すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

苦手な人たちが教えてくれること。

2015-12-03 10:15:06 | My メソッド
マインドフルネスを意識するようになってから、苦手な人が次々に目の前に現れるようになった。

過去の痛み、過去の傷があぶりだされるみたいで、少々しんどい。

でも、私がこれまで無意識的に見ようとしなかった古い感情、痛みや傷と一体化して表現されないでいた感情にやっと光があたり、何かを訴えているんだと思った。

私が苦手な人は、

不機嫌
無愛想
相手によって態度を変える
自己主張が強い
気が強い
意地悪
負の感情が顔に出る


といった性質を抱える人たち。

さらにいうと、
私は、その人たちの性質が自分にだけ向けられている気がして、その責任を私が取らなくては、と無意識に感じる。

だから、その苦手な人たちの所作を気持ちの上で素通りできない。気になって仕方がない。時には恐怖で縮み上がる。

だから、笑顔を向けたり、丁寧に接したり、つまりご機嫌をとるような行動に出たりする。

相手はもちろん全く変わらない。むしろ、私自身報われない自分の努力に嫌気がさし、卑屈になった分だけ、相手の態度が悪化したように感じる。

これが、この人たちが、この人たちの性質が、わたしのシャドウなんだろうということに、ある時気付いた。

苦手な人が抱える性質は、私が自分の人生の中で切り捨ててきた、否定してきた、忌み嫌ってきた性質だ。

私の中にそれがあることを許さない(と、自分で思い込んだ、あるいは誰かに思いこまされた)さまざま出来事が、私の人生に起きたということなのだろう。結果、その性質は、他者から、世の中から決して受け入れられないモノなんだと、勝手に学んでしまったのだろう。

そして、私は、

いつも機嫌よく
誰にも平等に接して
あまり自己主張せず
優しく親切で
基本ニコニコ


といった性質だけを
自分に許してきたのかもしれない。


でも、誤算があった。

私が苦手な人は、どうやら、他の人にとっては必ずしも苦手な人ではなく、友だちだってたくさんいる、ということ。

つまり、私が嫌ってきたそれらの性質は、決して他者から受け入れられないものではなく、たまたま受け入れられない人もいる、という程度のものだったんだ。

これに気づいてから、なんだか全身の力が抜け、毎日のように涙を流した。

不機嫌な自分、負けん気の強い自分、時に意地悪だってしてきた自分も、私だ。私なんだ。そんな私に居場所を作ってあげて、「お帰りなさい」と言ってあげて、ホッとして出た涙、仲直りの涙なんだろう。

そして、苦手な人に悪態をつかれた時には、嫌味を言い返し、自分から決して挨拶してこない人にわざわざこちらから挨拶するのもやめてみた。心の中で「フンっ」って悪態をつく自分も受け入れた。こんなことは、これまでの私には考えられないことだった。

大人の対応、笑顔、感じよく、を是としてきた自分が、いかに窮屈だったか。いかに自分をいじめてきたのか。大人の対応、笑顔、感じ良さで、そうできない人を無意識のうちにいかに否定してきたのか。

それに気づくと、いかに自分が自分を知らないで来たかに気づかされる。

さらにいうと、私がシャドウを切り捨てたつもりですましていたかげで、私のそのシャドウを一身に浴びてきた人が1人いる。夫だ。

私は彼には、不機嫌で意地悪で感情的だった。つまり、私のシャドウが私を崩壊させるまでに至らなかったのは、そのシャドウのボディブローを受け続けてくれた夫の存在が大きいのだ。


苦手な人は、今でも、やっぱり苦手だ。すぐに平気とはならない。まだ怖さも少しある。できたら顔を合わせたくない。

でも、自分から媚びるようなことはやめたから、惨めさはない。これが、私にとっては一番大事なことだったりする。その代わりに、苦手に人に対して「あなたは、そのまんまでいいよ。仲良くはなれないけどね」という気持ちを大切にすることにした。

苦手な人って、私の中に窒息寸前の私の一部がいることを教えてくれる人。その私の一部を解放するきっかけを与えてくれる恩人なのかもしれないよね。

だから、ありがとう、
感謝なんだよね。