すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

昨晩のカレー、明日のパン。

2014-10-31 16:58:21 | 本・映画・音楽
NHKのBSでこの秋から始まったドラマ、「昨晩のカレー、明日のパン」。

木皿泉さんの小説を原作に、木皿さんが脚本も手がけたこの作品。

原作は、今年読んだ、というか、ここ数年読んだ小説の中で、私の中で間違いなくナンバーワンなので、ドラマ化されるニュースを見て、それはもう楽しみったらありませんでした。

ただ、配役が発表されて、テンションが一気に下降。主人公のテツコさんが仲里依紗さんで、ギフが鹿賀丈史さん。

なんかキャラ、濃くない?

テツコさんはもっとしっとりしたイメージだし、ギフもなんというかもっと落ち着いた感じだったような。

日曜夜は、ゆっくりテレビを見れる時間帯ではないのでとりあえず録画。配役の違和感を引きずって「見ないかもな~」なんて思いながら。


それが、おととい、体調不良で寝込みながら、何か刺激の少ない番組が見たくなって見始めたのが、このドラマ。

ああ、体調不良になってよかった
ああ、消さなくて良かった


と思わず呻きたくなるくらい、素晴らしいドラマでした。最初から最後までずっと泣いてる私は、ちょっとウザいかしらね。

のっけのテツコさんとギフの朝食の風景から、泣ける。ユーモアたっぷりの描写なんですが、なぜだか泣ける。ついでに、エンディングはプリプリの「M」。明るい音調なのに失恋ソングというギャップ感が、このドラマとマッチして、これまた泣ける。

悲しいとか、感動!とか、嬉しい、とか、そんな理由以外て泣ける作品があることを知ったのは、やっぱり木皿さんの「すいか」だったかもしれないな。

私は、こういう世界の何に反応するんだろう。

この涙は、オトナだけに許されたご褒美って気がする。それなりに頑張って、それなりに悲しみも苦しみも味わって、大きな別れも経験して。そうやって、「よく頑張ったね」と大きな存在に頭を撫でてもらってる感じの涙。

ちなみに、テツコさんな仲さんも、ギフの鹿賀さんも、こんな素敵な配役があるのかっていうくらいの馴染み方。どの口が言うか~って感じですが、でも事実です。

配役聞いてテンション下がっていた自分に言ってやりたい!

「食わず嫌いは、損するよ!」

って。

個人的には、心はそれなりに元気だけど体調悪い人にオススメのドラマです。

それ、あたしか(^_^;)




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逆をやる。(心屋流メソッド)

2014-10-26 09:52:36 | 心理メソッド・生き方
前回に続き、心屋さんのメソッドについてです。

心屋さんのメソッドに触れて、痛感するのは、心屋さんのメソッドの強み、多くの悩める人をその気にさせたり、行動へと駆り立てるのは、

表現のオリジナリティ



言葉のシンプルさ


の2つだなぁ、と。


言ってることは心理メソッドの王道でも、独特の言い回しはオリジナリティそのもの、そこでまず興味を惹かれます。で、シンプルだからわかりやすくて、実践しやすいんですね。


逆をやる。


これも、あまりに斬新。つべこべ考えずにやってみて、という強引さがあります。人間関係でドツボにはまる人は、まさにつべこべ考える傾向があるので、紋切り型の言い回しそのものが治療的です。


