。わざわざ被害者のポジションに自分を置かない、自分の力を取り戻す、というイメージかな。

私の意識を変えると、息子の意識が変わり、やっぱり現象面も違って見えてきます。

🔹🔹🔹

ちなみに、ポジティブ担当の夫。この夫とは、子育てのことで何度か意見の食い違いを繰り返してきました。

たとえば、私が「息子が、一人で寂しそうに遊んでいた」という話をすると、夫はそういう場面はめったに拾わない。「息子が○○君と楽しそうに遊んでいた」という場面によく出くわします。

二人の脳は、違う認知傾向があって、そのまま違う世界を拾っていたんですね。これに気づくまでには時間がかかりましたが、気づいてからは、もう、なんというか、私がいない方が、夫だけで育てた方が、息子は幸せな子に育つのかもなー、なんて思いましたよ(笑)。

不満や愚痴って、吐き出すのが大切って考えがちですが、大丈夫とか安心エネルギーに包まれたら、それはもう不満も愚痴も超えられちゃうんですよ。夫が息子に向けているエネルギーは、愚痴を言わせないエネルギーではなくて、それを溶かすエネルギーなのかもしれない。

それならネガティヴ担当は要らない?となりますが、うん、うちの息子には要らないとも言えそうです。

だから、子育てにおいてネガティヴ担当な私は、その役割を自分のために引き受けているんです。息子のネガティヴ面に触れて、自分のネガティヴな部分と対面する機会を得ているんですね。私が。

私にとっての子育てって、ずっとそうだった気がします。自分の中の思い込み、傷、とらわれ、恐れに再会させられて、それを解消しながら前に進んできた感じです。子育ての悩みが、私の人生の復習、再試験みたいなものです。

もちろん、楽しいこと、嬉しいこともたくさんあって、息子も、可愛いくてたまらない。だからこそ、ネガティヴな自分とも必死に向き合えてきたのでしょうね。

夫ばかりズルい、と時々腐りたくなりますが、そういう夫の安定感、大丈夫エネルギーがあるからこそ、私もネガティヴ担当を心置きなくやれるわけですからね。夫婦とか家族というのはスゴいバランスなんだな、と改めて思ったりします。




















どうして、学校に行ったほうがいいんだろ。

2016-03-10 18:18:33 | 育児・母稼業
いよいよ、卒業式、入学式シーズンの到来ですね。


先日、息子が4月から通う小学校の学校説明会なるものに出かけてきました。

入学にあたって準備するもの、小学生になる前に子どもに身につけて欲しい心構え、などについて話を聞く集まりです。

行く前からなんだか行きたくなくて、行ってみてやっぱり来たくなかった、て思ってしまいました。


底冷えのする体育館、四角い仕切りがズラっとならぶ下駄箱、だだっ広い校庭、子どもの名前が書かれたお揃いの鉢植え…。

そして、校長先生のお話、副校長先生のお話、教務主任の先生のお話。正しくて、なんだか窮屈な気持ちになるお話。

資料には、集団活動を大切にする、と書いてあるのに、違う所には個性を重んじるとか書いてあって、「でましたっ、このダブルスタンダード!」、とか、心の中で一人ツッコミしてました。

無機的な世界、個性を許してくれない世界、集団ありきの世界。この、学校というところが醸し出す独特の雰囲気。

あー、あの頃のままだ。私が学校に通っていたあの頃のまま。

そう、思ったら最後。

まずい。喉がキューと締まる感じ。重苦しさ、息苦しさ。

と、私の過去の痛みが、反応するわするわ。

いや、目の前の固有の学校が悪いわけじゃないんです。私の中にある、学校に対する記憶やイメージが、その雰囲気を学校から過剰に感じとっているのです。勝手に。


うちに帰ってぼんやり思いました。

息子が、入学して、学校行きたくないって言ったら、私はどうするのかな。学校というものに、こうした負の体感を抱えている私が、息子にどんな言葉をかけるんだろう。

無理やり学校に行かせることはしないと思うけれど、すぐさま行かなくていいっ!なんて言うつもりもない。行かなくていい、という選択肢が、そんなに簡単にはじき出されるものでもない、という事が、直感だったり、経験則からわかります。

ただ、学校に行かないと大人になってから困るよ、とか、友だちはみんな行ってるのに君だけ行かないなんておかしいよ、的に、恐怖や不安で息子を動かしたくもない。

まあ、そんな起こってもいないことはどうでもいいことなんですが、大切な息子を送り出す側の私の中のモヤモヤ。少しでも、解決しておきたい。


🔹🔹🔹



そんな面倒くさい母など意にも介さず、
息子は、じいじばあばが買ってくれたランドセルで小学生ごっこをご満悦。

「のび太みたい~!」

のび太みたいになりたいわけじゃないらしいけど、のび太の送っている小学生生活には憧れているみたいです。

学校にどうして行きたいの?

あえて、息子に聞いてみました。

給食食べれるから

漢字を教えてもらえるから


なるほどー、ま、大した理由じゃないっすね。

嫌な事もあるかもしれないよね、と言っても、反応薄い。

幼稚園や保育園でも、多分、多少の嫌なことは経験してるから、嫌なことのない世界を彼の無意識は盲信していないはずだけど、そこを差し引いても、やっぱり

息子は、

学校を楽しい所だと思っている。

学校は何かを得る場所だと思っている。

学校は何かいいことがありそうな所だと思っている。


ってことです。



そうか、そうなんだね。

学校は、いいところ、なんだね。

君には。


じゃあ、この際、私も探してみようかな。君か学校に行きたくないって口にした時に、君にちょっぴりでも語れるためにも。

私が学校で楽しかったこと、学校で得たこと、学校に行って良かったと思うことを。

どうして学校に行ったほうがいいんだろ、ってことの答えも。



漢字が書けるようになった

九九がマスターできた

勉強はやればできることを知った

成績がわりと良かったからそこにプライドを置くことができた

詩と感想文で賞を取った



まだある、まだある。


小学生三年生で親友ができた

家にいないことで母に息抜きを与えられた

中学の修学旅行は楽しかった

合唱コンクールで優勝して泣いた

高校の友だちが尾崎豊の存在を教えてくれた

私を好きになる異性がわりとたくさんいることを知った

恋をした



まだまだ、ある。
どんどん出てくるわ。


あらら、学校は意外に、いいところだったかもしれない。少なくとも、役に立つ場所だったかもしれません。


🔹🔹🔹


夫に、そんな話をしたら、彼が少しだけ粋な事を言いました。

つまらない事をつまらない事とわかった上で、理不尽な事を理不尽と知った上で、あえてやってみる、校則とか道徳とか、学校が言う頓珍漢な事をあえて面白がってみる、乗っかってみることも、大切っていうか、ムダなことではないんじゃない?

学校を素晴らしい事を学ぶ場所にしないで、つまらない事を学ぶ場所ってことにしてもいいんじゃない?


そんな風に期待を下げて、力を抜いたら、確かに気分は楽です。

私は、息子の行く先々が、素晴らしい場所でなければならない、と思っていたのですね。

素晴らしさ、は、一見、素晴らしくないところにも宿っていたりするのかもしれない。そこを見抜く力を磨く場所であるのかもしれないな、学校は。そうあってほしいな、と思います。


職場でも、そんな話をしてみたら、先輩ママが言ってくれました。

「大丈夫、大丈夫。先生も昔と随分違うよ。手厚いというか、ものすごく丁寧に子どもに接してくれる」


そうなんだー。私の過去からの感情だけで、学校というものを定義しちゃダメてすね。

まあ、しのごの言わず体験してみるしかないんですな。私も息子も。少なくとも、息子の方は腰が引けてないわけですしね…。

🔹🔹🔹

というわけで、
この春から、小学生の母になります、私。










いじめのストッパー。

2016-03-01 18:00:56 | 育児・母稼業
子どもがいじめに遭っているお母さんの話を聞く機会がありました。


その方のお話を聞いていて、誰かを加害者にさせないためにも、まずは、自分の子どもを被害者にさせてはいけないな、と感じました。

お話を聞いたケースは、 確信犯的な悪意によるいじめというよりも、悪ふざけから始まった印象でした。

でも、悪ふざけも、ストッパーが効かないとエスカレートすることがあるという事です。



それでは、ストッパーになるのは何か。

大人の目

やる側の自制と分別、つまり成熟さ


この二つがない場合、(多くのいじめは、この二つが機能しない場合にエスカレートしたもの)、

ストッパーになる唯一のものは、


やられる側の、本気の、

やめろー!
そんなことするなー!