これ、

今までとは違う思考を選択する

対極のパーソナリティーを自分に組み込む



なんて言い方もできますが、これだと頭で理解してそれだけで終わりそうです。お勉強的な感じで、行動を促すインパクトがない。魂まで落ちない感じです。


逆をやる。

タブーに挑む。パターンを崩す。


という表現もあります。



わかりやすいです。頭で色々考えなくても、自分にとって、偏りのあった行動の逆にやればいいのだから、やろうとする勇気と決心さえあれば簡単。

その集積が、一つのあり方に凝り固まっていた自分に、違うあり方を添えてくれます。


私の場合は、

本心からではなく、義務やべき思考でやってたものは、とにかく逆をやる。

バランス悪いな、予定調和でやってたな、と思うものは、逆をやる。


と決めました。


例えば、


メールをすぐに返信してたのをやめて
すぐには返信しない。

仕事は全部引き受けていたのをやめて
やりたくないものは断る。

人を褒めることばかりしていたので
時には褒めないこともする。

子どもを心配してばかりだったので
大丈夫と思ってみる。

ランチのお店はいつもお任せだったので
私が選ぶ。しかも独断で。

苦手な人にも愛想よくしていたのをやめて、避けてみる。


一つひとつは小さい出来事なんですが、もちろん実践するにはそれぞれ勇気と決心が要ります。なにせ、これまでの自分の行動パターンとは違うものですから。

最初は、力んで、恐る恐るやります。それが、だんだん慣れてきます。そして、いつしか、べき思考に縛られず、ゆるんでいく自分、自由さを感じます。

例えば、メールの返信。翌日にメールを返すのも、最初はソワソワします。でも、エイヤとやってみると大したことない。別に何も起こらない。

そのうち、自分の遅いメール返信をイライラされてどうしよう、という焦りが減ります。さらに他人の遅すぎるメール返信も気にならなくなります。

不思議な境地。こんな世界があったのかーという心境。

やがて、逆ばかりやらなくなる。どっちもあり、どっちでもいい、になります。返信を早く返してもOK。遅く返してもOK。相手に対してももちろん同じ。

自分の中の選択肢が増えることで、自分が広くなる感じ、大きくなる感じがします。

あっ、そっか。懐の深い人というのは、OKの範囲が、自分にも相手にも大きい人なんですね。

逆をやっても、不都合が起きない。それが、実は一番の驚きでした。自分がそれをしたら大変なことになる、他人に迷惑がかかる、と異様に怖れていたことが、実際にはそうでもない。むしろ、自分がゆるんだことで相手もゆるんでくれる。そんな実感があります。



さて、心屋さんについて「無資格」とか「心理療法じゃない」とか言う人もいますし、ご本人もそれを自認する発言をされています。

個人的には、自分も含めて効果を実感する人が大勢いることが全てを物語っていると思います。無資格だから信用できない、という人の気持ちもわからなくない。ただ、もったいないなぁ、そのこだわりがいろいろな可能性を潰すのになぁという老婆心が湧いてきます。


心屋さんのメソッドは、結局はアカデミックな心理学とも通底しています。心屋さんの勉強量は並じゃないです、ホント。

河合隼雄氏の「影の現象学」を読むと、なるほどユングと心屋メソッドは似てる、とも思いますし、

私の好きな精神科医、斎藤学先生のツイートを見ていても、かなり共通点が多い。

(ユングや斎藤先生はアカデミックでない、という人もいるかもしれませんが(^_^;))

心屋さんは、非常に頭のいい人で、一つ聞いて十理解できた人で、短い時間で王道の心理学を習得し、さらに自分のオリジナルなメソッドを築き上げた、ただそういうことなんだと思います。

だから、アカデミック心理学を信奉する人も心屋メソッドを侮るなかれ、と思うのです。

そう、なんでも、

まず、やってみる。

です。基本は。(*^_^*)


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嫌われてもいい。(心屋流メソッド)

2014-10-21 21:46:16 | 心理メソッド・生き方
いつからか、心屋仁之助さんのブログを毎朝読むのが日課になっています。

最初は、好きなブログの中の一つでしかなく、時々読む程度だったんですが、そのうち、なぜかよくわからないんだけどグングン惹かれていき、私の中でダントツ一番のブログになりました。

心屋さんの本も一冊だけ読みましたが、正直、フツー(ゴメンなさい(^_^;)。他の心理系の本との違いがわからなかった。私の場合、アカデミックなものも、読み物的なものも、心理学の本はそれなりに読んできたので、書籍という形で整理された文章には鮮明なインパクトを感じなかったのだと思います。

その点、ブログは心屋さんの生の感情もダイレクトに入ってきて荒削りなところがある分、独特で、個性的な表現が目に飛び込んできやすい。他の人の著書と言ってることは似ていても、心屋さん独自の、他にはない表現が妙に残る。頭で理解するんじゃなくて、「やってみよう」と行動に駆り立てる凄さがあります。

一番響いたのが、この言葉。

嫌われてもいい


見事なまでの逆説です。
他の心理系の本でこんなフレーズ聞いたことない。

嫌われることを恐れるな、
はよく聞くけど、
嫌われてもいい、
って。

そんなネガティヴフレーズ正面切って言っちゃていいのー?