しかありません。


悪ふざけと、やられたくないことの間にある自分なりの境界線をしっかり自覚し、宣言する強さです。

子どもの心にその強さを育てるには、 親がまず自分の嫌なこと、やられたくないこと、をわかっている必要があります。それを宣言できるかどうか、ということも含めて。



例えば、自分の子どもが、いじめられているかもしれない事実を目の当たりにした時、行動を起こせるかどうか。



先生にモンペアって言われたくない

ママ友との関係を壊したくない

言ったところで解決できないかもしれない

これくらいのことは子どもの時にはよくあることに違いない

事実がどうか定かでかないのに騒いで恥をかきたくない



なんらかの建設的な考えがあって、あえて行動しない、という選択をする場合は、それでいいのだと思います。

でも、そうではないのに行動できない場合、この思考にブレーキをかけられているかもしれません。

この種の思考は、誰にも少なからずありますが、この思考を聞きすぎていないか、という点が重要です。

その影で、体の中で小さくなった私が泣いていないか。嫌なことをされて嫌だと思っている私が。嫌なことをやめて、と本当は言いたい私が。


私の本当の声を、聞いてみる努力が大切なんです。


私の子に、やめてよ
私の子に、そんなことするな
私や私の子を粗末に扱うな


そんな風に言ってませんかね、私の声。
それに応えたくなりませんか。
それを、もっと外に出したくありませんか。


もちろん、そのまま言った時には、


モンペア扱いかも知れません

ママ友との関係にヒビが入るかもしれません

誰かが即解決に動いてくれるわけではないかもしれません


でも、

ほらね、言わない方が良かったわ、じゃないんですよ。


表現を変えたり、オブラートに包んだり、アサーティブな態度であったり、時と場合によってはこのままダイレクトでも、ちゃんと表現する必要があります。


だって、

これはね、この宣言は、

まずは、
自分に対して言うんですよ。
お母さんなら、自分と自分の子どもに対して言うんですよ。

この言葉を一番近くで聞いているのは、自分なんですもの。わが子なんですもの。

やめて欲しい事をやめて、という。

嫌な事を、嫌という。

いじめられるのは嫌、やめてっていう。


私が、私に宣言しているってことが、大事なんです。泣いていた私を私が救うことに意味があります。

この声を自分が拾わなかったら、誰がこの声を拾うんだろう、

ってことですね。


他者は、二の次です。

自分の中で響き渡った声は、パワーを生み、行動を促し、必ず聞きとってくれる人を呼び込みます。もちろん、響かない他者を相手にする必要はありません。


モンペアと言われるリスク、嫌われるリスクを避けるために、自分の声を蔑ろにしないこと。

最悪、モンペアと言われても、嫌われても、うるさい人と言われても、自分を無視するよりは、ずっといい。


親がそうしたスタンスでいる時、子どもも、きっと自分の本当の声を聞き、表現できるようになります。

相手にとってはただの悪ふざけも、自分にとって違うなら、そう口にすることができます。

嫌なことをする人と関わらないようになります。自分を大切にするとは、どんなことなのか、自分を大切にしてくれる友人とは、どんな人なのかを学びます。

そして、これが、いじめの最大のストッパーになるのだと思うのです。

🔸🔸🔸

ちなみに、これは、以前の私や冒頭のお母さんを含めて、声をあげるのが苦手な方、行動のブレーキが強い方、自分よりも他者の事情を慮る方に向けて書いています。

すでに声の大きい方、即行動主義の方、モンペア扱いされてる方は、そのままで大丈夫ですので。(笑)




選ぶ力。

2016-02-07 10:41:53 | 育児・母稼業
少し前に、息子を幼稚園に迎えに行って、こんなことがありました。

「B君に僕の家に来てもらいたい!」と息子。

すでに約束していたようで、OKをだすと、2人とも大喜びで手をつないで仲良くスキップをしています。

そこへ、これまた息子と仲良しのC君がやってきて、2人に絡みます。

「だったら、C君も誘って2人に来てもらえば?」と私。

息子は聞こえないふりをしたり、C君から逃げたりするので、仲間外れになってしまったC君に申し訳ない気持ちになって、

「聞いてるのっ?」

と大きい声をだすと、息子も大きい声をあげました。涙まじりに。

「今日は、どうしてもB君と2人で遊びたいのっ!!」

C君の気持ちを考えなさい、とか、仲間外れにされたらどんな気持ちになるの?、とか言いかけようとしてハッとする私。私、息子に何かを押し付けようとしてる。

C君には「また今度遊びに来てね」とホローして、ザワザワした気持ちを引きずりながら息子の意思・欲求を尊重しました。

🔹🔹🔹

この時、ある場面が私の脳裏に浮かんでました。

しばらく前に、息子がこのC君のような立場になったことがありました。息子に優しかったA君が、手をつなぎたがる息子の手を払い、別の数名のお友達に抱きつきにいく。

「どうして?」と悲しげに言う息子に、A君はただ「あっち行ってよ」と逃げ回るだけ。

その場面を偶然みた私、猛烈に悲しくなりました。A君に怒りすら湧いた。そんな目に遭っても、仲間外れにされても、物凄く落ち込むわけでもない息子にも苛立ちを感じました。

子どもは気まぐれだから、とか、男の子はそんなものだから、とか、頭ではわかるけど、そんな言葉で心底自分を納得させることなんてできなかった。

その日から、A君に対して、あの場面に対して、ずっとモヤモヤしたものが残り、私の心に小さな小骨が刺さったままでした。

そして、今、息子はあの日のA君と同じことをしている。でも、私は、それを体験してみたいと思ったんです。

心屋仁之助さんのブログのかつてのこの記事を思い出して、それに背中を押されたのもあります。


🔹🔹🔹

でね、
自宅でB君と夕食の時間ギリギリまで楽しそうに生き生き遊ぶ息子を見ていて、気づいたんです。やっと腹に落ちました。

息子も、あの日のA君も、その日、その時の意思に従って、遊ぶ人を選んでいるんだ、ってこと。私は、過去の経験や傷から「仲間外れ」に反応しているだけなんだってこと。

彼らの行為を、「選ぶ力」と呼ぶのか、「仲間外れ」と呼ぶのか。大人が仲間外れと認定すれば加害者と被害者を作り、何かを選ぶことは悪だと思わせ、たまたまその日選ばれなかっただけの人を、「選ばれない人」に認定してしまう。

もともと、子どもたちは、自分が自由に選んでもいいことを知っているから、他人が選ぶことにも実は寛容なんです。

だから、今日選ばれなくて一時的に淋しさを味わっても、明日も選ばれないなんて思っていない、もし選ばれなかったら、自分の方が別の子と遊べばいいことも感覚的に知っている。1人で遊ぶということを含めて。

だから、わが家の息子も、ある時お友達に遊んでもらえなくても、私みたいに傷ついたり、落ち込んだりしないのでしょう。

「うちの子が仲間外れにされた」とか「うちの子がいじめられた」とか「いつも1人で遊んでいるのは何かある」と親が先走れば、子どもは、自分をそうされる子、可哀想な子なんだと認定してしまう。一人遊びはダメなんだと考えてしまう。

親の中にある反応点、傷って、結果として、まっさらの子どもの心に反応点や傷を与えてしまう。

だから、親は、自分のその反応点や傷に自覚的であることが大切なんだと思います。

ちなみに、息子は、「C君には、いつ来てもらおうかなー」と話してますから、彼はC君を排除したかったのではなくて、「家遊びは一対一がいい」という今現在の彼の好みを行使したかっただけのようでした。あの日自分を選ばなかったA君も、相変わらず好きなお友達なんだと教えてくれました。

その日たまたま自分が選ばなかった人への最低限の配慮は、少しずつ洗練されていくのかなって思ってます。

🔹🔹🔹

さて、私たち、大人はどうでしょう。

自分を選ばなかった恋人、自分を選ばなかった友だち、自分を選ばなかった学校、自分を選ばなかった会社にこだわっているのは、「選ばれなかった」という傷がそうさせます。

選ばれない側にばかり立とうとするのも、その心情にばかり同情するのも、「選ばれなかった自分は惨め」「選ばなかった自分は非道」という傷がそうさせます。

「選ばれない」に焦点を当てる前に、そもそも私たちは、自分のために、自分の気持ちに従って、何かを自由に選んできたでしょうか。「選ぶ力」を育て、行使してきたでしょうか。

「選ばれなかった対象」「選ばなかった対象」を傷つけないことばかりに焦点を置いて、自分の選ぶ力を台無しにする。それは、「選ばれない自分」を際だたせるだけなのかもしれません。

人生、選ばれないこともあります。でも、それはたまたまだったり、他からは選ばれる可能性であったり、自分の方が違う何かを選ぶ機会ととらえることもできます。

もっといえば、選ばれなかったということは、自分もそれを選んでないということです。

大人が選ぶ事を自分に許していなければ、子どもにそれを許せるわけがない。人は自分を許せる範囲でしか、他人の事も許せない、そんな存在だからです。

私は、この自分が選ぶということに、今更ながら自覚的でありたいと思っています。

息子とその小さく、自由な友人たちに、大切なことを教えてもらいました。

思い込みの向こう側に行く。

2015-10-27 12:21:33 | 育児・母稼業
引っ越して、数ヶ月。

この間、息子以外とは誰とも話をしない日があったりして、メンタル的に低空飛行をさまよったこともありますが、今はそこからはすっかり抜けました。

テニスを始めて、仕事を始めて、挨拶を交わせる知り合いもできて、自分の生活の形が落ち着いてくると、自分の心も落ち着きます。そうなると、改めて、冷静に過去の暮らしと今の暮らしを比較できます。

うん、断然、今の方がいい。あれだけ住み慣れた場所と仕事、友人たちとの別れがつらかったのに、今の方がいいんです。何がって言われると困るんですけどね。メリット、デメリットをあげると同じくらいありますが、全体として、私の気分がいいんです。

やっぱり、流れだったのかな。自分にとって、この引っ越しは、私の人生において、次のステージ?へのキッカケのようなものだったのかもしれません。


前置きが長くなりましたが、今日は息子のことを書きたかったのでした。

我が家の中で、この引っ越しをすんなり受け入れたのも、実際に来てみていち早く、新しい幼稚園や生活に馴染んだのも、息子でした。変化に強い男です。

私が、東京時代の友達に会いたいとかグチを漏らすと、

「だったら、ぼくのともだちのママと仲良くなればいいじゃん」


前の家の方が買い物が便利だったのにと不満げに言うと、

「でも、このおうちは、ベッドもあるし、キッチンにはカウンターもあるよ」


と、まあ、心理カウンセラーのように、新しい暮らしの中で、プラスの面に目を向けなさい、と促してくれるわけです。

そんな彼に、私は、一つだけ心配なことがありました。

私が仕事の日には、息子を幼稚園の延長保育に預けることになりますが、私の就業時間の関係上、彼はお預かりの部屋で毎回最後の1人になってしまうのです。

小規模かつ転勤族の多い園なので、働いているお母さんも、かなり少数派。

試しで預けた際に、最後から二番目になったことがありましたが、一番最後のお友だちに「さようなら」を言う時の私の何とも言えない思いがありました。

ひとりぼっちでかわいそう

うちの息子より遅いお迎えでありがたい(助かった)


そして、ああ、自分の仕事が始まったら、私は毎回こんな思いをするのか、息子もひとりぼっちにさせてしまうんだ、と少々ブルーになりました。

いざ出勤日初日。
ドキドキしながら迎えに行くと案の定、息子はひとりぼっち。先生とマンツーマンで遊んでいます。

少しご機嫌斜めな様子の息子。家までの道すがら、

「どうして、もっと早くお迎えきてくれないの」


と、私の耳元にヒソヒソ声。

うーん。ハッキリ言って、この時は心が折れそうでした。毎回こんな気持ちのままで仕事続けられないかも、と。

ただ、私が仕事を諦めたら、それで万事OKではないな、という感触だけは強くありました。それで、自分の思いを改めて、観察、点検してみることに。

最後のひとりぼっちはかわいそう。

息子にガマンさせて申し訳ない。

この二つの思いの中に、きっと、私の思い込みがある。その思い込みを外せば、思い込みの向こう側に行けば、何かが変わるかもしれない。

最後のひとりぼっちは、本当にかわいそう?
→おもちゃを一人占めできるし、優しい先生は100%の関心を向けてマンツーマンで遊んでくれるメリットも。

息子に申し訳ない、って本当にそう?
→友だちとは長く遊べるし母親以外の信頼できる大人との関係もじっくり育めて、息子にはむしろいい面の方が多いかも。

こんな風に、自分の思い込みを溶かして、違う思考を取り入れてみたら、気持ちがずいぶん楽になりました。

うん、そうだ。大丈夫かもしれない。

次の勤務日に、さほど気を張り詰めないで、息子を迎えに行きました。その日は、もう一人女の子が残っていました。お試しの時に残っていた子です。不思議なもので、その子を見ても、私の気持ちは、「かわいそう」とはなりません。

息子は、少し名残惜しそうに、靴を履いてお預りの部屋から出てきました。そして、開口一番、これです。

「あのさ、おかあさん、おねがいがあるんだけど」


なに?