だから、最初は「はぁ?」って反応します。「そんなのやだよ」と。「マイナス思考じゃん」と。

でも、そこに何かがある直感。確かで動かしがたい直感。だから、こだわる。

こだわるから、自分なりの、自分だけの理解を必死に探し、そしてあるとき自分にふっと落ちるんです。


以下、私が落とし込んだ理解。


嫌われてもいいというフレーズは、「嫌われること」を受け入れようということではありません。

「嫌われること」を恐れる人、そこに果てしないエネルギーを注ぐ人が、「嫌われる」恐怖から注意をそらす効果をねらったものです。そこに注いでいたエネルギーを取り戻すおまじない。だから、「嫌われる」には焦点が当たらなくなる。

私は、ママ友集団など大勢の顔見知りが集まる場に出向く時に胸にザワザワ感がやってきて体が重くなります。
緊張を感じさせる人や場面に出向く時にもなんともいえない不快感に満たされます。

自分は行きたくないんだな、ということはわかっていましたが、どうしてそうなるかはうまく説明できなかった。

この正体が、

嫌われることの恐怖、
ダメな人と言われる恐怖、
失敗することへの恐怖

だったなんて。


でも、大正解!でした。

なぜなら、


嫌われてもいいや、べーつに

なんて自分に向けてつぶやくと、確実に楽になるんです。

夏以降、何度も実験済みですから確かです。以前は会合やランチ会などに出かける時には気持ちに気合いを入れ、帰るとグッタリ疲れて家事もできなくなるほどでした。

それが今は、むしろゆるーい感じ、どっちでもいいやー、な感じで出かけて、心地よい疲れとともに帰宅することが多いです。

嫌われることへの恐怖が遠のき、エネルギーがそっちに流れなくなったからなんですね。だから、楽しむ余裕も生まれるようになりました。

行きたくないところには極力行かないというルールも自分に許しつつあるので、どこかに行って嫌な思いをすることはさらに減少している今日この頃です。

ちなみに、
嫌われてもいい
だから、いいんです。脱力する感じがするでしょ。

嫌われることを恐れるな
だと、全然効果がない。私の場合は。緊張を強いられて、嫌われることを恐れる自分が責められてる息苦しさも感じます。

だから、

嫌われてもいい

は、わかる人にはわかるすごい表現なんです。

多分、嫌われることがさほど怖くもない人、そもそも自分が嫌われるなんてことを考えもしない人には、「嫌われてもいい」というフレーズはきっと空振りします。

「イヤイヤ、嫌われてもいいなんてわざわざ考えなくても~」なんて感じで、一笑に付されるんじゃないかな。

そういう人は逆説を必要としない、根っからの幸せ者ですよね。


心屋さんは、

嫌われてもいい
から
本当は嫌われてないのかも
本当は愛されてるのかも
どうせ愛されている

(↑この並び正確でないかも(・・;))

まで落とし込みます。

一気に「どうせ愛されてるかも」は、かなり唐突感がありますが、徐々に順番に感じ方を変えていくと、あら、なんとなく感じられちゃう。

あ、あたし人気者かも?!

なんて。

周りの人が自分をどう思っているか、好きか嫌いか、どっちでもないか、の事実には変わりがなくても、自分の意識が変わることで世界が変わることを実感する瞬間です。

そうか。
これが、「自分が世界を作っている」というからくりか。

心屋さんのブログのおかげで、私は自分の世界を少しばかり能天気に変えていけそうです。



(本も買ってないし、セミナーにも行ってないのに、こんなに大きな恩恵をもらってます。全部タダで(^_^;))



(つづく)


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ママ集団との付き合い方。

2014-10-18 11:01:39 | 育児・母稼業


幼稚園が休みになったので、息子と雑林のある公園へ行きました。

遠足で仲良しの女の子友達が緑色のドングリを拾ったのが羨ましかった息子。自分が拾ったのは茶色ばかりで悔しそうでした。

リベンジで出かけた公園で、ブランコをしてる時に見つけたのが、写真手前の小さなドングリ。

息子の嬉しそうな顔ったら、ありませんでした。

ただ、拾った時は、キレイな緑色でしたが、段々茶色になってしまいました(^_^;)


私たちは、園が休みの時はこうして2人だけで行動することが多いです。友達と約束するのが面倒なのと、団体で行動すると、楽しさがある一方自由さが減るから、ドッと疲れるんです。