「これからは、ぼくが一番最後になるようにむかえに来てくれないかなぁ」


はぁ?だって、この前は、遅いって言ってたよね。

「だって、最後だと、おもちゃをぜーんぶ一人で使えるんだよ。積み木で、ドミノをやりたかったのに…。できなかったよ、もう」


あ、はい。

いったい、息子に何が起きたのか。

私の意識が少し変わって、息子の意識も変わった。私には、そうとしか思えませんでした。

その日から、私は、違う苦労をすることになります。職場から早く帰るのではなく、早く帰りすぎない苦労を。もちろん、時々は早めに帰ってみたりする苦労も(苦笑)。

こんな風に、困ったことも、面倒なこともあるんですが、でも、なんだか、毎日楽しいのです。

息子の、覚えたての漢字。「くう」と読みたい

加害者をおりる。

2015-02-17 11:50:14 | 育児・母稼業
息子にイライラする場面というのは多々あれど、一番イライラ感が強いのがこんな場面。

「お母さん、トミカのアルファードがないんだよ!!
どこ行ったんだよ。もうっ、どこにもないんだよ。探してくれよ」

「ん?朝はあったのに?ちゃんと探したの?」

「だからぁ、ずっと探しているのにないんだってば」


この、「だからぁ」の「おかあさん、あんたも、もうわからん人だな」的な言い方がすごく癇に障ってさらにイライラします。少なくとも「ずっと」なんてのは、絶対ウソ。物がなくなると父や母が探すのが当然と思っています、こやつは。


「自分でなくしといて、探してくれよって言い方はないんじゃない?そこは、『探してください』ってお願いすることなんじゃない?」

「もう、わかってるって。探してよ、早く」


とまあ、こんなやりとりが年がら年中繰り広げられ、結局私が探す羽目になっていました。そして、私のなかに常に「もう、なんで私がっ」というモヤモヤが残ります。おもちゃは見つかるも、息子はほどなく違うおもちゃをなくし、またこの不毛なサイクルが繰り返される、という。


育児本だと、

「じゃあ、お母さんと一緒に探そうか」

みたいな感じになるんでしょうか。お母さんは、子供の気持ちに共感してまずは子供の気持ちを落ち着かせ、一緒に探し方も教える。さらには、物が簡単になくならないように生理整頓の仕方も徐々に伝えていく、みたいな。

私には、そんなまどろっこしいことはとうてい無理なので、最近新しい作戦を思いつきました。でもって、かなりの効果を上げています。その作戦とは…



加害者をおりる。


もっといえば、

息子を加害者にして、私が被害者になる。



「えーっ、お母さんがこの前買ってあげたアルファード、もうなくしちゃったの?ちょっとそれはないんじゃない」

(せっかく買ってあげたのに、どうしてくれるんだい、私、被害者ですけど、というニュアンスを込めて。)

「あっ、あー、わざとじゃないんんだよ」

「わざとじゃなくてもさー。失くすってどういうことよ」

「あー、ご、ごめんなさい」


母の思わぬ反撃にびっくりした息子の顔が引きつります。「ま、まずい。おもちゃ探してる場合じゃない」と思っているのか、どうかはわかりませんが、明らかに形勢逆転。

そして、加害者らしく殊勝な顔になって、静かに違うおもちゃで遊び始めます。で、何日かして失くしたおもちゃが出てきて、

「おあかさん、あったよ、あった。ボク、なくしてなかったよ」

と息子の歓喜の声。加害者から抜け出せて、すっきりした様子です。私は、「へえ」と薄い反応(イヤな母ですね)。

もちろん毎回このパターンがうまくいくわけではありませんが、でも勝率はかなりのもの。なにより私の中のモヤモヤ感は少ないのがいいです。

だって、どちらかというと、これが本来の姿ですよねー。そもそも息子は被害者ではなくて、私も加害者ではなかったのだから。逆なんだから。

これまでのやりとりは、おもちゃをなくしたという過失を犯した息子が被害者になりすまし、過失のない私が加害者にされていたんです。

親子という慣れ合いの構造から、息子の中には「自分のやったことの責任は親がとるもの」という意識が勝手に根付いていたからですよね。

こういう甘えの心理は、赤ちゃんの時期にはむしろ大切なコミュニケーションです。赤ちゃんが泣いたらお母さんがあやすというのは、お母さんが赤ちゃんの感情に全面的に責任を負ってそれを解消しようとする行為ですから。それが、親しい人間関係を構築していくんですものね。

でも、息子も5歳。いつまでも赤ちゃんコミュニケーションは通用しません。少しずつ少しずつ「自分のやらかしたことの尻拭いは自分でやる意識」と、「自分がしでかしたことで人の力を借りる時にはそれなりの『お願い』の作法がある」ことを学んでもらわなくちゃ。