一緒に行動することを何となく求められる静かな強制も苦手。自分だけならまだいいのですが、子連れ同士というシチュエーションは、より面倒を感じがちです。

リーダー的なママから、「一緒に遊びましょう」的なメールが来ても、誘いに乗らないこともしばしば。年少の時は断ることの方が多かったかも。

「あんまり、集まりに来ないよね。子ども同士が仲良くなるのは、母親同士が仲良くなるのが一番なんだけどね」

と、アドバイスを頂戴することもありました。そんなこと言われると、「やっぱりそうした方がいいのかなー」と、揺れてしまうのが私の弱いところです。

だから、最初は子どもが乗り気じゃなくても行きましたが、でもそういう時の疲れ方は尋常じゃない。息子も、さほど楽しめない、という悪循環。

不思議とそういうママたちの子どもたちは、綺麗に固まって遊びます。タイプは違いそうだけど何故かいつも一緒。そして、息子が「あそぼ」と言うと、かなり高い確率で「ダメー」とか言われます。

そして、久しぶりにまたお誘いをいただきました。

私はあんまり乗り気でないし、息子も即「いかなーい」の回答。緑色のドングリを拾いに行く約束をしていたので、やんわりお断りしました。

ここで、私が二人の選択を気持ちよく認めれば、なんてことはないんですが、

「あんまり、集まりに来ないよね。子ども同士が仲良くなるのは、母親同士が仲良くなるのが一番なんだけどね」

なんて言葉が再び頭をリフレインしてしまうので、やっかい。相手が悪気もなく言った言葉にひっかかるのは、付き合いがあんまりよくなくて、出無精の自分をどこかで責めているのかもしれません。息子をそれに付き合わせてしまっている罪悪感もあったりして。

だから、こんな時は2人の時間も心底楽しめなくなります。もったいない話ですよね。母の心のうちなんておかまいなく、目の前の息子は私と2人きりでも大はしゃぎですから。

集団遊びは否定するわけではありません。私自身が、友だち数人に声を掛けて公園で遊ぶ時もあります。ただ、その場合、同じタイプのママを選びます。だから、来る時間も帰る時間も、かなりユルい集まりになります。

子ども同士も一緒に遊んだり、親子で遊んだり、いつの間にか全然知らない集団と交わっていたり。でも、別に誰も気にしない。もちろん、次の約束もしません。

私は、集団とはこんな付き合い方が性にあっています。


他人の価値観を無理に取り入れようとせず、ただ、自分にとってストレスフリーな状況を罪悪感なく、選択していく。「これでいいや」と心から言えるのが一番ですね。

ただ、第一子の子育てという弱点もあって、子どもが絡むことだと、自分を脇に置いて、ついつい、子どもにとって、母として、なにが正しいのかを考えてしまいます。

好き嫌いで選ぶことへの躊躇が、強くなるんです。


あー、でも書いてて思いました。

子どもが絡んでも結局は、一緒でいいんですね。余分なエネルギーを消費する人付き合いに、価値を置く必要もないのかもしれません。

私も息子も楽しめないお付き合いが、息子にとっていいものであるはずがない。

他の人には価値のあるものでも、私には価値はない。

それを、誰かに承認してもらう必要もない。

ぜんぶ、私が私に認めれば済むことなんですね。








巣立ちを見届ける時の思い。

2014-10-15 16:57:38 | 日記・できごと
相手が誰であっても対等でありたい、年下であろうと対等を心がけている、そんな思いが強くありました。

でも、ぜーんぶ、思い込み。「対等でありたい」と意識する時点で、対等にはできない自分がいるということです。

それを証明する出来事と遭遇して驚きました。出来事よりも、その出来事に対して抱いた感情に自分でびっくりしたというのが正しいようです。




ある出来事とは・・・



その友人は、引っ越してきて間もない人でした。仕事を通して知り合った彼女、控えめで穏やかで、人懐こく、私はすぐに好感を持ちました。

彼女の役に立てる手ごたえが嬉しくて、地域の情報を伝え、仕事の相談にも乗り、家にも呼び、また彼女の家にも行き、仲間づくりにも協力する。

元々人助けが嫌いではないから、いつになく頑張った節があります。

友人は、その好意を気持ちよく受け取ってくれ、感謝もしてくれ、かつ私の領域に勝手に土足で踏み込まない、という見事なバランス感覚を持った人です。

いつしか、私の中に、彼女がこの地域で生きるための窓口は、私しかいないという使命感、頼られているという重圧を含んだ優越感が出来上っていたのかもしれません。

でも、使命感、重圧って、字の通り少し苦しいものなんです。自由ではない、無理のある感じ。

それを守るために犠牲になるものがあるんです。

つまり、自由でいたい自分、無理しない自分。他の友人とランチした話をするときに軽く生じる罪悪感、友人の都合を考えながら誘う、誘わないを決めるわずらわしさ。

私は、そもそも一人も大好きだし、固定の人とだけ閉鎖的に付き合う関係も苦手。

もう少し距離があってもいいかな。

もちろん、その友人が私の行動を制限するわけではないので、私が勝手に、言葉にするとこんな感じのことをうっすらと感じていたのでしょう。


そんな時、彼女が、私も知っている知人を自宅に招いたことを私にポロっと話したのです。

買い物先で偶然顔を合わせたので、「今日何してた~?」と気軽に聞く私に、彼女の口ぶりは少し気まずそうなものを含んでいました。「○○さんが来てました」。

私は、「そっか」と軽く受け流し、根掘り葉掘り聞くわけでもなく笑顔を浮かべながら彼女と別れました。すると、後から後からなんとも形容しがたい感情が湧き出てきたのです。

悲しさや嫉妬、であることは認められます。

自分だけが誘われなかったのが悲しい。
自分には声がかからなくて嫉妬した。

ここまでは自分の心の動きがわかるし、そんな自分を認めるけれど、この感情の勢いからすると、その先にもう少し根深いものがある予感がしたのです。

他の友人から、そんな話をされても別になんとも思わない。嫉妬や悲しさをわずかに感じても、すぐに忘れるレベルです。

自分の中に渦巻く感情の意味がわからず、しばらくはもてあましました。

ただ、「彼女は悪くない」ということだけは、わかっていました。


やがて、ふっとしたときに気づきを得ました。



ああ、そうか。

これは、私が助けてあげなきゃと思って助けてあげてた人が、私がいないと困ってしまうだろうと思ってきた人が、自分の力で立てるようになるのがわかって、自分の力で新しい関係を作っていける姿を目の当たりにして、そうやって自分から巣立つときに、私の中に生じた悲しみなんだ。

私はもう要らないと言われたような気にさせられた悲しさなんだ。


私にも、そんな傲慢な意識、人を弱者にする意識があるんだということです。ただ、そんな自分を否定せず、そんな部分も認めて、嫉妬や悲しみの感情にも蓋をしないでしばらくいたら、やがてスッキリとした気持ちになりました。

友人の方が、どういう心境だったのかはわかりません。

私の、不自由さとわずらわしさを無意識で感じとって遠慮したのかもしれないし、巣立ちの儀式として私を排除したのかもしれない。私と同じように、色々な人と色々な形でつながりなかったのかもしれません。


この出来事を経て、やっと、私と彼女は対等になったということです。

少なくとも私の意識の中で、彼女は常に助けを必要とする人ではなくなった。私が常に気にかけないといけない人でもなくなった。最初から、もちろん対等だっんですが、こうした気付きがあるということは、私は彼女を対等に見ていなかったということです。

ただ、今思うのは、私のなかにあった使命感や優越感は、もしかしてあのときの私と友人には必要で心地の良いものだったのかもしれない。時間の経過の中で本来の自分が少しずつ顔を出して、お互いの心の中にも新しい変化が起きた。そして、その関係のあり方がもう用無しになったということ。

これからは、助けられるばかりでも助けるばかりでもない対等の関係が始まるのだと思います。実際に、もう始まっています。




息子が巣立つときも、きっと同じような感情を味わうのでしょう。もちろん、もっと強烈なやつでしょうけどね。

今回のことがあったので思うんですが、息子の巣立ちには母の無意識の願望もつながっています。

ずっと子供をそばに置いておきたい、自分が守ってあげたいという意識がすべてではありません。子育てから自由になりたい、わずらさしさから解放されたい、という本心が母の中にも必ずあるのです。むしろ生き物的には、そちらが本物かもしれません。そして、それを察知する子供が、自ずと自立に向かう。