おそらく幼稚園などではそれなりにできているんでしょうが、家のなかだって「親しき仲にも礼儀あり」というルールは最低限必要ですからね。

高尚な考えがあるわけではなく、私は、自分には非がないのに、文句を言われながらおもちゃを探さなくちゃいけないことが、どうにもこうにも我慢ならなったわけです。

で、そうか、と気付きました。私の中にあったのは、他人がとるべき責任を自分が取らされていることへのモヤモヤだったんだな、と。つまり、私のモヤモヤは自分への不当行為に対するまっとうな反応ですよね(少々大げさですが)。


大人になっても、こういう子供の甘えを引きずる人は少なくないです。自分のしでかしたことや、自分の感情の責任を親しい人に取らせようとする人。赤ちゃんコミュニケーションで親しい人と関わろうとする人。

妻と一緒にいる時だけ不機嫌な夫というのは、まさにそのタイプ。こういう人のことを「甘えられるのは妻だけだから」と擁護する向きもありますが、こうした意見は本当に嫌いです。

私の友だちでも、そういう夫に悩まされている人が結構います。優しい彼女たちは、「なんで、私が」と思いつつ、不機嫌な夫に反論できず、苦しんでいます。悪いのは相手なのに、被害者はむしろ自分なのに、まるで自分が相手に何か悪いことをした加害者みたいな位置づけにされています。で、そこから抜けられない。加害者からおりられない。

こういう場合の「なんで、私が」は、ものすごくまっとうですから、この気持ちを大事にしてほしい、相手の都合「疲れてる」とか「仕事が忙しい」なんて真に受けちゃだめ、っていつも話したりします。

だって、自分の責任をちゃんと自分でとらせてあげるのって、相手を大人として認めることだし、実は愛情なんですよね。

不機嫌な人はほっておく、相手にしない、というのが一番いい方法だと思いますが、優しい人はこれがなかなかね。

そっけない人には自分もそっけなく、と前に書きましたが、不機嫌な夫にはそれ以上に自分も不機嫌に。私だったら絶対にそうするんですけどね。

何はさておき、息子の将来の奥さんには、こんな思いをさせたくないな、ってつくづく思います。


↑ポチッとお願いします。
応援していただけると、更新の励みになります。












サイレントマジョリティ。

2015-02-13 17:28:55 | 育児・母稼業
いつだったか、Eテレでやっていた対談番組「SWITCH インタビュー」で、俳優・東出昌大と作家・朝井リョウが出ている回を偶然見た。

彼らがネットでのエゴリサーチ(自分の評価について調べること)を欠かさないというくだりがあったのだけれど、そのなかで、朝井さんの話していた事がとっても印象的だった。

ネガティブな声は目立ちやすい。ポジティブ意見をわざわざ表明する人は少ないから、実際にはポジティブ意見が大半でも、どうしてもネガティブが突出してしまう。そして、受け手はネガティブ意見ばかりなのか、という錯覚をしてしまう。

一言一句は全然合ってないかもだけど、たしか、そんな内容だった。

これ、同感するなぁ。

今年から息子の幼稚園のPTA役員を引き受けることになった。新役員の仲間で話し合って、これまでの旧態依然のやり方を少し見直し、できるだけ無駄を省き、全体の仕事量を減らす努力をしようということになった。

普段から、役員や一般のお母さんたちから、母親の幼稚園活動についての不満や愚痴を当たり前に聞いていたから。

すると、まあ、どこで話し合いの中身を聞いたのか、来るは来るは「変えられるわけない」「伝統は守らなくてはいけない」「先例がない」「経験者の意見を聞いて」というメールや電話の否定的な声が。

それも、多くが役員経験者から。えっ、あなた、「仕事多すぎ!」って文句言ってませんでしたっけ?って耳を疑った。

極めつけは「みんなそう言ってるよ」「ほとんどの人が同じ意見だから」の殺し文句。

みんな?ほとんどの人?
えっ、そうなの?

自分達の一人相撲だったのかな、とヘタレな私なんかは意気消沈してしまい、周囲のお母さんたちみんなが、自分達に敵意をもっているような錯覚に陥って結構悩んでしまった。

けれど、その後、めげない新役員の仲間たちがいろんな声を拾ってくれた。感触ではネガティブ意見が実は多くないことがわかった。大半が反対なんてことも根も葉もない話だった。

ネガティブ意見を持っていた人の回りにいるお母さんですら、

「えーっ、[みんな]でひとくくりされちゃってるの?揉めたくないし、あえて黙ってるけど、あなたたちを応援してるよ」

と声を掛けてくれた。

そっか、味方はいるんだ、とホッとした。でも、味方の声は小さいものなんだ、と改めて実感した。

そうしたゴタゴタが落ちついて見えてきたのが、たぶん、こういう場合、鮮明なネガティブ意見とポジティブ意見はそれぞれ少数意見でしかないってこと。でもネガティブ意見はネット同様、尾びれ背びれがついて炎上しやすい。だから、際立つ。

ほとんどの人は無関心層。いわゆるサイレンマジョリティってやつだ。

役員をする前の私もその一人だったから、サイレントマジョリティーの気持ちはわかる。

でもその無関心の人たちは、「まあ究極的にはどっちでもいいんだけど、できたら楽にしてよね」とは、薄く、でも確実に思っているのだ。私たちの考え方に影響を与えたのは、間違いなくこの空気だし。

でね、そのサイレントマジョリティの、声に出さないけれど、何となく思っている内容を丁寧にくみ取って、一つでも二つでもいいから実現させる作業が、実は私たちかやりたいことなんじゃないかなってことがわかった。(政治とか選挙みたいな話になってきたぞ)