だから、子供の巣立ちの時空っぽになる自分、置いていかれる自分、役に立たない自分をイメージして怖れる必要はない。親離れ子離れを焦る必要もない。

実際の巣立ちの時、たとえ一時的にそういう心境にはなっても、そうした母としてのエゴ的な悲しみを十分に味わったら、本当の自分が夢見ていた底知れぬ開放感と自由を手に入れることができるのかもしません。

そして、巣立ちを迎えた息子とだって、新しい、対等の関係が始まる。そう信じています。








大丈夫?って聞かれたくない。

2014-10-13 15:08:51 | My メソッド
大丈夫?って聞かれたら
「大丈夫じゃないよ~」
と泣きつきたくなるときと、

自分の力を低く見積もられたみたいで
「大丈夫っ!」
って腹立たしく言い返す時がある。


違いは、なんだろう。


息子とのやりとりで、そんなことをふと思った。

年中の部屋には、年少の部屋にあった電車や車のおもちゃがなくなってブロックだけになったらしく、

「プラレールとトミカもないの?えー、つまんないね。大丈夫?」


と、やや大げさに言う私。

「だ、大丈夫だよ。心配しないでよ。大丈夫だからー」


と、めっちゃ必死にいう息子。

なんか、その必死さが笑えて、思春期みたいな言い草がおかしくて、もう一度聞いてみる。

「大丈夫?ブロックだけでいいの?」

「いいの、いいの、いいの。大丈夫だから」


やっぱり必死感(^_^;)

でも、成長したなぁ、大人っぽくなっなぁ、と嬉しくて、頼もしい。

で、この必死感の正体はなんだろう、と軽い疑問。

あれかな。

心配されるのがイヤ、思春期的に言ったら、子供扱いする母がウザい。

オレはちゃんとやれてるんだよ、トミカやプラレールがなくてもブロックで車も電車も作れるし、大丈夫?って、それじゃあ、オレがまるでガマンのできない赤ちゃんみたいじゃないかよ。

みたいな感じなのかしら。

そうかと思うと、ちょっと転んだくらいて、ちょっとお父さんに怒られたくらいで、大泣きして赤ちゃんになるときもある。大丈夫だよね?なんて、言った日には「大丈夫じゃないよー」の10倍返しにあう。

これ、子どもに限った話ではなくて、大人にもある話。私にもそんな心境の時があると思う。

大丈夫?って聞いてもらいたい時は、やっぱり大丈夫じゃない時かな。自分がいっぱいいっぱいで、大丈夫じゃないことをわかって欲しい時。聞いてくれる人はある程度甘えられる相手という条件がつく。

そういう時にも、強がって大丈夫って言ってしまう時もあるけどね。

大丈夫?って聞かれてイヤな感じをするときは、劣等感を刺激される時。子供なら背伸びしたい時。

大丈夫?が「大丈夫じゃない人」というレッテルを自分に貼ることになる感じを自覚するから、相手の言い方にそのニュアンスを読み取って、「大丈夫に決まってるじゃん。バカにしないでよ」って心境になるんだね。