さらに言えば、その意見を汲み取るっていうのも、つきつめれば、とりあえずはやりたいようにやるってことしかないのかな、と。私たちが、私たちの感覚で。もちろん突っ走りすぎず、効果測定もしつつ。

だって、私たちが役員の当たりクジを引いたっていうのは、それはクジの方が私たちを引き当てたってことでもあるのだよね。

一匹狼っぽくて、幼稚園にもしがらみが薄くて、ママ友付き合いも熱心じゃなくて、しかもがっつり仕事している人が多くて、全体的に大雑把でユルい性質。

そんなメンバーばかりが引き当てられたのって何らかの意味がある気がする。集合的無意識という観点でみたら、サイレントマジョリティの声が飽和して産み出された縁なのかな、とも思えるし。

もちろん、ネガティブ意見を訴える人たちの心情、自分たちが苦労して、我慢してやってきたことを簡単に変えるなんて言われたくない、という気持ちも無下にはできない。負の重い実感が伴っているだけに、サイレントマジョリティーを一気に飲み込む力があることも想像できる。

大切なのは、そこに理解を示しつつ、私たちは私たち、あなたたちはあなたたち、の境界線を上手に引くことなんだろうな。

そしてやっぱり鮮明なネガティブ意見に引きずられないことも、自分たちの感覚を信じるのも大事。

うーん、この一年、いろいろあると思うけれど、頑張ります。



↑ポチッとお願いします。
応援していただけると、更新の励みになります。












春は別れの季節です。

2015-01-30 20:21:32 | 育児・母稼業
ただでさえ少ないママ友の一人が、この週末にお引っ越しをすることになった。彼女の息子くんは、幼稚園を転園するので、園行事やお迎えでばったり顔を合わせることもなくなる。

彼女と話す時の、ほっこりできる時間を失ってしまうことが、悲しい、寂しい。このところ弱り気味のせいもあって、彼女がいなくなることを考えると、たちまち涙腺がゆるむ。

だから、私、春は嫌なのだ。

息子たちの仲は一緒にいれば遊ぶ程度で、大して仲良くはなかった。でも、私とそのママ友とは妙にウマがあった。息子たちはおまけの関係だった。

もともとママ友付き合いが積極的ではない二人だから、出会いから3年近くたつ最近になってやっと気の置けない関係になってきた感じだ。

互いの嗅覚で認めあった「この人とは合いそうだ」という勘を頼りに、のんびり少しずつ距離を縮めてきたのだと思う。

多分、二人とも、人間関係にはどこか慎重で、身構えている。でも、人付き合いが悪くないママを多少背伸びしながら演じてきた節はある。それが、大きな共通点かもしれない。

私の家に親子で遊びにきた時に、「春って苦手なんだ」と私が言うと「私も」と彼女が言い、「一人で行動するのが結構好きで」と彼女が言うと、「同じく」と私が言った。

そして、二人で顔を見合わせて、「えー、そうなの?」と言って、声を上げてゲラゲラ笑った。息子たちは、お菓子の取り合いでケンカ中だったのに、そんなのお構い無しで。


そんな彼女から、昨日、短いメッセージがLINEに乗ってやってきた。


いつでも会える気がしているから、別れの言葉はありません。

でも、○○ちゃん(私の名前)には今まで癒されたよ。それだけは伝えたい。

息子といっしょで、集団行動が苦手な私だけど、それでも友達ができるのねー。よかったー。ホントにありがたかった。

今まで、色々ありがとう。そして、これからもよろしくね。



ウルウルしつつ、私も、ああそうだな、と思った。大人になってからでも、人付き合いが苦手でも、出不精でも、友だちはできるってこと。

親しくなるときに小さな勇気を出す瞬間はあるけれど、自分をごまかさなかったら、自分を安売りしなかったら、素のままの自分にぴったり息の合う友だちはできるものなんだ。


将来息子がもし友だちのことで悩んだら話してあげよう。私と、このママ友のことを。

友だちがいっぱいいる人が眩しく感じても、自分がちゃんと自分をやっていたら、そんな自分にふさわしい本当の友だちはできるよって。焦らず待っててごらんって。


ママ友からのおみやげ。彼女のチョイスは、なぜかいつも息子のハートを強烈につかむ。












信じてみるかぁ。

2015-01-07 09:37:16 | 育児・母稼業
昨日は、このあたりで一番大きな病院に行ってきました。持病が年末から悪化し、かかりつけのドクターからの紹介状持参で。

雨が降りそうなのに交通機関をいくつか乗り継ぐ必要がある上、気の遠くなるほど長い待ち時間が当たり前の大病院の受診。

1人でも気の滅入る大病院の受診に、なんと冬休みで「体動かしたくてウズウズしている」症候群の息子まで連れていくという暴挙にでました、わたし(汗)。

そこには、私のちょっとした挑戦がありました。

そもそも病院に息子を付き合わせるなどという予定は全くなく、幼稚園が始まる来週に行くつもりだったのですが、一昨日、症状が強かったために、どうしても早急に受診したくなったのです。

では息子をどうする?