大丈夫な人、
大丈夫じゃない人。


人間って、子供でも、大人になっても、どっちにも思われたいんだね。そのバランスが大事なんだね、きっと。


基本は大丈夫な人なんだけど、
大丈夫じゃない時もある。


私は、それくらいが、理想かな。そんな人でありたいです。












生の尾崎豊を見られなかった後悔。

2014-10-09 09:08:23 | ひとりごと
せっかくお目にかかれた双雲さんに、握手をお願いできたかったヘタレな私。

自分なんて、の卑下なのか、恥ずかしい、という感情か、自意識過剰の自分の所作に、自分でも笑ってしまう。

取るにたりない自分なんて捨てちゃえ、
今、この邂逅を、一期一会を無駄にするな、と鼓舞する自分もいたりする。

こういう後悔は、実はタチが悪い。

ああ、あれに似ているな、と思う。

実人生は、いろいろ帳尻を合わせてきたから後悔を実感するものはない。そういう意味では、幸せな人生だ。私の人生。

実人生以外のところで思い浮かぶ後悔は、そうこれだけ。


生きていた頃の尾崎豊のライブに行かなかったこと。

行けなかったんじゃなくて、行かなかった、という後悔。

私が大学生になった頃、尾崎は生涯最後のツアーを敢行していた。新聞広告でそれを知った母が、「行く?」と聞いた。母も尾崎が好きだったから。

私は、茶化すように「行かない」と言った。

一番尾崎にいれあげていたのは、高校一年生のとき。覚せい剤で逮捕された尾崎がやったコンサートは、東京ドームで一度きりだったから、その頃は機会がなかった。

大学生になって今さら「尾崎豊に会いたい」でもなかった。

いや、本音を言えば、尾崎は相変わらず好きだったけれども、大学生か熱をあげる音楽じゃない、と冷めたフリをしてたのかな。

私が二十歳の頃に、尾崎は死んだ。

尾崎は、ものすごく有名になったから、彼の音楽や映像やエピソードに触れる機会は飛躍的に増えた。

でも、彼の死が悲しくてたまらなかった。しばらく塞ぎ込んでしまうほど、寂しかった。

そして、あんなに尾崎を好きで、こんなに悲嘆にくれている私が、生の尾崎豊を知らないという事実が絶叫したくなるほど悔しかった。

魂が存在すると言われても、音楽は遺ったと言われても、それは、人間の尾崎豊じゃない。歴史上の人物でなく、同時代を生きる、生の尾崎豊が見たいんだ。最後にステージを見る機会だってあったのに。私が断ったばっかりに。カッコつけずに、母と見に行けばよかったんだ。

わかっているよ。

生の尾崎豊を見たからといって、何かが変わったわけでもないし、尾崎が死んだ悲しみが減ったわけでもない。

私は、後悔したいんだ。ただ、強烈な後悔という形で彼を記憶したいんだね。

でもね、やっぱり、どんなことも機会があったら、その時しっかり受け取らないとダメだよね。

形を変えて機会は来たとしても、その時その瞬間の機会は二度と来ないものだから。

うん、だから。

双雲さんの握手の列に並ぶのを躊躇するようなヘタレーをやらかすと、私、猛烈に自分にダメ出ししたくなるんだよ。

もう、後悔はしたくないって思ったはずなのにって。

改めて、もう後悔はしたくない。

次こそは、だね。








金魚、絶対絶命。

2014-10-08 18:10:31 | 日記・できごと
この子たちが、我が家に来てからたったの1週間。


同じ日に、7匹のうち3匹が天に召されました。
残っているのは4匹。

ちなみに、息子は金魚の死を悼むのではなく、引き算を練習するネタにしています(^_^;)