夫は、今週は多忙週間で戦力外。となると、一時保育か近所のママ友にすがるか。

一時保育は前日予約は難しいし、たとえ予約できてもお弁当持参が必須で、送迎も面倒。正月早々ママ友にお願いするのも気が引けるし、終わりが何時になるかわからないしこれまた面倒。

こうなると「自分が諦める」が一番てっとり早いし、その選択がかつての私の専売特許でした。が、これをやると自分に不満が残ることがわかる。

「実家が近かったらなー」「こんな体調でも受診を我慢しなくちゃならないなんてー」という不満は不機嫌に姿を変え、夫や息子に八つ当たりする可能性大。

これは良くない、と言うことで、とりあえず「病院に行く」という事は決めてしまいました。

再び、では息子をどうする?

まずは、焦って、必死で、藁にもすがる思いで解決策を考えようとする、このいつもの感じをやめよう、と力を抜く。そうです、脱力です。

解決策を自分でしゃかりきになって考えるのをやめると 、不思議なもので、自分がどうにかしなくても、その解決策が向こうからやってくるように感じられてきたのです。

と、リラックスしたところで、ふと誕生日を迎えて間もない5歳児さんが目に飛び込んできます。

「そっか、一緒に行けばいいんだ。もう5歳だし。これだよ。これが一番楽チンだよ」

聞き分けのいい女の子だったり、自立度の高いお子さんのお母さんからしたら、「そんなことー」と笑われてしまうかもしれませんが、元気度マックスの幼稚園男子を自分の用事で大病院に連れていくのは、私にとっては全く頭をかすめないほど面倒かつ難関事項だったのです。

でも今回これに挑戦したのは、「いいよ。一緒に行ってあげる。待つのできるよ!」と得意気に言ってくれた息子を信じてみるかぁ、と思えたこと。

そして、私が診察中には、待合室の息子を見守ってくれる人がいる気がするな~と何故か楽観できたうえ、まあ最悪、病院に多少迷惑かけてもいいや、と腹が決まったことです。

そんな風に息子を信頼して、助けてくれる誰かを想定できると、なにもかもがスムーズにいく予感がしてきます。「◯◯だったらどうしよう」というのがほぼありません。


さて、結果はいかに。息子を連れての大病院受診はやはり暴挙だったのか、それとも最善策だったのか。


正解は、後者でした。いろいろあるにはありましたが、これ以外の方法をとらなくて良かったーと思うくらいに楽チンで、しかも楽しかったのです。

ますは電車とバスの乗り継ぎ。乗り物オタクの息子にとって夢のような時間。大体はおとなしく乗っていますので、私はときどきアイコンタクトするだけ。久しぶりの乗り物が嬉しそうな息子の顔に、私の顔も自然とほころびます。

次は、病院での待ち時間。これは、いかんともできず、やはり予想通り長かった。ただでさえ時間のかかる受け付け後、診察時間まではざっと一時間半あると言われゲンナリです。

さすがに病院内に一時間半とどまるのはキツイので、近所に公園でもないかなーとスマホで探したところ、徒歩10分以内の所に遊具の充実した公園発見。二人でとぼとぼ歩いてたどり着いたのがこの公園です。



時々親子連れがやってきたりしましたが、ほぼ私たちの貸し切り状態。アスレチック遊具に挑戦したり、所有者不明と思しき古いキックボードを拝借して練習に励んだり、息子は広々とした公園を一人占めしてご満悦。「どうしてお友だち全然いないんだろうね」と少々寂しそうではありましたが。

時間はあっという間に過ぎて病院まで帰る道では、「おうちに帰りたくなっちゃった」「遠いよ~!まだつかないの?」とグズグズモードでしたが、適当にあしらってとりあえず予約の時間には病院に到着。

そして受診する科の待合室に滑り込みます。ここでもしばらく待たされると思いきや、いきなり私の名前が呼ばれました。待ち時間用に息子に準備したタブレットをセットする余裕もなくあたふたしていると、息子は椅子に座り「行ってらっしゃ~い、頑張ってね」と満面の笑み。

考える間もなく、「あっ、うん」と言いながら診察室に向かおうとして息子をチラッと見ると、隣に優しそうな年配の女性が座っていらっしゃる。「大丈夫かも」の予感。


診察時間は15分くらいで終了。「タブレットも絵本もおもちゃもないけど、どうしてるかな?」と少々心配しながら待合室に戻ると、行儀よく椅子に腰かけて笑顔で待っている息子の姿がありました。

近づくと、案の定隣の女性が「息子さんお利口にしてたわよ」と声をかけてくれました。私の診察中、色々話しかけてくれていたようです。「お世話になったんですね。ありがとうございます」と頭を下げると、息子が「おかあさん、大丈夫だった?よく頑張ってたね。エラかったね」とまるで保護者の発言。

その息子の言い草に大笑いした女性に再び頭を下げて、私と息子は待合室を後にしました。「やるじゃん」と息子の頭をなでながら。

ご褒美にマクドナルドでランチをとって、雨が本格的に降りだすまえに無事帰宅。心地よい疲れとともに、二人とも「あー楽しかった」という気分になりました。ストレスの多い病院通いがなんと息子との楽しいデートに早変わりしたのですから。

一番大変だと決めて選択肢にも上がらなかった選択が、「信じる勇気」と「迷惑をかける覚悟」でベストチョイスに変わる体験。

取るに足りない出来事でしたが、「やってみるもんだな~」と妙に自信のついた一日でした。

息子も、今朝は夫に自慢大会。「赤くて丸い椅子にねー、あっ四角だったかな、座ってねー、一人で待ってたんだよー」

決めたらあとは信じるだけ。迷いや余計な心配がないと、結果もそれなりに、よりよいものが返ってくるみたいです。