「7引く3だから4だ。4匹。正解?」

「正解!」と言うと得意満面の息子の隣で意気消沈なのは、夫です。金魚担当を自任しています。

原因は、えさのやりすぎ。おそらく。

安い大粒のエサを与えても食べないので、夫は新しいエサを買いに走りさっそく与えました。

食べる食べる金魚たち。

安いエサのせいで空腹だったお腹を満たすのに必死な様子。

嬉しくなった夫は、ひもじそうな金魚を見てられなくて、ついついまた与える。

惨事は翌日でした。

濁った水槽の中に、死んでる一匹と息絶え絶えのもう一匹。

発見した私が勤務中の夫にメールで伝えると、ショックで声の小さい夫から昼休みに緊急電話。
夜中のうちに、既に別の一匹が絶命したんだとか。

「あのさ、この水まずいよね。エサのやりすぎで濁ってる」

私が言うと、夫は答えます。

「だって、水の交換は一ヶ月置きっで、ネットで見たから」

いやいや、そんなこと言ってる場合?
この濁り方、尋常じゃないんだけど。

「でも、ネットに‥」

まだ言うか、という感じでしたが、息絶え絶え君が絶命したと再びメールすると、夫もようやく目が覚めたようです。

仕事帰りにポンプを購入して帰り、深夜の水交換作戦です。

水は綺麗になり、残りの4匹は息を吹き返したように元気になりました。夫からは、ようやく笑みが。

仕事中、私からメールがあるたび、金魚に何かあったのでは、とドキドキしてたそうな。

三匹の金魚たちの命と引き換えに、私たちが学んだこと。


エサは足りないくらいでちょうどいい。

関心もほどほどくらいがいいのでは。

ここぞの時は既成の知識は捨てちまおう。


生き物を飼うのって、なかなか奥深いです。

淡々とやり過ごす。

2014-10-06 17:28:20 | My メソッド
台風一過でさわやかな空気が気持ちいい夜です。

ところが、体調は、気圧の影響か、寒暖の落差のためか、もっと大きな季節の変わり目によるものなのか、全体的によくありません。

だるい、疲れやすい、果てしなく眠い。

そして細かく見ていくと、
鼻炎、口内炎、胃の不調、ヘソの炎症。
と、まあ、私の持病オンパレードです。
次から次から、やってくる。

以前なら、
気分ももっていかれてました。

「いつまでつづくんだろう?」
「何か重い病気が潜んでる?」
「ずっと治らなかった、どうしよう」

そして、
「なんとしても治さなくちゃ」
「原因を突き止めなくちゃ」

と焦る焦る。

症状に必要以上にエネルギーを注いでました。

意を決して、病院に行って、
変わらないこともあれば、薬が効くこともある。そんな繰り返しでした。


今は、病院に行こうかとも思わない。

もちろん、痛みや症状が強いと、手持ちの薬に頼ります。

ただ、違うのは、症状に意識を向けない。淡々とやり過ごしていれば、いつか終わるとわかっているから。

どうにかしなきゃ、
と気持ちが焦らないから、気持ちも楽ですし、症状がこじれることもなくなりました。ひとつずつ、きちんと終わります。


通っている気功教室の先生も同じようなことを言っていました。

痛みがきたら、いちいち反応しないで、
「あ、来たな」とやり過ごしましょう。
やがて去っていきますから。

それと、何がなんでも気功でなんとかするぞ、と力むのも考えもの。
急性疾患は、西洋医学が得意とするところですから、炎症がある場合などは病院に行ってください。使い分けが大事です。


自分の中に湧き上がる違和感も、嫌な出来事も同じです。

いちいち反応しない。

敵視してじたばたしたり、余計な手を加えると悪化する。

ただ、淡々とやりすごす。
なかなか難しいのですが、とても大切なことです。




武田双雲さんに会いに行きました。

2014-10-06 13:00:58 | 本・映画・音楽
横浜高島屋で個展開催中の武田双雲さん。

昨日は、生双雲さんに会えるということで、台風の大雨のなか、トークショー&パフォーマンスに夫と息子と3人で行ってました!

あらかじめ、高島屋に電話してトークショーの時間を確認。パフォーマンスを先にやるとのことなので、息子にも見せてあげたい!とワクワク気分でタクシーに乗りこみました。

高島屋の1階ギャラリーでやる予定が、台風のため、7階画廊に場所が変更。

画廊に到着して、すごい人だかりに呆然。いざ双雲さんが登場しても、姿はほとんど見えず。夫が息子を肩車しますが、クラクラするような熱気で息子は段々機嫌が下降。

パフォーマンスは、なかなか始まらない。トークは面白いけど、私としては「お願い、パフォーマンス早くしてー」の心境。結局、息子脱落で「あーあ」の途中退場でした。

その道の本物の人と、書の醍醐味を見せてあげたかったんだけど、残念です。

私、ひとりになってからは、ゆっくりトークもパフォーマンスも楽しめました。「躁気味だから、雨でちょうどいいんですよ」という双雲さん、オヤジギャグを織り交ぜながら、どちらかというと書の話より「生き方」講座っぽかったかな。

「ポジティブの教科書」など自己啓発本のベストセラー作家でもある方ですが、やっぱり書家として一流の方なんですね。

私も書家以外の顔から双雲さんに魅了されたくちで、双雲さんの書は初めて拝見しました。

パフォーマンスを見ても、展示されている作品を見てもなるほど凄まじい才能です。素人が見ても圧倒されました。

トークショーが終わると、握手希望のお客さんたちの長蛇の列。一人ひとりまるで知り合いみたいに気さくに話しかけている様が素敵でした。

ヘタレな私は、物怖じしてそのまま退散です(^_^;)



一方息子なんですが、「なんのために横浜まで‥‥」になるところでしたが、ちゃんとおまけを用意しました。


カップヌードルミュージアムです。台風にもかかわらず大盛況でした!

オリジナルカップヌードルを作ったり、アスレチックを楽しんだり、帰りはびしょ濡れになりましたが、でも、なかなかの1日になりました(*^^*)


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